原作:井上 靖
【登場人物】
山本勘助(やまもと かんすけ):大林勘助。幼名は源助。30代前半。隻眼で片脚を引き摺る浪人者。
ミツ:葛笠村の百姓の娘。伝助の妹。20歳前後。偶然出会った勘助と心通わせていく。
伝助(でんすけ):ミツの兄。20代後半。葛笠村の百姓。
平蔵(へいぞう):葛笠村の百姓。20代後半。ミツに惚れている。
-武田-
武田信虎(たけだ のぶとら):甲斐の国主。勝千代の父。40代前半。
板垣信方(いたがき のぶかた):武田家家臣。40代前半。勝千代の傅役(世話役)。
甘利虎泰(あまり とらやす):武田家家臣。40代前半。
原虎胤(はら とらたね):武田家家臣。30代後半。
勝千代(かつちよ):後の武田信玄。信虎の嫡男。10代前半。
次郎(じろう):後の武田信繁、信虎の次男。10歳前後。
大井夫人(おおいふじん):信虎の正室。勝千代の母。30代後半。
-今川-
今川氏輝(いまがわ うじてる):駿河・今川家の当主。20代。
寿桂尼(じゅけいに):今川氏輝の母。40代。
庵原忠胤(いはら ただたね):今川家家臣。勘助の大叔父。50代。 ※30代。
牧野成勝(まきの しげかつ):三河・牛窪城主。今川家に服属している。 40代。
-その他-
大林勘左衛門(おおばやし かんざえもん):牧野の家来。勘兵衛の実父。勘助の養父。50代。
大林勘兵衛(おおばやし かんべえ):勘左衛門の嫡子。勘助の義弟。14歳。
菊代(きくよ):勘左衛門の妻。勘兵衛の実母。勘助の養母。40代。
山本貞幸(やまもと さだゆき):勘助の実父。※30代。
山本貞久(やまもと さだひさ):勘助の実兄。幼名は藤七(とうしち)。40代。 ※13-14歳。
やす:勘助の実母。※30代。
※回想時の年齢
【配役】♂4:♀2 約30分
勘助/貞幸/原(♂):
大林/甘利/武士A/男(♂):
庵原/板垣/平蔵/牧野/勘兵衛(♂):
貞久/信虎/伝助/氏輝/藤七(♂):
源助/勝千代/菊代/寿桂尼(♀):
ナレ/次郎/やす/ミツ/大井(♀):
------【 本 編 】------
■三河・牛窪■
ナレ 「勘助が、諸国を巡る修行の旅を終え、故郷の三河・牛窪へ帰ってきた。実に、15年の歳月が流れていた。
その頃の三河・牛窪は、駿河・今川方に属する牛窪城主・牧野成勝(まきのしげかつ)が支配し
今川の三河進出の拠点を築く役目にあった。
その城下の家臣屋敷に、勘助の養父、大林勘左衛門が居たとされている」
勘助 「……父上」
ナレ 「勘助は、大林家へ辿り着いた。しかし、目の前には、若き武将に叱責している養父の姿があった」
大林 「このぉ、臆病者めがぁ!! お前それでも、この大林を継ぐ嫡男かぁ!!」
勘兵衛「面目次第もござりません! どうか、お許しを!!」
大林 「何ということじゃ。まこと情けない。……もうよい、さっさと中へ入れ」
勘助 「父上。お久しゅうございます」
大林 「……勘助?」
勘助 「……父上。勘助、ただ今、帰りましてござりまする」
大林 「あ、あぁ。……これ、勘兵衛。何を虚(うつ)けた顔をして見ておるか。其方(そち)の兄者じゃ。
其方(そち)が産まれる前に、出家した兄者じゃ」
勘助 「なれば、この方は……」
菊代 「勘兵衛、何をしておるのじゃ。湯漬けが冷めて……!! ……勘助!」
勘助 「母上。お久しゅうござりまする」
大林 「産まれたのじゃ。其方(そなた)がこの家を出てから、菊代に子がな」
菊代 「勘兵衛、早よぉ」
ナレ 「そう言うと、菊代は家の中へ消えていく。勘兵衛も、勘助に一礼して家の中へ入っていった」
大林 「今年で十四。元服したのじゃ」
勘助 「……」
間
ナレ 「大林家の家の中。勘兵衛は湯漬けを食べている。別の部屋では、勘助と養父・勘左衛門が話していた」
勘助 「父上。長らくのご無沙汰、お許しくだされ」
大林 「うむ。‥‥‥ずっと、諸国を行脚しておったのか」
勘助 「はい。修行者に身を窶(やつ)し、高名な兵法者、軍略家を訪ね、また、戦乱の京に上りましては
足軽稼ぎも致しました」
大林 「おぉ、足軽をやっておったか」
勘助 「二十五の時、紀州高野山に参篭(さんろう)いたし、摩利支天を授かり、それ以後は、四国、九州
山陰山陽巡歴、戦に参じいたす事、幾たびか」
大林 「武功を立てる為にか」
勘助 「然(さ)にあらず。全ては、兵法を極めんが為にござりまする」
大林 「兵法?」
勘助 「軍配の道にござる」
大林 「ほぉ。……まぁ、左様な事であったか。それはご苦労な事じゃった。……(ため息)それに比べ……」
勘助 「……は?」
大林 「勘兵衛じゃ。倅の事じゃ。此度の初陣(ういじん)は、ちと早すぎたか」
勘助 「此度の戦とは、万沢口の出兵にござりまするか?」
大林 「うむ、そうじゃ。今川に合力しての出陣じゃった。そこで手柄を挙げるどころか、落ち延びるのがやっと。
山にこもり、落ち武者狩りをやりすごしておったと言うのじゃからな。
初陣の武勇など、飾りようがあるまい」
勘助 「父上」
大林 「ん?」
勘助 「実は某も、その戦に加わっておりました」
大林 「!! まことか!?」
勘助 「浪人者としての加勢に過ぎず、三河の者と出会う事もなりませなんだが。
武田家が兜首(かぶとくび)ひとつ、討ち取ってござりまする!」
大林 「なにぃ?」
間
ナレ 「縁側で、兜首を晒す勘助。それを見た勘兵衛は、思わず吐き気をもよおした」
勘兵衛「うぇ。ごほっ。うぉぇぇぇぇえええ!」
大林 「誠に、侍大将の首か?」
勘助 「武田家直臣、赤部下野守(あかべしもつけのかみ)が首に相違ござらん」
大林 「ほぉ」
勘助 「某、これを持参し、牧野家の家臣、いや、出来ますれば、いずれ今川家の直臣に取り立てて頂きとう存じまする」
大林 「今川の直臣に……」
勘助 「某、生涯を浪々の身で終わるつもりはござりませぬ。いずれ、大林家の名を、天下に轟かせたく存じまする」
勘兵衛「うぇぇ。うぇぇぇ!」
大林 「……」
菊代 「勘兵衛、風呂の支度が出来ましたよ」
大林 「ならん!! 勘助が先じゃ! 風呂は、勘助が先じゃ!!」
間
ナレ 「勘助は風呂に浸かりながら、過去の自身を思い出していた」
★回想(24年前)★
ナレ 「勘助の生国は、三河・牛窪ではなかった。駿河・富士郡山本村。
勘助は明応9年に、その地名を姓に持つ郷士(ごうし)の家に産まれた。
幼き頃の名は源助だった」
源助 「いやじゃ!いやじゃ!!」
やす 「源助!!」
源助 「出家は嫌じゃ!! 出家しとうはござりませぬ!!」
やす 「源助……」
源助 「出家は嫌じゃ!!」
貞幸 「何を今さら申しておるか! 源助、主も一度は合点したこと。この期に及んで翻すとは、恥ずべき了見ぞ!」
源助 「父上、源助も侍に。父上と同じ侍になりとうござります!」
貞幸 「無理じゃ。それは無理じゃと申しておろう!」
源助 「何故(なにゆえ)です! この眼が見えぬからですか?」
貞幸 「それにその脚じゃ。……どうあがいても、其方(そち)を取り立てる主はおるまい。
其方(そち)が不憫になるだけじゃ」
やす 「その脚は、幼き頃、そなたに厳しくしすぎた父上のせい」
貞幸 「何を申すか」
やす 「そうしたのは、そなたを煩わせ、その眼から光を奪った、この母のせい。源助……許しておくれ」
源助 「……母上」
やす 「御仏(みほとけ)の道に仕える事は、悪しき親を持った其方(そなた)の運命(さだめ)と心得(こころえ)
どうか、心安き生き方を……」
藤七 「源助。これ以上、母上を泣かすな」
源助 「源助は、武士になっても母上は泣かせませぬ!」
藤七 「まだ左様な事を申すか。分からんのか己が!」
やす 「さぁ源助。大林殿をお待たせしてはなりませぬ」
源助 「嫌じゃあ!!」
大林 「ま、まぁ良いのじゃ。無理に引き離すようでは、道中わしも心持ち悪いでな」
庵原 「……源助!」
ナレ 「ずっと目を瞑って座っていた、今川家家臣・庵原忠胤が、すっと立ち上がり、源助に語り掛けた」
庵原 「……父上も母上も、其方(そなた)を捨てるのではないぞ。それこそ了見違いというものだ」
やす 「叔父上」
庵原 「よいか。例え大名家に生まれようとも、次男、三男ともなれば、幼き頃に寺に入り修行することは珍しき事ではない。
わしが弟も、富士の善徳寺にて出家し、今は京の建仁寺(けんにんじ)に上って修行しておる。
三河の寺で過ごす事も、其方(そなた)の行く末にとって、決して無駄になる事ではないぞ」
源助 「……ひとつだけ、お願いがござりまする」
貞幸 「何じゃ?」
源助 「兄者と、剣術の勝負を!」
藤七 「なに?」
源助 「それに負けますれば、源助、出家しとう存じまする」
藤七 「たわけた事を。このわしに、敵うと思うてか!」
貞幸 「わかった! ……それで気が済むのだな、源助」
ナレ 「そして、源助と藤七はお互い木刀を持ち、向き合った」
大林 「はじめ!!」
源助 「やぁ!!」
藤七 「えい!!」
ナレ 「二人は探り合いながらも、木刀を重ねる。
年齢差、体格差のある兄弟だけに、すぐに藤七に軍配があがると思われた。
しかし源助もなかなか粘る。力は拮抗していた」
貞幸 「……えぇい、何をしておる! 藤七、それでも山本家の嫡男か! 死角へ回らぬか死角へ!」
ナレ 「藤七は、源助の死角へ死角へと回り込む。しびれを切らした源助が斬りかかる。が、刀を弾かれ万事休す」
大林 「それまで!!」
やす 「源助!!」
ナレ 「源助の目から涙がこぼれた。それを見た大林勘左衛門が、源助の父・貞幸に話しかける」
大林 「……山本殿。お願いがござる。……わしには、子がおらんでな。いずれ、養子をとらねばと思っておったのじゃが」
貞幸 「大林殿!」
大林 「うむ。わしは、山本殿が三河におられた頃、其方(そなた)と、やす殿を引き合わした朋輩(ほうばい)じゃ。
そのお二人の子とあらば、わしとて他人とは思えぬ。……源助を、わしに下さらぬか?」
貞幸 「……大林殿」
間
やす 「母は、其方(そなた)がどのような生き方を望もうとも、其方(そなた)に生き長らえて欲しいと願うておるのです。
それだけはどうか、忘れぬよう」
源助 「母上」
やす 「それは、父上も同じ想いなのです。父上を、恨んではなりませぬぞ。よいですね」
源助 「……」
ナレ 「こうして源助は、大林勘左衛門の養子となり、名を大林勘助と改めた。
しかし、元服しても城主・牧野家に仕官は許されず、二十歳の時、諸国巡歴の武者修行の旅に出たのであった」
-回想終わり-
■三河・牛窪 大林家■
ナレ 「風呂から出た勘助は、眼帯をする暇(いとま)もないまま、養母・菊代に呼び止められた」
菊代 「勘助。なぜ其方(そなた)は、その顔を隠さぬのです? 其方(そなた)まさか、当てつけに帰ったのではあるまいな?」
勘助 「……当てつけ?」
菊代 「斯様に痛ましい姿で、何を望んで大林家に戻ったのか」
勘助 「母上……」
菊代 「(被せ気味に)そなたは仏門に入ったものと、この城下の昔を知る者は皆、信じておりまする。
これ以上、父上に恥をかかせてはならぬ! よいの?」 ※よいの?=わかったな?の意味
勘助 「父上は、いずこに」
菊代 「存じませぬ!」
ナレ 「菊代はそう言って表戸をピシャっと閉めた。縁側へ向かった勘助は、赤部の兜首が紛失している事に気づく」
■三河・牛窪 牛窪城■
ナレ 「ここは、牛窪城。城主・牧野成勝(まきのしげかつ)の前には、大林勘左衛門が居た」
牧野 「……この兜首を、その方が嫡子・勘兵衛が討ち取ったと申すのか」
大林 「ははーー」
牧野 「して、今頃に帰陣するというのは、どういう事じゃ?」
大林 「ははっ、畏れながら申し上げまする。この勘兵衛、なにぶん初陣にて、武勇を飾ろうと気がはやり
敵陣中へ、一人で深入りした次第にござりまする」
牧野 「うむ」
大林 「合戦も終わりがけの事、陣を退く敵に追い討ちをかけまして。
武運よく敵物頭(ものがしら)が首を討ち取ったまでは良かったものの、深入りにすぎ
四方を敵に囲まれ、致し方なく山中(さんちゅう)へ逃げ込み、日を過ごしていた。
との事に、ござりまする!」
牧野 「そうか、あい分かった。もう下がってよいぞ」
大林 「ははーー」
■三河・牛窪 城下町■
ナレ 「牛窪城からの帰り道、勘左衛門と勘兵衛親子は、城下町でバッタリ勘助と出くわす。
勘左衛門は、勘助と目が合うやいなや、気まずそうに勘兵衛に言った」
大林 「勘兵衛、先に帰っておれ」
勘兵衛「しかし、父上」
大林 「帰っておれ」
ナレ 「そう言われ、勘兵衛は、その場を立ち去った」
大林 「……勘助。すまぬ事であった。……天下に名を成すなどと、今のわしには、分(ぶ)の過ぎたる事じゃ。
……牧野の家来として、生き長らえねばならぬ。……此度の事は」
勘助 「ご案じ召されるな。兜首ひとつ、今の某には、何の役にも立ち申さぬ。
それで、ただ一度の孝行が出来たのであれば、嬉しきかぎりでござる。
父上のお心に適い、いっそ、すっきりし申した」
大林 「……勘助」
勘助 「……これにて某、大林の名を、きっぱり捨て申した」
大林 「!!」
勘助 「これよりは、山本勘助。山本勘助の名を背負うていきまする。……御免」
大林 「勘助!! ……いずこへ、参るのじゃ」
勘助 「……わかりませぬ」
大林 「言いそびれておったが、其方(そなた)の父と母は、其方が放浪中に、身罷(みまか)られた。
……もうじき、やす殿の、ご命日じゃ」
勘助 「もとより、駿河は捨ててござる。……御免!」
ナレ 「歩き去っていく勘助の後ろ姿を見送る勘左衛門。これが、『山本勘助』誕生の瞬間であった」
■甲斐・葛笠村■
ナレ 「甲斐・葛笠村には、のちの信玄となる勝千代と、武田家家臣が居た。
陣中より消えた赤部下野守(あかべしもつけのかみ)の遺体が、この村で見つかったとの事だった」
勝千代「……これが、戦で討ち取られた者の姿か」
甘利 「若様は、斯様なものをお目にするのは、初めてでございましょうなぁ。
来年、元服なさりますれば、嫌でも目にしますぞ。もっとも、敵の武将に限りまするがの」
原 「見つけたのは、この村の百姓にて。この者たちにござりまする。そうであったな?」
伝助 「へぇ。そうでごいす」
平蔵 「川岸に、流れ着いてたぁでごいす」
甘利 「若様、赤部下野守(あかべしもつけのかみ)は、平素より悪行目立ち、無分別な事、目に余るものあり。
御館様も、手を焼かれてございました」
板垣 「若、赤部一族は既に、御館様の命により追放されてござりまする」
甘利 「それにしても、この斬り口。見事なものじゃ。御覧なさりませ、斬り口が爆ぜかえっておりまする。
これは、運よく屍から拾い首をしたのではなく、生きたままに、討ち取られたものにございまする。
……百姓や徒武者(かちむしゃ)の所業とは、到底思えぬ。相当、戦慣れした者に違いあるまい」
平蔵 「……浪人じゃ」
甘利 「ん?」
平蔵 「三河の浪人者がやったんでごいす!!」
伝助 「おい!」
原 「三河の浪人者? 伝助、其方(そち)が連れてまいった者か」
伝助 「は、ははーー」
甘利 「何者じゃ」
原 「いえ、面妖な浪人者が、我らに加勢したいと。伝助、そやつは死んだのではなかったか?」
伝助 「へ、へえ、実は、逃げられちまったんでごいす」
平蔵 「その浪人が村に来て、赤部様を殺したぁだ!!」
伝助 「誰も見たものはおりません!」
平蔵 「いてっ!!」
ナレ 「突然、平蔵の頭に石が当たる。茂みの奥から投げられたようである」
板垣 「ん? なに奴じゃ! 出てまいれ!!」
ナレ 「茂みから、おそるおそる顔を出したのは、ミツだった。
ミツは茂みから出てくると、平蔵たちと並んで家臣たちの前にひれ伏した」
板垣 「お主が石を投げたのか」
ミツ 「申し訳ねぇでごいす! お許しくだせぇ!!」
板垣 「この者を狙ろうて投げたなら、たいした腕じゃ、はっはっは」
伝助 「妹の、ミツでごいす。どうか、お許しを!」
原 「伝助の妹か」
甘利 「その三河浪人、今川の者であろう。隠し立てならんぞ!!」
ナレ 「その時、勝千代が、ミツの前へ歩き出した」
板垣 「若!」
ナレ 「勝千代は、ミツが首から何かを下げている事に気が付いた」
勝千代「……摩利支天か。斯の様なものを、なぜ其方(そなた)が?」
ミツ 「た、旅のお坊さんから貰ったぁでごいす」
勝千代「見せよ」
ナレ 「勝千代は、摩利支天をその手に持った」
勝千代「三面六臂(さんめんろっぴ)にして、4匹の猪に乗っておるか。珍しいな」
ミツ 「戦の神様でごいすか?」
勝千代「もとは陽炎(かげろう)。陽の光より生まれし神じゃ。それを武士(もののふ)は護り本尊としている。
あらゆる苦難、災厄を退け、其方(そなた)の身を護ってくれよう。
国を護る我らにとって、其方(そなた)も国の内じゃ。戦に出づれば、斯様にありたいものじゃ」
ミツ 「……」
■甲斐・府中 躑躅ヶ崎■
ナレ 「場所は変わって、甲斐府中、躑躅ヶ崎の館。武田の本拠地である」
勝千代「父上。父上秘蔵の影馬(かげうま)を、是非とも、この勝千代にお譲りください」
信虎 「鬼影(おにかげ)を?」
勝千代「はい!」
信虎 「なにゆえじゃ」
勝千代「初陣の為にござります。初陣の折は、後詰(ごづめ)くらいは務められるよう
良い馬を貰い、板垣に習っておきたいのです」
大井 「……勝千代。その心構え、あっぱれな事。なれどあの馬は、御館様にしか乗りこなせぬ馬にござりまするぞ」
勝千代「なればこそ、乗りこなしてみたいのです。父上、お頼み申しまする」
信虎 「……鬼影は無用じゃ。其方(そち)には合わん」
勝千代「父上!」
信虎 「元服を待てばよかろう。元服を致せば、わしの左文字の太刀や脇差も、残らず其方(そち)に、くれてやろう」
勝千代「それらの物こそ、元服したとて無用に存じます」
信虎 「なにぃ!?」
板垣 「若殿!」
勝千代「太刀や脇差、御旗盾無(みはたたてなし)の鎧と共に、武田家伝来の物
それらは全て家督を継ぐ折に頂戴致しまする。
今は、父上の馬を」
信虎 「心得違いを致すな!」
勝千代「!!」
信虎 「したり顔をして何を申すか。家督を譲るも譲らぬも、このわしの胸三寸じゃ!
先祖伝来の物を譲ると言うに、要らぬと申すなら、武田家の総領は、其方(そち)の弟、次郎に譲るまでじゃ!」
板垣 「お待ちくだされ、御館様!」
信虎 「えぇい下がれ! 下がれぇぇ!!」
勝千代「……」
■駿河・富士郡山本村■
ナレ 「その頃、勘助は自身の生国である駿河に居た。富士郡山本村に、ひっそり建てられた両親の墓を拝んでいた」
勘助 「……母上。……勘助は、……愚かでござる。……生き長らえるは、愚かな事に存じまする」
ナレ 「そこへ、一人の武士が現れる」
貞久 「……源助?」
勘助 「……兄者!」
ナレ 「現れたのは、勘助の兄、藤七である。元服してからは、山本家を継ぎ、山本貞久と名を改めていた」
貞久 「……そなた、出家したのではなかったか」
勘助 「……出家は、致しておりませぬ」
貞久 「大林殿は、そう仰せだった」
勘助 「……大林家は、去ってまいった所にござります」
貞久 「……そうか。
大林殿も、辛き思いをしたようじゃ。実子が産まれた故、其方(そなた)を追い出したと、城下で噂されてのう。
源助。息災であったか?」
勘助 「はい! 今は、勘助にござります」
貞久 「そうであったのう。其方(そち)の息災を知り、亡き母上も喜んでおられよう」
勘助 「……兄者は、変わられ申したのう」
貞久 「ん? 変わったか?」
勘助 「お優しくなられたように存じまする」
貞久 「っははは。昔は、其方(そなた)に左様に厳しかったかの?」
勘助 「……お優しい所も、あり申した」
貞久 「あはは、所もあったか。思い出してもらえて光栄じゃ。
わしも今は、山本貞久と名乗る。祖父の名を継いだのじゃ」
勘助 「庵原様に、お仕えでござるか」
貞久 「……いや、今は、花倉城主・福島越前守(くしまえちぜんのかみ)殿じゃ」
勘助 「!! 福島(くしま)越前守殿……」
ナレ 「勘助は、先の戦で、甲斐の兵士が口走っていた言葉を思い出した」
(回想)
武士A 「今川方の福島越前守(くしまえちぜんのかみ)殿、我らに内応したとの事にございまする!」
(回想終わり)
勘助 「福島(くしま)殿……。兄者、何ゆえ」
貞久 「(被せ気味に)其方(そなた)、まさかこの駿河で、仕官を望もうなどと思うてはおるまいな?」
勘助 「……ご推挙いただきますれば、ありがたき幸せに存じまする」
貞久 「まだ見えぬのか、己が!」
勘助 「見えまする。それだけは、存分に」
貞久 「悪い事は言わぬ。勘助、武士の道を捨てるのだ。今からでも仏門に入るが良い。
然(さ)にあらねば、母上もあの世でご安心召されまい、このわしもじゃ!
……よいな? 武士を捨てるのに不都合な事があれば、いつでもわしの所に相談に参れ。よいな?」
勘助 「……兄者。
……よもや、福島越前守(くしまえちぜんのかみ)殿、甲斐の武田に内応しているのではありませぬか?」
貞久 「何を申すか。誰がそのような事を」
勘助 「ご存知ありませぬか?」
貞久 「無論じゃ。左様な事があるわけない。つまらぬ事を申すな。……武士を捨てるのだ、勘助。よいな?」
ナレ 「そう言い残し、兄は去って行った」
■駿府・今川家■
ナレ 「場所は駿府(すんぷ)に移る。ここは、駿府・今川家である。
謀反を疑い、今川氏輝や、その母・寿桂尼(じゅけいに)が、福島(くしま)を呼び立てていた」
寿桂尼「……そうか。福島(くしま)、手間をとらせたな。もうよい、下がられよ」
氏輝 「……母上、いかがじゃ? 福島(くしま)はやはり、武田に内応しておるようか?
此度の戦、武田を本陣まで引き入れたは、どう考えても福島(くしま)としか思えぬ」
寿桂尼「まだ分からぬ。分からぬが、手を打たねばなるまい」
氏輝 「福島(くしま)めぇ!!」
寿桂尼「よいか、下手に騒ぎまするな。皆の者も、この事は内密に致せ」
ナレ 「『はっ』と返事をする今川家臣の中に、庵原忠胤も居た」
■駿府・庵原家■
ナレ 「その庵原を、勘助は訪ねていた。庵原は勘助の大叔父である」
男 「旦那様、縁者と申される方が、お見えでござりまする」
庵原 「……。源助、其方(そなた)」
勘助 「出家は致しておりませぬ」
庵原 「大林勘左衛門殿は」
勘助 「大林家とは、縁を切ってござりまする。今は、山本勘助と申す浪人者にござる」
庵原 「……。いやぁ……驚いたな。……して、このわしに何用じゃ」
勘助 「今川家中に、謀反を企てし者、見つけてござりまする」
庵原 「……なに?」
勘助 「甲斐の武田家に、内通する者にござりまする」
庵原 「……誰じゃ?」
勘助 「花倉城主、福島越前守(くしまえちぜんのかみ)殿」
庵原 「!!」
勘助 「……庵原様、なにゆえ我が兄は、福島(くしま)殿の与力をしておられまするや!」
庵原 「其方(そなた)その事、兄の貞久から」
勘助 「然(さ)にあらず。兄者は、何も知っておりませぬ。しかし、なぜ兄者が、福島(くしま)殿に……」
庵原 「其方(そなた)の父の誼(よしみ)を通じたのじゃ」
勘助 「庵原様。この勘助をご推挙いただきますれば、その謀反の内情、探ってみせまする」
庵原 「いや待て! ……待つのじゃ」
勘助 「庵原様! お頼み申しまする。この勘助を、今川家の仕官に」
庵原 「待てと申しておろう」
勘助 「誠とあらば、兄者を謀反から救わねばなりますまい!」
庵原 「……ともかく、今の話は他言無用じゃ。其方(そち)も勝手に動くでないぞ。よいな!
……わしの食客(しょっかく)として、しばらく駿府に居ればよい」
勘助 「今川への仕官は!」
庵原 「それは追々じゃ!……動くでないぞ。よいな!」
勘助 「くっ……」
ナレ 「こうして勘助は、庵原の食客として、駿府に身を寄せる事になった」
■駿府・林の中■
ナレ 「しかし、そののちも、勘助に仕官の沙汰は無かった。ある雨の日、勘助は駿府の林道を歩いていた。
その林道にて、勘助は、何者かにつけられている気配を感じた。
振り返れば、竹笠を深く被った男たちが居た。何も発さず、男たちは勘助に襲い掛かった」
勘助 「ぐっ!! 誰じゃ!! お主ら何者じゃ!! 誰に頼まれた!! 庵原阿波守(いはらあわのかみ)か!?」
ナレ 「襲い来る男たちを斬り伏せていく勘助。残る男は二人。泥濘(ぬかるみ)に足を取られながらも、一人を斬り倒した。
最後の一人と刀を交える。男が刀を振りかぶった時、勘助の刀が、男の竹笠をかすめる。
その竹笠から見えた顔。その人物は……」
勘助 「……兄者。兄者!!」
ナレ 「勘助の兄、山本貞久だった。動揺した勘助の首に刀を当て、貞久は言った」
貞久 「駿河を出ろ。駿河から出ていくのじゃ。……よいな!」
ナレ 「貞久は、勘助の首を斬ることなく、その場から立ち去った。
幼き頃に剣術で敗れた兄と、奇しくも林道で剣交えた勘助は、その兄の後ろ姿を見ることなく、呆然と立ち尽くした」
■甲斐・府中 躑躅ヶ崎■
ナレ 「兄と弟が剣を構えて向き合う姿が、甲斐府中の躑躅ヶ崎にもあった」
甘利 「御館様は、何を考えておられるのじゃ。勝千代様の剣術を見るのに、次郎様を選ばれるとは」
原 「それほど、侮っておられるのか」
ナレ 「空には黒い雲。その場の空気を表現したかのような、どんよりした雲である。次第に雷が鳴り始めた」
甘利 「雨が、きそうじゃの」
次郎 「兄上、お手合わせのほど、おたのみ申しまする!」
勝千代「うむ。いざ参れ」
次郎 「はい!」
ナレ 「二人は木刀を構える。最初に次郎が打って出る」
次郎 「えい! えいっ!!」
勝千代「はっ!やぁ!」
ナレ 「勝千代は、それを上手く捌きながら、回り込む」
甘利 「この体格差では、勝負になるまい」
原 「いや、分かりませぬぞ。次郎様の天賦(てんぷ)は、御館様も認めておられまする」
次郎 「えーい!!」
ナレ 「兄に打って出る弟。その様子をじっと見つめる父・信虎。
勝千代は、父の視線が自身ではなく、弟に向けられている事を察した」
勝千代「……。えい!!」
次郎 「えい!!」
勝千代「えい!!」
次郎 「えい!!」
勝千代「(……父上)。……っ!!」
次郎 「えい!!」
原 「なっ!!」
ナレ 「木刀が弾かれ、その場に跪く勝千代」
甘利 「……若様が、負けた」
ナレ 「その様子を見ていた信虎は、笑みを浮かべた。
……雨が降り始めた。信虎も家臣一同も、館の中へ去っていく。
勝千代は、雨に打たれてもなお、動くことが出来なかった。
涙をこらえる勝千代に、傅役(もりやく)の板垣がそっと寄り添った」
板垣 「若」
勝千代「笑われた。……御館様が、笑みをみせられたのだ。ははっ、ははは」
ナレ 「勝千代は屈辱だった。弟に敗れたことではない。御館様に認められない自分自身が悔しくて、情けなくて。
その悔し涙を、笑ってごまかす他なかった」
◇天文5年◇
ナレ 「その翌年。天文5年の正月。甲斐の若君は元服。
朝廷より、従五位下(じゅごいげ)、大膳の大夫(だいふ)に叙せられた。
また、将軍・足利義晴から一字を賜り、武田晴信となった。
その年も、やはり甲斐は飢饉であった。」
■甲斐・葛笠村■
ミツ 「……勘助? 勘助! 勘助ぇぇぇぇ!!」
ナレ 「勘助が甲斐に戻ってきた。ミツは勘助に向かって走り出した。大きなお腹を抱えながら」
--つづく--