【Peace is here.-正義はここにある-】
【Peace is here.-正義はここにある-】
◇◇◇
What is evil?-Whatever springs from weakness.
(悪とは何か?弱さから生じるすべてのものだ。)
—Friedrich Nietzsche(フリードリヒ・ニーチェ)
◇◇◇
「…」
「…え、と。あの…」
目の前で目を閉じ、瞑想を続ける人物に声をかけようとして、男は言い淀む。
平凡で突飛な才のない、しがないイチ警官である男が、この特捜部に所属を言い渡されたのは一週間程前だ。
—犯人の目途すら付いていない凶悪な女児誘拐殺人事件。
8〜10歳の女児が誘拐され、殺害、身体の一部を持ち去られるという残忍な行為が現在まで4件立て続けに発生したのだ。
迅速な解決が求められるこの事件の特別捜査本部へ平凡な男が来た理由は、細かな雑務・連絡役…つまり足役だと、自覚していた。
その為、他の人材のサポートに努めている。調書の纏めや、書類の運搬、情報の整理に努めている。それくらいしか役に立たない事は男が一番よくわかっていた。
目の前の男…柊木雪仁(ヒイラギ ユキヒト)をみれば、自分が如何に凡夫であるか…。
柊木はプロファイラーだ。
僅かな情報を基に、犯人像をつなぎ合わせる彼の脳は、天才的だった。
その実力は署内に響いていたが、耳にする事と実際に目の当たりにする事の差は如何に大きいものか。
なにせ、目処も付いていなかった犯人像は、彼が来ただけで一変したのだから。
本人はその才覚への自覚がないのか「別に特別な事じゃない」と言っていたのを聞いて、これこそ<本物>なのだと感じた。
「…ん?ああ、ごめん。僕に何か用?」
ゆっくりと目を開き、柊木が男に声をかける。
柊木は良く瞑想…というのだろうか。椅子に座り、目を閉じている時間が多かった。
口を開けば、やわらかく、人当たり良く話しやすいのだが…なんとなく男は彼の瞑想を邪魔してはいけないと感じていた。
「ハッ!柊木刑事、新たな情報を掴みましたので、資料のお渡しに」
「そう。ありがとう。…別にそんなかしこまらないで大丈夫」
「い、いいえ。自分はこのままで」
「君がそれでいいなら…」
少々困ったような表情を浮かべた柊木は、そのまま受け取った資料へと目を落としていく。
相変わらず、柊木に割り当てられたデスク周囲には事件ファイルや書類、手書きのメモが乱雑に散らばっているのが少し気になった。
だが、意味のある配置なのかも知れないと思うと、男はソレに触れる勇気はない。
柊木に書類を渡した後、一礼し、彼の机以外の書類を整えていく。
「…ああ、そうか。貴女は旅立つんだね」
「…?」
柊木は集中すると、周りが見えなくなるタイプのようだ。
書類に対峙している時、その思考を深く彼の中に落としているように思う。
脳の中まで覗く事が叶わないから、柊木の脳内が一体どうなっているかは分からない。
時折漏れ出る思考が漏れ出たような独り言は、男には理解できなかった。
◇◇◇
「ねぇ!オレの情報から、何か新しいの浮かんだ!?」
「…貴臣…ちょっとうるさいよ」
「え~!そんな~…」
特捜部の凛とした沈黙をにぎやかに破るのは、第一線で現場へと向かい調査を進める刑事の一人だ。
書類の整理をしていた男は大きな音が響き、弾みで何枚か書類を落とす。
…東海林 貴臣(ショウジ タカオミ)は、優秀な刑事の一人だ。
様々な事件でも、持前の能力の高さを発揮し、卒無くこなすその反面。
やり方が突飛過ぎて周囲を振り回しがちな事もある。
愛嬌といっていいのだろう、何処か憎めない所もあり、能力もあるので強く咎められることもない。
何度か彼の捜査線に同行した事のある男にとって、尊敬する刑事の一人である。
「そんなに騒がれると集中が切れるのだけど?」
「む~。そ、そんなに言うことないでしょ?」
まるで我儘な少年のような青年、東海林は、柊木の言葉にピタリと口を閉じる。
スゴスゴといった風に、柊木の隣にパイプ椅子を引きずってくれば、そこに座った。
「…いい子」
「…へへ」
柊木からの些細な言葉にふにゃりと笑顔を浮かべる東海林。
そんなやり取りを、男は少し意外そうに見つめた。
元々、彼らは一緒に捜査をすることが多い仲である。
この特捜部に所属する前に、二人の事は良く耳に届いていた。
優秀で天賦の才を持つ二人が組む事はいい事だ。
なんとなく男の口元が緩む。
今、柊木の言いつけに従い、椅子に素直に座って言葉を待つ彼の姿が、まるで、素直な大型犬のように見えて微笑ましかった。
「それで、ホシはどうしてる?」
「雪仁が絞ったホシ…例の女教師なら、しっかりマークしてるよ」
「そう…。でも、そろそろ…彼女、<飛ぶ>よ」
「…え?」
柊木の言葉に、東海林の動きがピタリと止まる。
「逃走するってこと?」
「…ある意味、そうかもしれないね」
「大変じゃないか!」
彼は苛立ちを隠さず、素早くスマートフォンを手に取り現場へと連絡を取り始める。
「東海林です!今すぐホシの確保へ向かってください!任意同行でもなんでも…え?ホシの行方が分からなくなった?」
「…願いの岬」
「!?…そう、分かった!願いの岬へ向かって。オレも直ぐ行くね」
飛び跳ねるように椅子から立ち上がると、東海林は駆け出していく。
その後ろ姿につくように、慌てて男も走り出す。
部屋を出る前、室内を振り返ると、静かに椅子に座り、ただ書類へ目を落とす柊木の姿があるだけだった。
◇◇◇
あの後、一時は行方をくらましたホシ…犯人は、願いの岬へと本当に現れた。
その腕に、今までの女児達から奪ったであろう手足を抱え、岬の先から海へ身を投げようとしていたのだ。
しかし、柊木の言葉により現場に先まわりが出来ていた東海林達警察は、犯人の身柄を無事に確保、逮捕へと至る。
現在、逮捕された犯人は取り調べを受けている。
強い抵抗は無いが、話の内容は支離滅裂としており、調書が出来上がるには時間がかかりそうだった。
兎も角、これで無事犯人の逮捕へ繋がった事で本件の特捜部も解散となるだろう。
部署内で使用した物や、事後処理の書類整理に男が追われていると、入口の扉が開かれ、少々気が立っている東海林と穏やかなままの柊木が入ってきたのだ。柊木は彼に腕を掴まれている。
恐らく連れて来られたのだろう、まるで柊木に詰め寄るような姿を目撃し、そっと男はその身を書類の棚へと隠した。
「ねぇ、どうしてわかったの」
「…きっと、ホシの口から語られるよ?」
「そんな事が聞きたいんじゃなくて!」
「…はぁ。貴臣は相変わらず面倒だね」
困ったように首を振り、柔らかに東海林の頭を撫でる柊木。
一瞬表情を緩めかけた彼はハッとし、撫でられていた柊木の手を掴み、まっすぐに顔を見据えた。
「どうして、彼女が<飛ぶ>って?」
「…悪とは何か」
「…え?」
「弱さから生じるすべてのものだ」
「…えっと…ニーチェ、であってる?」
小さく同意を示し頷く柊木。偉人の格言を零した柊木から圧力を感じたのか、東海林はぼんやりとその顔を見つめているだけである。
「こんな凡人に聞かれても、言うことは無いって言ってるでしょ?」
「そんなこと!」
「…だね。こんな風に言っても、貴臣は引かない、か」
それに合わせて柊木は椅子に座り、目を閉じて語り始める。
何かを眺めながら。
「まずは違和感」
「違和感?」
「僕が事件詳細を聞いた時に感じたのは、被害者の体長がほぼ同じだという事」
「…」
「恐らくホシはそういった趣味、趣向からの<執着>とも違う<執念>とも言える弱さを抱えていると感じた。女児らの身体に欠損以外の外傷や性的暴行の痕も無かった」
「それは、本線でも似た話が上がったってたね」
「だから<執念>の元を探ってもらった。あの近辺で起こった出来事の一つ一つを」
「…それで、あの事件に繋がったんだよね」
「そう。数年前、犯人の娘さんが亡くなった交通事故」
ふぅ、と柊木は一息付き、目を開き、東海林を見つめ返した。
「ホシは…トリは、自分の娘の翼を欲したんだ。失った翼を」
「翼…トラックでつぶれた娘の手足の事言ってる!?」
「そうだね」
「なんで、そんな」
「そんなことは本人じゃないから分からないよ」
震える東海林へ、穏やかさをたたえたまま柊木は続ける。
「ただ、分かるのは、<執着>という名の弱さの終着点」
「弱さの、終着点」
「…翼も無く、空へ上ろうとする娘の為の翼を届ける為、揃えた羽をもって彼女は飛ぶ。起こった事件は4件、丁度トリが求める数が揃ったタイミング。あとはもう飛ぶだけなんだ、と。そう思った…それだけ」
「場所が分かったのは?」
「彼女の娘さんが亡くなる日…彼女達が行く予定だった場所だよ。これ見て」
荒れた机の上に乗ったままになっていた、小さな新聞記事の片隅の文字を柊木は指差した。
<願いの岬へ遊びに行く予定だった。>そんな些細な文字だ。
「たった、これだけで」
「…飛びそこなった訳だけどね」
再び柊木が目を閉じる。
その瞼の裏で、一体何を眺めているのだろうか。
「そうやって…いつも…」
グッと、柊木の前に立つ東海林はこぶしを強く握る。
「雪仁は、何も分かってない!雪仁が導いた結論の価値!」
「…うーん。またその話?」
「何度だって言う!」
東海林は、今にも柊木へ噛みつかんとするかの様な勢いだ。
彼の態度にハラハラしつつも、棚の影から男が動けずにいると、東海林は酷く小さな声でつぶやいた。
「…オレには、そんな物、無いから」
「…?」
「ま、まぁ!雪仁がその結論にたどり着けるのも、優秀な情報を稼いでくるオレ!のお陰だけど、さ!」
小さなつぶやきを押しつぶすように、東海林は明るくおどけてそう言ってのけた。
「そうだよ?…貴臣が見つけてきた情報があったから、僕はプロファイルできただけで…特別な事は何もないでしょう?」
「むむ…それとこれとは話がちがーう!」
「なぁ、もう戻らない?」
「え、いや、まだ言いたいことは…」
そう東海林が言葉を続けようとすると、入口から別の刑事が顔を出した。
どうやら東海林を探していたらしい。急務ということもあり、彼は部屋をしぶしぶと出て行く。
「ちょっと待っててね!すぐに片付けてくるから!」
去り際に柊木へと宣言し、東海林は部屋を出ていく。
痛い程の沈黙が流れる。そんな空気の中、男はすっかり出ていくタイミングを逃してしまい、どうしたものかと思案する。
「…あの」
思わず肩がビクリと震える。恐る恐る柊木の方へ目線をやれば、男をまっすぐと見据えていた。
ここに自分がいるのがバレていたのだ。
ひやりと汗が流れる。
「す、すみません。書類の整理をしていて…」
「うん、分かっていたのだけど…。邪魔してしまってごめんね」
「い、いえ…!」
声を掛けられた隙に此処から出てしまおうと考えた男は、書類を抱え、柊木の前を足早に横切っていく。
「し、失礼します…!」
「お疲れ様」
穏やかな笑みに見送られ、少し居心地の悪い思いを振り切るように男は部署を出た。
◇◇◇
柊木雪仁は、小さくなっていく男の背中を見つめ、今度こそ一人になった空間に一人、椅子に深く腰を掛けて目を閉じる。
不快な暗闇の幕が降り、明滅する影を目で追う。
大きな鳥影は懸命に羽ばたかせ、小さな鳥影を追う。
光を目指す小さな鳥影は羽が溶け、落ちて行く。
大きな鳥影は翼をもぎ取り、小さな鳥影へと添える。
しかし、翼は付くことはなく。
緩やかに二対の鳥影は闇へと落ちて行った。
暗闇の幕の引き上げ、瞳を開く。
「…悪へと落ちてゆく、か」
暗闇など、悪など、…弱さなど。
落ちていい場所ではない。
でも彼女は落ちてしまった。
そして、それを自分が理解する必要はない。
「こんな<遊び>に特別な意味なんてないのに」
貴臣の姿を思い起こす。
その身一つで様々な事件を、突飛な方法で突破していく。
しかし、彼がその為に努力もしている事に気づいている人は、そう多くないかもしれない。
僕は、人の足跡を焼き付け思考し、その影を追って形にする。
ただそれだけだ。彼の努力の方が、十二分に特別な事だろう。
「…まぁ、いいか」
ふぅ、もう一息ついて立ち上がる。部署から出ようとすると、騒がしく聞きなれてきた足音が聞こえ始めた。
彼が戻って来たのだろう。
「ちょっと!そこで待っててって言ったのに!」
「…迎えに行こうと思ったのだけど」
「え!本当?!」
貴臣が自分の姿をとらえ噛みついてくるが、瞬時にパァとまぶしい程の笑顔が広がる。
その笑顔に思わず笑顔が零れる。ふと、その笑顔に答えたくなった。
「…貴臣は優秀だよ。十二分に」
「…へぅ!?」
自分から唐突に言われた言葉に、貴臣は動きを止める。
みるみるうちに顔を赤らめていく。そんな彼の頭をポンと優しく撫でた。
「あ、お、雪、急に、なに…っ!」
「別に、思ったことを言っただけだけど」
「なっ…!?」
「というか、そんなバレバレな顔しないで」
「〜ッ、無理!」
赤い顔をパタパタと冷まそうとする彼の横に立ち、歩き出す。
「今日はどうする?」
「…仕事は上がりだから、一緒にかえろ」
「いいよ」
まるで大型犬の様に可愛らしい恋人へ、誰にも見せない飛び切りの笑顔を浮かべた。
◇◇◇
END
◇◇◇