【くちなわの欲】
【くちなわの欲】
◇◇◇
蛇に名前は要らない。
必要な物を追うために、要らない物は全て削ぎ落した。
人としての手と足を切り落とし、執念を追うと決めた。
だから、俺は、ただの、蛇でいい。
◇◇◇
「ねぇ、知ってる?」
どこかほこり臭い狭い個室のベッドの上。煙草と少しの汗、安っぽい香水のにおいが鼻に付く。
女のぎらついた装飾を付けた下品な爪が、腕に流れる蛇の尻尾に軽く立てられた。
こいつの名前はなんだったろう。興味は微塵も無く、ただ欲を満たすだけに付き合う場末の女だったと思う。
「…と思ったら、最近<イイ女>が居るんですって」
「ああ?なんだって?」
「私の話ちゃんと聞いてた?」
女の口は喧しく、基本的に聞いても何ら意味がない。
聞かないか塞ぐかのどちらかだ。
時折こうして興味が引かれた時だけ聞き返している。主に新しい女への興味だが。
「だからね!前はダンナにご贔屓して貰ってたのに、最近来ないな~って思ってたら、新しくイイ女が出来たって聞いたのよ!」
「親父に…誰だ、ソレ」
「知らないわよそんなの。言いたくない」
言葉尻から頭の悪さがにじみ出ている。性悪さと言った方が正しいだろう。
ただ、この女も悪い訳ではない。
こうして陳腐な<駆け引き>をすることで命を繋いでいるのだから。
蛇に丸のみされるその瞬間まで笑えるのは簡単な事ではない事を、二十数年生きて眺めた中で理解はしている。
「…何が望みだ?」
女が口にした<ダンナ>…親父は、とある暴力団組長だ。
小さいシマだが、そこそこの顔が効く。
その代わりに本人には手が出しにくい。
そんな親父の<イイ女>に興味が沸かない訳はなかった。
どんな女だろうか。その味が知りたい。
「ふふふ…ねぇ。わたし、丁度欲しいものがあるの」
女の笑みと唇から零れる話を聞きながら、首元の蛇がグラリと笑った。
◇◇◇
「それで依頼内容は?」
「人を…恋人を探して頂きたいんです」
仕立ての良いスーツを身にまとった清潔感のある大男が、こじんまりとしたオフィスのソファに座っている。
派手な紫のグラデーションカラーの髪を整え、スーツの合間から金の高級な装飾が覗く。
明らかに一般の枠から外れているが、不快にならないのが不快だと、向かい合った燎は考える。
腕から伸びた首元の蛇がこちらを見つめ、男の纏う空気は異質で、冷え切っていたのだ。
「恋人…ですか。どのような人物でしょう」
「写真は無いのです」
「…はぁ。では、特徴などを口頭でも構いません」
「いいえ?そう言ったモノもありません」
「…なんですって?」
狼谷探偵事務所…燎の<表>の仕事場へ『人探し』の依頼に訪れたというこの男は、荒唐無稽な内容を語る。
分かりやすく不機嫌をぶつけても大男の笑みは崩れない。
いや、細く吊り上がった表情は笑っている形を作っているだけだった。
ジットリと冷たく燎を見下ろす黒い瞳孔は、まるで獲物を観察している様だった。
「(<直感は無視するな>…だったか)」
燎は頭によぎる言葉をなぞりつつ、慎重に言葉を選ぶ。
一歩間違えればこの男の躊躇いなく私の首へ噛みつくのだろうから。
「写真もなく、特徴もない人物…が、貴方の恋人なのでしょうか」
「ハハハ、流石にそんなつまらない人は選びません」
「では、居もしない貴方の恋人を探せ…とでも?」
「正しくは<俺の気に入る女>を、ですね」
大男の笑った表情が一層濃く深く動いた。
一瞬気を抜く事も許されないような緊迫感を感じる。
燎は背中にヒヤリとした物を感じつつもそれらを飲み込んで軽く微笑んだ。
「お断りだ」
カツンと靴の底を鳴らし、ソファから立ち上がると真っ直ぐに出入口の扉へ向かう。
ドアが開き、湿った風と古めかしい鈴音を感じながら、未だソファにいる男へ声を掛ける。
「探偵の仕事ではないね。お引き取りを」
「…随分と、冷たいんですね」
「依頼人ではないからな」
大男は肩を竦め、わざとらしい態度でソファから立ち上がり、出入口…燎の元へ歩みを進める。
グゥと派手な頭をもたげ、燎を覗き込んだ。蛇の舌がチラつく。
「確かに…<探偵>にはふさわしくない依頼でしたね」
「…」
「しかしながら、<貴女>には似合いだと思ったのですが」
蛇が笑う。狼は、影に溶けた。
「!?」
「少なくとも私はそう思わない」
大男に詰められていた筈の燎は、いつの間にかその身を大男の後ろへ翻していた。
普段であれば構えている銃はない。代わりに何もない両手を軽く持ち上げてヒラヒラと振った。
「出口は目の前だ。まさか、子供のように迷ったりしない、だろう?」
うっそりと目を細め、狼が笑う。
ここは彼女の領土なのだと示されてしまった蛇はその笑みを消した。
しかし言葉は続かず、革靴を鳴らして出口から出て行った。
静かに閉まるドアがベルをチリンと静かに鳴らす。
しばしそのままドアを睨んでいた燎は、一息付いてから窓際へ歩みを進めた。
雑居ビルの人波に溶けた大男の姿はもう無い。
改めて大きな溜息をついて、事務仕事用の椅子に深く腰かけた。
「一体なんだったんだ、アレは…」
思わず愚痴のような独り言を中空へ投げ出す。
目の奥には執着を宿した入れ墨の蛇の目がチラついた。
気分を切り替えるようにPCを立ち上げメールを確認すると、新着は三件。
一つ一つ確認していくと最後は同僚からの連絡だった。
『…収穫無し。引き続け情報収集は続けるよ。』
無言でメールに対し<了解>と短く返事を送ると、目を閉じた。
低く響く声、軽薄そうに笑った表情、嘘だらけの指先に、自分にだけ真実を伝える言葉。
ゆっくりと目を開き、右手を顔の前にかざした。
「…一体、どこへ行ったんだ」
どうしようもなく、今日の出来事を話したくなった。
きっと彼は悪魔のように笑って自分を認めてくれると分かるから。
『…俺が教えた事が出来て、偉いじゃねぇの。よくやったじゃねぇか』
「…まぁね」
思い描いた彼の姿に笑いかけて、陰る右手で全てを払った。
…その数十時間後。
燎のPCに新しいメールが一通届く。
送り主はとある暴力団組合のトップであり、燎にとって情報提供源の一つだ。
『この度はウチの蛇が迷惑を掛けたようだ。二度とこんな事がないようにしよう。』
そんな質素な文面から、全てが終わった事を理解する。
特段あの大男に、燎が何かされた訳でもないのだが…このトップは燎を何故か<気に入って>いる。
「虎の尻尾を噛むなんて、愚かな蛇を飼っていたモノだね」
◇◇◇
「なんで親父の尻尾に噛みついたんだか」
呆れたように言葉を零すのは、運転手の男だ。
麻布で視界は暗く、散々殴られ痛めつけられた体中は車が揺れる度に痛んだ。
蛇の両脇に控えた男達が、拘束を掛けられた自分の腕を掴んでいた。
「(念入りだなぁ…想定以上だった…)」
あの探偵事務所を訪れた後、どこか浮ついた感情を適当に<発散>してから組織に戻ると、その場で組合員全員に叩きのめされた。
見せしめと言わんばかりに新人らとベテランを起用し、こぶしで、足で、棒で、鉄で、執拗に死なない程度殴られ続けたのだ。
血反吐も吐けなくなった頃、麻袋を頭にかぶせられながら、親父の言葉が聞こえたのを思い出す。
『次<狼>に触れてみろ。悪魔の逆鱗を撫でることになるぞ』
狼谷燎の姿を、麻袋の闇に映し思い出す。
見た目は華奢で貧相な身体をした女だった。
男と言われても頷く程の中性で、人の目を惹くモノはない。
だが、彼女の瞳の後ろに<何か>が見えた気がした。
揺れぬ信念?度胸?いいや、そんな優しいモノではない。
アレは狩人の目だ。狼の本質だった。
そしてその影に、闇が踊っていた。
「(あの女…)」
「おい、抵抗するな」
知らずに握った手のひらを諫められる。
思考に没頭している内に握りこんでしまったようだ。何本かは全く感覚も無いが。
「…着いたぞ。ソイツを降ろせ!」
乱雑に止められた車から、車外に連れ出される。
冷たい風と草木の揺れる音。
長い時間走らせていた事を考えれば、街から随分と離れた山奥なのだろうと理解できる。
「おい、新入り」
「は、はい」
「処分してこい」
横に居た新人の男がビクリと身体を震わせる。
鉄の重い音を握らされた音がした。
「で、でも…!俺…!」
「まだ弾いたことないだろ?なぁに、どうせこのまま放っておいても死ぬ」
「うぅ…!」
「通過儀礼だとでも思え。今回はまぁ…丁度イイのがウチから沸いたが」
新入りの男に押し付けるように、ボロボロの背中を蹴られる。
新入りは汗ばんだ手で蛇を支えると、ゆっくりと頷いたように感じた。
「ここで待つ。もう少し奥へ連れてけ」
「はい…」
煙草に火を付ける音が響いた。
紫煙が立ち上っているのだろう微かなにおいと熱を感じる。
どうやら新入りだけに任せ、運転手と蛇を拘束していた二人はここで待機するだけのようだ。
「あの、最後のお願いなんですけど」
「あ゛ぁ゛!?」
掠れた小さな声を上げる蛇に、運転手が苛立った返事を出す。
「…一本、貰えません?一口でも、いいです」
「テメェ…!」
「まぁ、いいじゃねぇか」
運転手からドスの利いた怒気が届く。
だが、それを諫める男の声が響く。
蛇に近寄り、麻布を少しずらして煙草を咥えさせた。
「…火、付けるぞ」
「…どぉも」
火花の音と共に息を吸う。
苦い煙草の煙が肺を満たした。
白い煙を吐き出しながら、蛇は続ける。
「…あの女、親父にとって、なんなんですかね」
「知らん。だが、組にとっても益になる女らしい」
「おい!何勝手に…」
「良いだろ。どうせ死ぬ」
酷く冷たい声と共に、一本分の問答が続く。
「益…ですか」
「アレは親父の女というより、取引相手だ」
「…へぇ?」
「…色々とバックにあるらしい。対等な取引をしている」
肺が、灰が、落ちる。
「もういいだろう。連れていけ」
「…はいっ!」
震えをそのままに、まるで壊れたおもちゃを運ぶように新人が蛇を森の奥深くへ引きずった。
暫く黙って引きずられ、煙草のにおいが消えた頃合いで地面に転がされる。
反射的にうめき声が上がった。
「…」
「…怖いのか?」
「ッ!」
安全装置を外す音が震えで濁り、ガチガチと歯をかみ合わせる音が静まり返った森と蛇だけが聞いていた。
「五月蝿いッ!死体が…しゃべるな!」
ずらされたままだった口元を力の限り新入りは掴む。
そして震えたまま蛇の頭に銃口を当てた。
首元の蛇がグラグラと、笑う。
「うわあ゛あ゛あ゛あ゛あ!!!!」
拳銃の発砲音と新入りの悲鳴は同時だった。
弾丸は蛇の頭蓋をかすめ、麻布を真っ赤に染める。
その一方で、醜くゆがんだ唇に乗せた<手の肉>を、一飲みした。
耳心地良い悲鳴をBGMに、蛇は緩やかに意識を落として行く。
◇◇◇
グラグラと、揺れる。視界が、思考が、感情が、揺れる。
あいも変わらず視界は闇のままだった。
グルリと塒(とぐろ)を巻いているのに気が付いたのは、男が蛇だからであろうか。
「ねぇ、助かる?」
「そうだなぁ…血が大分出てるがなんとか。弾丸が逸れて頭部を掠っただけだったのもあるが…あと少しでも流れてたらダメだったな」
「そう…悪運が強いのね」
外で誰かが会話している。
女と男だ。
男の声に覚えはない。
だが、女の声には聞き覚えがあるような気がした。
「で?こんな男を拾って何をするんだ?」
「私拾うのが趣味なの」
「…趣味が悪いな」
「うっさいわね~。ま、意趣返し?かしら」
煙草と安っぽい香水の匂いを纏わせた女の、下品な爪が蛇の首を撫でた。
「…女と蛇は、執念深いの。」
グラグラと、蛇が笑う。
闇に描くは、狼の姿。音もなく忍びより、その首元へ食らいつく己が姿を描く。
グラグラと、蛇が笑う。
命を一飲みするその瞬間、あの瞳に何が映るのか。分からない。知りたい。
塒の中心から湧き出て止まらぬこの欲の名前は。
◇◇◇
END
◇◇◇