【stargazer】
【stargazer】
◇◇◇
「ねぇ、恋瑚ちゃん。月を見に行かない?」
新月の夜。空を染める暗闇に溶けるような髪を揺らし、艶やかな唇を蠱惑的に緩めた彼女は、星の瞬きをバックに窓から私を誘った。
◇◇◇
眼下には街の営みが、頭上には星々が煌めく夜空の海を、彼女は私の手を引いて泳ぐように飛ぶ。
決して早い速度ではないが、風に煽られる緩いブロンドヘアーがたなびく感覚が心地いい。
「ねぇねぇ、恋瑚ちゃん!寒くない?」
「うん、全然」
「ならよかった〜!」
嬉しそうに笑う彼女…椿姫の横顔には、人の目で見えない膜状の魔力が張られているそうだ。
その膜は、今私の体も覆っているらしい。そうすることで寒さを感じずに済むし、風も気にならない所か彼女とのお喋りもこうして普通にできてしまっている。
不確定な言葉ばかりなのは、椿姫は魔法使いで、私はただの人間だからだ。
空想や絵本の中でしか語られないような不思議な存在が、私の手を掴むだけで空を飛ぶ。
「ねぇ、つーちゃん」
「なぁに?恋瑚ちゃん」
「今日、お月様は登ってないよ?」
「ふふん♪勿論分かってるよっ!まぁまぁ、着いてからのお楽しみってね〜」
私は、決して言葉が多い方じゃない。
現に、空を飛んでる、と言う、通常起こり得ない不思議で楽しい体験よりも…私は彼女と手を繋ぎ、こうして緩やかに過ごせる事自体が嬉しく感じている。
不意に、冷たくて細く滑らかな彼女の指が深く私の指を掬いあげ弄んだ。
「でもさぁ〜…こうやって空のお散歩するのも、楽しいね♪」
「…うん、楽しい」
…時折彼女はこんな風に、私の欲しい言葉を驚くほど的確に言い当ててくるのだ。
その都度、胸の内がキュウっと絞められるような甘い苦しみを感じる。
この気持ちも、彼女に伝われば良いのに。もっともっと、伝われば良いのに。夜にはためくツインテールの毛先を手繰り、こっそりとキスをした。
◇◇◇
暫く夜の飛行を堪能していると、周囲の光景が深い森へと移り変わる。
変わり映えの無い夜の森を幾らか進んだところで彼女の動きが止まった。
遠過ぎて街も見えず、なんの変哲もない森の真ん中、その上空だった。
「…ここは?」
「私のお気に入りの場所!」
悪戯に微笑む彼女が空いた指で空を切る。まるで包丁で切り込みを入れたように空間が裂け、その向こう側に何かが見えた。
「つーちゃん、ここって、入れるの?」
「当たり前じゃん!恋瑚ちゃんと過ごしたくて連れてきたんだもの!いこっ!」
「…うん」
一際大きく繋いだ手を握り返すと、彼女と共に裂けた空間、その向こう側へ渡った。
◇◇◇
「わぁ…素敵」
私の目に先ず飛び込んできたのは、巨大な木の幹だった。
今浮かぶ場所も地上からは随分と離れている場所にも関わらず、空を貫くように聳える大樹と、その周囲の空気はまるで清浄そのものだった。
時折多く茂る木の葉が揺れるたびに蛍のような灯りが灯っては消える光景が、一層幻想感を掻き立てていた。
「今から本番なんだから、ここでそんなに驚かれると困っちゃうな〜?」
「え?」
圧倒的な存在感を前に、感嘆の声だけを漏らすばかりだった私の前に、楽しげな彼女の声が響く。
「本番って…?」
「むぅ〜…何見にきたか忘れちゃったの恋瑚ちゃん?」
拗ねたように鮮やかな赤い唇を尖らせ、私の体ごと抱き寄せると、今浮かんでいた場所よりも更に空を目指して登ってゆく。
物理法則を無視した動きに苦痛はない。代わりに、彼女の甘い香りに包まれて、頭がクラクラしそうだった。
「ほ~らッ!最初からつーは、月を見に行こうって、言ったじゃん!」
彼女の胸に顔を埋め、すっかり体を預けきっていたところで、そんな声が彼女から上がり、上昇が終わったようだった。視界の端から照らされる輝きに、少し目を細めながら目線を移せば…
「〜っ!」
「ねっ!すごいでしょう〜!?」
その光景は言葉にならず、息を呑む。
巨木の頂上の枝に着陸しても尚、彼女の腕を抱きしめながらあまりの美しさにボゥと見つめ続けてしまう。
暗闇に燦々と輝く、見たこともないような青白い大きな満月がそこには浮かんでいた。
わずかに青みがかった月に巨木の青い葉は騒ぎ、時折蛍のような小さな光を飛ばして月の表面を楽し気に踊り消えていくのも、
より一層の神秘を引き立てていた。
「今日は、新月、なのに…なんで?」
「アチラが新月だと、コチラに月がやってくるんだぁ〜。今日はね、ここが一番見えやすいと思って!」
何とか絞り出すように言葉にした疑問に、答えになっていない答えが返ってくる。
そうして暫く、枝というには幅のある空間に立ち並び、身を寄せ合いながら、ただただ、満月を眺める。
降り注ぐ月の光は不思議と、アチラよりも柔らかく優しく、暖かかった。
「…キレイ」
闇夜を照らし上げる神秘的な光に照らされた彼女の横顔に、そう声をかけた。
彼女は、サラリとツインテールを躍らせ、キラキラとした瞳で私を見つめ返す。
満月が映りこんだ彼女の瞳は、この世の誰よりも、奇麗だった。
「でしょ?でしょ?だから一緒に見たかったんだよねぇ~」
「…本当に、奇麗だよ。つーちゃん。連れてきてくれてありがとう」
まっすぐに彼女の瞳を覗き込み、まっすぐそう告げる。
「えへへ、ありがと♪あ、お茶にしよっか!」
「…」
彼女は私の体に一度強くギュッと抱きしめた後、パッと離れ、クルクルとダンスを踊るように枝の上を回りながら、お茶の準備をはじめてしまった。
「(ちょっと頑張ってみたんだけど、なぁ)」
やっぱり、自分の恋心は伝わっていないような…そう感じて、小さく溜息を吐く。
でもこの夜と特別な空間での2人きりに感じる幸せが変わる事はない。
どこから出したのだろうかわいらしいランチョンマットの上に、ティーセットとクッキーを準備した彼女は元気よく私を呼んだ。
「恋瑚ちゃ~ん!」
「うん…今行くね」
2人きりの真夜中はまだまだこれからなのだ。
◇◇◇
「(…ふふ❤恋瑚ちゃんのブロンドヘアーに反射するお月様、絶対奇麗だと思ってたけど…本当に、奇麗だったなぁ。世界一、奇麗…)」
彼女の大きすぎる愛に、まだ、名前は、ない。
◇◇◇
END
◇◇◇