【雨音と共に去り 】
【雨音と共に去り 】
◇◇◇
「森の中に行ったぞ!周囲警戒!!」
雨が降り注ぎ視界も煙る中、誰かの怒号が響いた。
その場にいる冒険者達は雨に濡れながらも声と共に警戒体制を続けていた。
長雨によってぬかるんだ街道から少し離れた森林に、黒い影が複数体踊るのを視認したネイリンは、誰よりも早く森の隙間へ駆け出した。
「ネイリンに任せてっ!」
駆けながら高らかに宣言した声に合わせ指輪を外し、手に強く握りこむ。
手のひらの中へ指輪が溶け込み、代わりに出現する大きな斧を軽々しく担いだネイリンは、瞬間、常人であれば捉える事も出来ない速さで急行する。
木の幹を蹴り上げ、跳ねる様に雨のカーテンを駆け抜け、中型魔獣達を次々に一薙ぎしていった。
「うらあああああ!!」
雄叫びに合わせて、普段の姿からは想像も付かない怪力による理不尽な程の暴力が放たれる。
木々すらも巻き込みながら確実に、魔獣の命を奪っていく姿は、高ランクに相応しい暴虐であった。
最後に、彼女自身の体よりも二回り程大きい個体を一刀両断すると、周囲に静寂が訪れる。
巻き沿いになった周囲の木々が倒れ、ずいぶん見晴らしの良くなった空間。
その中央にネイリンは立ち尽くす。
血濡れた魔獣達は地に伏せ、雨によるカーテンだけが彼女の周囲を覆っていた。
「あの、ネイリンさん。もう大丈夫ですか…?」
恐る恐る…といったように、今回の依頼でまとめ役を担当している冒険者から遠巻きに声を掛けられる。
その声に合わせ、ネイリンは強くこぶしを握り、斧をしまい込んだ。
手のひらに体内へ取り込んでいた指輪が戻り、それを付け直しながら冒険者へ答える。
「…うん、問題ないよ!」
「流石ですね…助かりました。まさかこの街道にあんなサイズの魔獣まで出るなんて」
「来る前には聞いてなかったもんね。他の人は怪我とかない?」
「はい!」
「よかった!」
今回の任務内容は、魔獣討伐ではなく、長雨に晒された影響で街はずれの街道に土砂崩落が発生し、その土砂を撤去して道の整備を行うものだった。
本来であれば、ハイランクであるネイリンが受けるような任務では無い。
事実として、言葉を交わしているまとめ役や、周囲で魔獣の処理を始めている数名の冒険者達のランクは高くない。
現在、各地域にて長雨による水害被害が拡大している影響で、人手が不足している状態だった。
冒険者達は雨の中、様々な形で忙しなく任務へ動き回っている。
「それにしても土砂だけでなく魔獣まで出てくるなんて、ビックリしちゃったね」
「本当です!俺たちだけだったらきっと対処できなかったと思います。人手が無いからと言ってネイリンさんにお願いするのは忍びない内容だったんですが、今回ばかりはネイリンさんがいて良かったです…」
「うんうん!ネイリン、お役に立ってよかった!」
「土砂の撤去も、とても助かりましたからね!」
ネイリンのポテンシャルを生かし、道を塞いでいた土砂は手早く撤去出来ており、作業完了と共に帰還しようとしていた矢先の魔獣出現であった。
実力だけでなく、怪力もあるネイリンに今回この任務への白羽の矢が立ったのは、ある意味では必然だったのかもしれない。
警戒しつつどこかホッとしたような冒険者達を見ながら、ネイリンは何度か満足げに頷きを返す。
「よぉし!早く魔獣も処理してギルドまで戻ろ!」
「はい!今回の事は後でギルドにしっかり報告しておきますね…イレギュラーもありましたし、これ以上雨に打たれるのも勘弁ですよ」
命を脱した興奮からか、軽口を叩き合いながら雨の中の作業が続く。
しとしと降り注ぐ雨に体の芯が冷えてしまったのか、ネイリンは一度体を小さく震わせた。
「(…寒い、かな?帰ったらちゃんとお風呂入らなきゃっ)」
どこかジンと痺れる思考をよそに、ネイリンも冒険者達と共に魔獣の処理を共に行っていると、同じく雨に濡れる冒険者の1人がネイリンへ声をかけた。
「あの、ネイリンさん?怪我とかしてます?大丈夫ですか…?」
「え?ネイリンは元気だよ?」
「いえ、なんだか顔色が…」
「本当?別にネイリン、本当に全然平気なん、だけど…?」
グラリ、世界が揺れた。
ーああそういえば。さっきは久しぶりに指輪を外したなぁ…それのせいかなぁ?
頭の片隅に呑気な思考がよぎりながら、ネイリンの体から力が抜けていく。
「ネイリンさんっ!」
悲痛な冒険者の声と共に、視界が暗転する。
ドサリ、と地面へ倒れこむ寸前、誰かの腕がネイリンを受け止めた気がした。
「(…地面、いたく、ない?あったかい…)」
柔らかな何かに倒れこみ、心地よい暖かさを感じながらネイリンは意識を手放す。
「…どうして」
どこか後悔の滲んだ声は、もう彼女の耳には届いていなかった。
◇◇◇
体中の痛みと茹だる熱、荒い呼吸を繰り返しながらゆっくり瞳を開く。
ネイリンの滲んだ視界に見慣れた天井が映り、未だ降り続いているのだろう、雨が窓に打ち付ける音が聞こえた。
次はすえたインクと紙の匂い。
パラ、と紙をめくる音。落ち着く水の香りと人の熱がすぐ側に感じられた。
「…あ、れぇ…」
「ネイリン、起きた?」
「ア、リア?ここは?」
「無理にしゃべらないで。酷い熱が出てるんだから…ここはネイリンの部屋だよ」
切り揃えた空色の髪をサラリと流し、優しい目線を向けるアリア。
その姿の背景は確かに、見慣れたネイリンの部屋だった。
ネイリンの寝ているベッドの横に普段は窓際に置いてある机が置かれ、書類が山のように積まれている。
「おし…ごと…?」
「うん。熱が出ている状態で離れたら、症状に何かあった時に困るでしょう?だからちょっと机ずらさせてもらったよ、ごめんね」
「…それ、は…ゴホッゴホッ!」
「ああ、だから無理に喋っちゃダメだって」
ネイリンの咳に合わせて背中をさすり、落ち着くまで様子をみたアリアが口を開く。
「落ち着いた?お水は飲めそう?」
「の、む…」
「はい。少しずつ飲もうね」
「んぅ…」
吸い飲みからゆっくり注がれる温い水が、今のネイリンの体には冷たく心地よかった。
ゆっくり水を嚥下するだけでも、体が軋み警戒のサインを繰り返している。
「…街道で魔獣を倒したんだってね?雨に長時間打たれながら作業した体に、指輪の魔力が反発して熱が出たんじゃないかと思う…ごめんね、もう少し早くに気が付いていればよかった」
「アリア、は、悪くない…よ」
「あの街道に魔獣が出現した事に関しては調査不足だ。いくら雨で人手がないといっても、人命を危険に晒す行為だったからね」
「ネイリン…は、強い、ぞ?」
「だからと言って無理をして良い、なんてことにはならないだろう?」
茹る熱にどこか焦点の定まらない視線。
潤んだ瞳に荒い呼吸を繰り返すネイリンへ、無理がない程度にと、ゆったりした口調で優しく説明するアリア。
「でも、ネイリン、無理はして…」
「そうだね。ネイリンは、無理していないね」
「うぅ~」
「…体が無理だってサインを出しただけだよ」
アリアは指先からクルクルと水の球体を産み出し、すっかり熱が移ってしまったタオルを冷やして、ネイリンの額へ乗せ直す。
「ネイリン、こういう時は素直に休んでね。おそらくだけど、魔力で免疫が低下した影響もあって、ちょっと高い熱が長引きそうだし…何か欲しい物があったらすぐに言ってほしい」
「(アリア…優しい…)」
慣れた手つきで布団を掛け直し、少し乱れた髪を撫でられるネイリン。
アリアの手はヒヤリとして心地よいと感じる反面、ネイリンの胸に甘い軋みを立てた。
同時にドロリと、瞼が降りていく。
「ネイリン、は」
「うん?」
「大丈夫なん、だぞ…」
「…ネイリン?」
高熱の高さ故に掠れた小声で、生理現象により潤んだ瞳から、知らず涙と共に零したその言葉に何の意味が宿っているのだろうか。
フッと意識を途切れさせたネイリンに、今追及出来ない以上、これ以上考えても仕方がないということは十二分に分かっていた。
しかし、気が付けば無意識の内にアリアはこぶしを強く握る。
「…熱で体中苦しいだろうに」
「キミにあんな酷い顔をさせるのは、誰なんだい…?」
美しい顔をくしゃりと歪ませ、唇を軽く噛んだ後、フッと体から力を抜いた。
瞼から流れた涙を拭い、呼吸が安定しているのを確認したアリアは、机に向かい直す。
そうして再び、この小さな部屋の中に、ネイリンの呼吸音と雨音、アリアの走らせるペンの音だけが響きわたり始めた。
◇◇◇
ーネイリンは、あんまり夢を見ない。
眠っている時になぜ夢を見るのか?と言う本を読んだ事がある。
ネイリンにはちょっと難しかったけど、アリアが簡単に教えてくれた。
夢は『頭の中で記憶を整理整頓する時間』なんだって。
記憶っていうすっごく大きなタンスがあって、そこで引き出しを出し入れすると、開いた引き出しから溢れる?ような感じで、見たりするんだって。
ネイリンは一つ一つの引き出しが小さいし、量も少ない。
覚えていられることも人よりきっと少ないから夢をあんまり見ないんだなって思った。
だから分かるよ。これが夢だって。
熱のせいで、タンスがひっくり返っちゃって、1番嫌な記憶が流れてきたんだって。
『ねぇ、ママ〜!買い物行こうよ!』
小さくて狭いベッドの上にいるネイリンの耳に、扉の向こうから声が響いた。
身体中が熱くて、痛くて辛い。
ネイリンの隣に立ってるパパやママの顔は、勝手に涙が出てきて見えにくくなっても分かった。
すっごく嫌そうな顔をしてるって。
『今そっちへ行くから部屋に入っちゃダメよ?』
『すぐ行くから待ってなさい』
『ヤッタァ♪』
扉の向こうに声をかける2人の声は、とても優しい。
ネイリンにはかけられないもの。
小さな足音が離れたところで、大きく溜息をつかれた。身体が反射的に震えちゃった。
『ご、めんなさ…』
『全くよ!厄介者でお荷物な貴方が熱を出したくらいで私たちを呼ばないで頂戴』
『寝ていれば治るだろう。さっきも言ったが、決して部屋から出るなよ』
『水を持ってきただけ感謝なさいな』
『わかったか?ネイリン。これで大丈夫だろう?』
『…うん、大丈夫…』
『それじゃあ行こう。俺たちに熱が移ってかわいいあの子が熱を出したら苦しめてしまうからな』
『ええ、そうね!』
ズキズキ痛む頭に、遠慮なく言葉の雨が降ってきた。
あの時はよく分からなかったけれど、ネイリンが邪魔だって事だけは伝わってきて、すごく悲しかった。
『あら、雨が降りそうよ』
『じゃあ急いで行こう。馬車を出すよ』
パパもママも、もうネイリンを見てなくて。
痛む腕を伸ばしたけど、全然届かなかった。
パタン、と荒々しくドアが閉まってちょっとしたら、窓の外から楽しそうな声が聞こえた。
『暑い、痛い、苦しい………』
ゼェゼェ、息を切らせてちいちゃい手で水を飲もうとしたけど、うまく飲めなくてこぼしちゃった。
涙が止まらなかった。
どうして、ネイリンは、優しくしてもらえないんだろうって。
『…大丈夫、大丈夫』
笑顔でいる呪文を唱えるけど、その日はどうしても寂しくて。
何回唱えても、唱えるたびに涙が止まらなくて。
『大丈夫、じゃ、ない』
『…行かないで、よ』
『1人に、しないで』
『パパ、ママ、、』
認めたらもっと辛くなるから、ギュッと唇を噛んで。
それでも溢れてきた。
沢山、沢山、沢山…
ひとりぼっちだった、記憶。
◇◇◇
「…う、うう…っ!」
「…ネイリン?ネイリン!」
深く眠っていたはずのネイリンが呻き声を上げ始め、アリアは仕事の手を止めて慌てて彼女を見る。
熱で赤く染まった頬に、涙が次々とこぼれ落ち、悲しげなその声はアリアの胸に深く刺さった。
「ネイリン、起きて。ネイリン!」
「ゥゥ…ッ!?…ッ?」
「僕だよ、アリアだよ。分かるかい?」
ハッと目を見開いても尚止まらない涙をそのままに、ネイリンはアリアを見た。
『1人じゃなかった』
「うっ………うわァァァァァん!!!」
瞬間、大きな泣き声と共に、彼へと抱きついた。
アリアは驚いて、何か声をかけた方が…と逡巡するが、すぐにやめた。
ー何か声をかける前に、沢山泣いた方がいい。
そんな風に思ったのだ。まるで幼い子供のように泣きじゃくるネイリンを、泣き止むまであやす様に優しく抱きしめ続けた。
「うああ………ッ!ひっく、うぅ、ぅ〜ッ!」
「…よしよし」
アリアはネイリンの背中をさすり、優しく叩き、頭を撫でる。
『アリア、ずっと側に居てくれたんだ…』
『ネイリンの事、本当に1人にしなかったんだ』
『アリア、アリア…』
彼への想いが、彼に優しく頭を背中を撫でられるたびに胸の内で溢れそうになる。
それに合わせてネイリンの涙もボロボロと一層零れて止まらなかった。
「大丈夫だよ、ネイリン」
『優しい、アリア。どうしよう、涙が止まらないよ…』
彼女の言葉にならない分の涙を落とし切るまで、アリアはずっとネイリンを抱きしめ続けた。
◇◇◇
どれくらいの時間そうしていただろう。
2人にとって長い間こうして泣いていた様にも思うし、ほんの数分だった気もする。
ある程度ネイリンの涙が落ち着いて来た頃、アリアはネイリンの涙を拭いながら声をかける。
「…そろそろ、落ち着いてきた?」
コクン、と小さく頷き返すネイリンに、アリアは小さな笑顔を浮かべた。
「そっか。落ち着いたのならよかった……怖い夢でも見たの?」
「…昔の夢を見たの」
「昔の夢?」
思わずといったように、アリアが聞き返す。するとネイリンは、ピクッと肩を揺らして口を閉ざした。
そんな彼女の様子を見たアリアは、ふと気がつく。
ー今の表情と、あの眠る前に見たネイリンの表情が、少し似ていたことに。
ネイリンの頭を優しく撫でながら、アリアが続ける。
「…大丈夫、話したくないなら話さなくてもいいんだよ」
「アリア…」
「体を第一に。さぁ、お水を飲んだら一度食事にしようか?準備だけしておいたんだ」
そう言いながら、取り出したのはりんごだった。
アリアは手際よく小さくカットしたものと、すりおろしたものの2種類に仕立て上げていく。
小さなカットには、可愛らしい子ウサギの飾り切りが施され、ネイリンは少し笑った。
「可愛い」
「気に入ってもらえてきっとこの子も喜んでいるよ。たべれる?」
「うん」
シャクリ。甘い蜜を沢山含んだりんごを齧るたび、ドクドクと心臓が脈打って止まらない。
『これは、熱のせい!熱のせいだもん…』
先ほど見た悪夢は、すっかりほどけ落ち、抱き止められたアリアの胸を思い返しては赤くなるネイリンであった。
◇◇◇
「よぉ!チビ!熱下がったか〜!?いやぁバカでも風邪は引くんだなぁ!!!ダハハ!!!」
大きな声とドアを開く音を響かせながら、ネイリンの部屋に入ったジャスティオに、ネイリンはキッとにらみつける。
「五月蝿い、単細胞!」
「ひでぇ!見舞いに来たって言うのにヨォ!」
「ふん!ネイリンにそんなのいらないモン」
「かっわいくねぇ〜!!差し入れのハチミツやんね〜ぞ!?」
「ハチミツ?!」
ネイリンの反論にめげる様子もなく、ケタケタと下品に笑いながらベッド脇まで歩みよる。
その手に持っていた小さなツボをキラキラした瞳のネイリンの手の平に乗せて蓋を開いた。
すると、ふわりと甘い香りと共に小さな飴状の蜂蜜がコロリと姿を表す。
「ふふん、単細胞の割には気が利くな!」
「オイこら、取り上げるぞ」
「もうネイリンの物だもん!あげないよ!」
「俺の差し入れだぞ!?」
「うるさい」
傍らで仕事に勤しむアリアは、言い合いを続けるジャスティオへ声を掛ける。
「ジャスティオさん」
「おうなんだ、わざわざここで仕事するたぁなぁ〜」
「…もう熱は下がったとはいえ、あと1日休ませますので、静かに。くれぐれも、静かに、して下さいね?」
「お、おう」
アリアの圧の籠った視線を感じ、一歩思わず後ずさるジャスティオ。そんなジャスティオへ更にアリアは続ける。
「あと、本気でない事は重々承知の上ではあるのですが、治りかけの病人に対しての発言になってませんよ?ネイリンは馬鹿ではありませんし、ネイリンは可愛いです」
「わ、わかった。わかった!わかったからそのおっかねぇキレーな顔引っ込めろ!!!」
「静かに」
「…わかったよ」
「怒られてる~♪」
「…クッ」
美味しそうに蜂蜜飴を頬張りながらからかうネイリンに、ジャスティオが大きく口を開いて反論しようとして、アリアの目線が痛い程刺さり口を閉ざす。
代わりに大きなため息を一つ零し、ネイリンへ頭を乱雑にかきながら話を続ける。勿論声量は少し控え目にして。
「まぁなんだ…全快したらギルドの方にもちゃんと顔見せしてやってくれ。土砂撤去のあの任務にいた奴ら、みんな心配してたぜ」
「あ、あの人たち!うん。わかった」
ハッとしたような表情の後、パッと明るく笑顔で頷くネイリン。
「それじゃあ、しっかり治せよ」
「おう!」
「お疲れ様です」
「ああ、またな」
ジャスティオは軽く手を上げ、部屋の外に出てから…またひと際大きな溜息を付いた。
「はぁ〜…過保護が過ぎるぜ全く。今のリアクションもそうだし、看病の為に仕事全部側でやり続ける?…倒れたネイリンを問答無用でテレポートで連れ去るのだってよぉ…きっちり手続きは済んでるのも、またタチが悪いぜ…」
そんな独り言を呟きながら、廊下を1人歩いていくジャスティオであった。
◇◇◇
ジャスティオが部屋を出ていくと、また部屋に少しの静寂が訪れる。
アリアの書類仕事を進める音と、さっきジャスティオが置いていった蜂蜜飴を口の中で転がす音が響いていた。
窓の外の雨脚はすっかり弱まって、しっとりと空気を濡らすばかりだ。
「なぁアリア〜、もう体どこも痛くないぞ?」
「うん、熱もすっかり落ち着いたね。よかったよ」
「だからもう寝てなくても…」
すっかり高熱が引き、本調子に戻ってきているネイリン。
持てあまし気味の体力や気力を主張するようにベッドの上でバタ足していると、アリアはクスクスと楽し気に笑って告げる。
「だぁめ」
「むぅ」
ぴしゃりと言い切られ、不満を感じつつも大人しく布団に潜り治すネイリン。
そんな彼女の姿に少し考えてからアリアが告げた。
「…今日大人しく休んで、熱がぶり返さなかったら。明日パンケーキ食べに行こう?」
「ほんとか!?」
バサッと布団を跳ねのけ、キラキラした瞳をアリアへズイと寄せる。
期待に満ちた表情に思わず笑みを零しそうにながらアリアは続けた。
「うん。ハチミツたっぷりでね」
「やったぁ〜!!」
無邪気にベッド上で跳ねまわるアリアを窘めながらも、今度こそ堪え切れずに笑いが零れ落ちるアリア。
「ふふ、そんなに嬉しい?」
「うんっ!大好き!」
「〜ッ!そ、そっか」
甘い笑顔と共に告げられた言葉に、アリアの心臓がギュッと掴まれたような苦しさを感じる。
なんとか返事は返せたものの、自分に向けられた訳でもないその一言にトクトクと勝手に早まる心臓のせいで少しだけ顔が赤くなってしまった。
「あれ?アリア?大丈夫?顔が赤いけど…もしかして、ずっとネイリンと一緒にいたから…ネイリンの熱、うつっちゃった!?」
「う、うつってないよ」
「本当に〜!?えいっ」
赤くなったアリアを心配するように覗き込み、ネイリンは掛け声と共に熱の下がった自分のおでことアリアのおでこをコツンとぶつける。
ほのかな体温とくすぐったい吐息がかかる。
「むむむ、、嘘ではなさそう?」
「ね、言ったでしょ?移ってないって…ほら。ネイリン。ちゃんと横になって」
「わわっ!はぁい!」
咄嗟にとってしまった行動に、今更ながら恥ずかしさを覚えたのだろう。
今度はアリアのほうがまた少し頬を染めて素直に布団に潜り直す。
もぞもぞとしばらく大人しく過ごした後、不意にネイリンが布団の中から声をあげた。
「ねぇ、アリア」
「なぁに?」
「…看病、大変じゃなかった?」
「ううん。全然。ほら、小さい子が熱を出すとよく面倒見てたから」
「ふぅん…」
当然の事のように返事をするアリアの言葉に、ネイリンの胸は暖かさで包まれた。
「でも、ネイリンは…」
「うん」
「…こんな風に、看病してもらったこと、なかった、から…」
「…そっか」
少しだけ布団から顔を出したネイリンが、まっすぐにアリアを見つめる。
「…ありがと」
「…どういたしまして」
お互いに無言のまま暫く見つめ合う。フッと同時に表情を緩ませると、和やかな空気が部屋を満たした。
「もし、アリアが熱出したら。ネイリンが今度看病するから」
「ふふふ、頼もしいね」
「信じてない?!」
「ううん、信じてるよ」
「むぅ…」
「ネイリンは頑張り屋さんだからね」
「…そうかな」
「そうだよ」
目線を合わせる事なく、心地よいやり取りをポツポツと暫く交わし合った後。
アリアが仕事の手を止めて、ネイリンへ向き直った。
「ねぇ、ネイリン」
「なんだ?」
改まったようなアリアの口調に少し驚きながら、ネイリンが顔を向ける。
その表情は、慈愛に満ちていて…また一つ、心臓がドクンと高鳴る。
「もう『大丈夫』って言わなくていいからね」
「アリア…?」
「辛い時は辛い。痛い時は痛い。苦しい時は苦しいって、言って良いんだよ。」
「〜ッ!?」
そういってアリアは、優しく腕を伸ばしてネイリンを抱きしめる。
回される腕と収まった胸の中、ふわりと薫る水の香りに、ネイリンはツンと鼻の奥が痛んだ。また目の奥が熱くなって、少しだけ視界が緩む。
「パンケーキ、楽しみだね」
「…うん、楽しみ」
◇◇◇
ーもう泣いていないのに、まるであの時のネイリンを慰めるような腕の中が、どうしようもなく暖かくて、幸せで、やっぱり泣きたくなった。
きっと泣いちゃっても、アリアは困って嫌がってどこかに行ったりしないで、ずっとこうしてくれる。それが嬉しくて…胸が痛い。
どうしよう。
ネイリンはアリアが好き。
でもアリアはネイリンを好きになったりしない。
その事実が、好きって気持ちにチクチク刺さって抜けない。
どうしたら、いいんだろう。
ネイリン、どうして女の子なのかな。
ネイリン、どうしてアリアの好きな人になれないのかな。
やっぱり、少しだけ泣いちゃおう。
…明日も楽しみだけど、今はまだこのままで居たいな。
なんて思っちゃうネイリンって、ちょっとだけズルかも。
◇◇◇
ーどれだけこの小さな体の中に、心の中に、傷を付けながら過ごしているんだろう。
かわいらしい彼女が心から笑ってほしい。ずっとずっと、笑っていてほしい。
そう思うと、自然と彼女を抱きしめたくなってしまった。
柔らかい髪をゆっくりと撫で、小さな体を抱きとめて居たい。
…でも、それは僕のエゴだ。
弱った彼女を責め立てるような過去が消えてほしくて、でも出来る事がなくて。
1人傷付いてきた彼女へ駆け寄る事が出来ないから。
今、ここにいる彼女を抱きしめているだけ。
…本当はイヤだったりしないだろうか?
ネイリンに嫌われてしまったらと思うと、胸がどうしようもなく痛い。
ああ、彼女が、大切だ。
こんなにも誰かを大切だと思うことがあるんだと、分からなかった。
知らなかった頃の僕にはもう戻れない位には。
胸に染み込む涙を感じて、更に彼女の体を強く抱き寄せた。
涙が止まって、明日の笑顔を心に描きながら。
…明日も楽しみだけど、今はまだこのままで居たい。
そう思ってしまう僕は、少しだけズルいかもしれない。
◇◇◇
窓の向こう、雲の切れ間から夕日が優しく2人を照らし出す。
長かった雨は去っていく。
明日は、快晴。
◇◇◇
END
◇◇◇