【Look Ahead】
【Look Ahead】
◇◇◇
ーカツカツ
その音に合わせて顔を上げて、ふっとよぎっていく今までに思考を委ねる。
もう居ない彼に出会う前の自分を、今の自分でなぞっていく。
◇◇◇
随分な幼少期だったと思う。
貧しかった訳では無く、人より裕福な家庭で、生活に不自由を覚えたこともない。
なんなら周囲も同じく裕福な家に囲まれ、その中でも一番大きな家だったという印象が強い。
近所の人に友好的に話しかけられることもあったが、どちらかといえば遠巻きにされていたのだろう。
更に言えば家の中でも俺は遠巻きにされていた。
そういう空気は伝わり易いものだから、きっと触らぬ神にはなんとやらと言う奴だったのだ。
優秀な兄にばかり構う両親の関心を引くには、俺は何も持ち合わせていなかった。
何をやっても月並みにこなせたが優秀と呼べるほどでもない。
ただ、人を見る目だけはあったようで、早い内からこの自分を愛さない家の中で、どう過ごせば彼らの機嫌が良いか理解できてしまった。
それは、身近な人間の関心を引こうとする幼い心を閉ざすには十分な理由とも言える。
…今思えばそう言った態度もまた、可愛げが無かったのだろう。
兎も角、俺が世界の友として選んだのは本の世界であり、只管に閉じた世界だったのだ。
◇◇◇
「居た居た、田ノ宮君。…ねぇ、ねぇってば!」
「…ん?ごめん、今僕に声かけた?」
卒業を目前に控えた高校三年の冬。
記憶に残っていないから、おそらく顔も上げずに返事をした筈だ。
適当に手を伸ばした一冊が思いの外面白く、高校の図書室の片隅…既に通いつめ指定席のようになっていた窓際の隅で緩やかに風を感じながら文字を追っていたのだから。
「はぁ…校内放送聞いてた?呼び出されてるよ」
「そっか。悪いな、ありがとう」
視界の端に映るスカートの揺れに苛立ちを感じて本を閉じ、出来るだけ柔らかに感謝を伝えた。
要件を伝え終えた彼女の髪がバツの悪そうに揺れながら離れていく。
自由な空間から不自由な空間へと移動を始めながら、幾つかの考え事をしていたと思う。
例えばテストの点数は悪く無かった筈だとか、早く要件が済んだら本の続きが読めるとか、そんなありきたりな事。
「田ノ宮さんのご家族が事故に遭われたそうよ。早く病院に向かって…」
つまり、本の続きを読む機会が暫く無くなる事は全く想定して居なかったのである。
◇◇◇
そこからの記憶は断片的だ。
あまりの出来事に心と身体がバラバラになって居たような…と、語れば詩的だが、単純に情報量が多かった上そこまで強い関心を抱けなかった。
病院に到着し、冷たくなった両親と兄を見た時は流石に何も思わなかった訳では無いが、物語の主人公のように涙がこみ上げる事も無かった。
「ご両親とお兄様は仕事の為、移動中の事でした…この度はご愁傷様です」
「…はい」
「もう少しで高校を卒業されるとの事でしたね。ある程度の事はお手伝いさせていただきます」
「よろしくお願いします」
家にも何度か来たことがある、父の秘書をしていた男が説明と共にサポートをしてくれた。
次々とやってくる大人達に囲まれながら、両親と兄の葬儀は進み、遺産の手続きを淡々と進めていく。
…ただ、ここでも。
自身に降り注ぐ目線に、感情に、善意で接している人間など居ない事を理解した。
もしかしたら両親達の事すら事故では無かったのかもしれない。
考える程に、この場に居続けるのも良くないと、当座生きていくのに必要な金銭分だけが手元に残るよう、他の相続は周囲の求めるままに手放した。
「(僕1人で生きる分には、問題ないだろう)」
高校の卒業式が終わり、卒業証書と共に最低限の荷物を抱え新しく契約した筈の住居へ向かった。
事前に準備した家具の少ない部屋へ荷物を置き、換気のために開けた窓際へ座って本の文字を追いながらぼんやり今後の事を考えていたと思う。
「(さて、何をしようか…)」
元々進学はせず、父の経営する会社の下請けにそのまま入社する予定だった。
事故の後「気にせず勤めるといい」と秘書の男には言われたが、当時の俺からすれば自ら望んだ道でも無く、面倒が起こるより1人になることを選択した。
「(急がなくても今は生きていける。でも、その先は?)」
新生活をするのに選んだこの街は、都会から少し外れた所にある。
この街に吹く風は温く、耳に届く喧噪もどこか控え目だった。
本のページを捲った知らない風につられて早足に文字を追いかけながら、漠然と「生きる」理由を探せないでいた。
微かな空腹を覚え、街に出た頃にはすっかり日が落ちていた。
まだ見慣れない街を歩くのに慣れていないせいか、周囲の風景は何時の間にか花街となっていた。
「(道、間違えた…引き返すか)」
「…待ちやがれッ!」
引き返そうと立ち止まり、反転した時だ。
路地から怒声が聞こえ思わず足を止める。
丁度目の前を駆け抜ける誰かの背中が視界に入ると同時に、強い衝撃が肩に走った。
さっきの怒声の主が前も見ないままに路地から飛び出したせいで、立ち止まった俺に衝突する。
「ってぇ…オイ!テメェのせいで逃げられたじゃねぇか!」
「ボクのせいじゃないけど」
「あぁ!?こんな所に立ち止まるからだろうが!?」
正直言って、面倒以外何も考えていなかったと思う。
理不尽に対する怒りや恐怖を抱く所だったのに。
そのせいで、荒々しく胸倉を掴まれたにも関わらず、男の怒りに歪んだ口元が何故か怯んだ。
「なんだコイツ…」
「おい何やってる」
男の後方から追加で低い声が一つ響いた。
同時に目の前の男の身体が震えたのを見て、上のやつが来たことはすぐ理解する。
「逃したのか、使えん。なんなら今捕まえてる坊主のが幾分かマシだな?」
「ア、兄貴…」
「…」
「どうだ。もしアテが無かったら雇われてみるか?」
冗談のような勧誘だが、差し出された節だらけの手に本気を感じた。
胸倉の手を弾き、しばらくその手を覗き込んで一言尋ねたのを覚えている。
「…それ、本読む時間、ある?」
◇◇◇
男の軽口に乗って、用心棒を始める事になり数年たった頃。
その日も窓際でページをめくっていると、玄関ドアが荒々しく叩かれたのを覚えている。
「オイ!田ノ宮ァ!起きろ!!」
「…起きてる」
「なら、とっとと出てこい!こンの虫野郎!」
「ハァ…分かってるよ」
「ったくよぉ…テメーは直ぐ本ばかり読んで…」
大きくはない花街の、そういった店々の用心棒を持ち回る。
どこか時代に取り残されたような、切り取られてしまったような、そんな仕事だ。
その休憩や見回りの隙を縫っては本を読み、集中しすぎて時間を過ぎることが多いからか、本の虫呼ばわりされることが多い。
今のやりとりのように。
「仕事はしてるだろ」
「遅刻ばっかじゃねーか!クソっ!!調子に乗りやがって…!!!」
男は部屋から出てきた俺の頭を荒々しく掴み、小言を続けた。
だが、足の揺れを見るに八つ当たりだろうとすぐ予測もついた。
この男が通っている店の女性に相手にされない苛立ちを、俺にぶつける。
言ってしまえば、よくある事だった。
頭から男の手を払い落し、小さな文句を聞き流しながら、支度を進めた。
結果的に、少し遅刻しながら足を踏み入れた小さなクラブ内。
落ち着いた室内に甘い香水と酒の匂い、ムーディな音楽と共に楽し気な男女の笑い声が響いていた。
制服に着替え、バーカウンターに向かえば、和服を着こなした妙齢の女性は眉を顰めて俺を睨んだ。
「また遅かったじゃないか。減俸モンだよ」
「困らないから」
「オレは困るんだよ!?はぁ〜…それじゃ、ママ。上がるね~」
「はいはい、ゆっくり休みなね」
「お疲れサン」
「お前に言われたくネェ~!」
側に控えていた男の小言を流し、すぐさま定位置に付く。
ぐるりと見渡すと、暗い店内で分かり難くも赤ら顔が進み始めたキャストの姿が視界に映る。
「…3番、チェイサー差し入れます」
「あぁ頼むよ…ちょっと飲ませすぎだね」
店全体が見渡せる位置に立ち、こまやかな気配りを回すのがボーイの仕事。
そのまま暫くすれば、酒の進んだ陽気な声が大きく響いた。
「ねぇ~この後俺と一緒にイイとこ行こうよ~♪」
「ダァメ…ちょっと、お客さんしつこいわーッ!?」
「そーいうとこが生意気なンだア…イテテッ!?」
「…そろそろ、退店だ。出禁になるか?」
「ごめん、ゴメンって!ちょっとチョーシ乗っただけだよぉ~!」
たまに常連が深酒しオイタしかければ、手首を捻り退店させるのは用心棒の仕事。
仕事内容にやりがいのような物を覚えることはなく、本を読む以外は単調な物だ。
そんな時だった。桜小路さんと初めて出会ったのは。
「オイオイ、オッサン!ちょいと金貸してくれんかなぁ〜?」
「ははは…困ったな」
持ち回りの見回りをしていると、深酒した男に見知らぬ男が絡まれていた。
店側でこういうイザコザを排除するのも仕事の一つ。
ため息を1つ吐き、酔っ払いの肩に手を置く。
「オイ」
「アァ!?なンだ…ァ!?」
「とっとと失せな」
振り返ると同時に腹へ一撃。
重く入ったソレに呻きながら、ヨロヨロと下がった所で更に睨みを効かせるとそれ以上絡むことはなく去っていく。
「いやぁ、助かったよ!」
「はぁ…仕事なんで」
絡まれていた男性…歳は40代だろうか、上質なコート1つとっても、この辺りに居るには絡まれやすい中年男性だと思った。
「用が無いなら離れてくれ。今の時間、この辺りじゃアンタはカモにしか見られない」
「おや、忠告まですまないね?そろそろ迎えが来るからと、早めに出たのが良くなかった…後ろの店の子かな?」
「は?はぁ…そんなとこ」
「用心棒かね、腕も良さそうだ。おっと名乗り遅れたが、私は桜小路と言う」
「…どーも」
「君の名前を聞かせてもらっても?」
「田ノ宮………」
簡単にしか返事を返さない俺に対して、桜小路と名乗った彼はどこまでも穏やかだった。
口数は多いものの、不快になることも無いまま幾つかやりとりを続ける。
その中で、俺は彼がどんな人物なのか良く掴めずにいた。
仕草や言葉から少しも読めない事は初めてで、何処か戸惑いながらも気がつけば彼を見つめ返したのを覚えている。
少し話をした所で、迎えの車がやってきたのか路肩に停車した。
その音を聞き、彼の眼から目を逸らした。
「おっと迎えが来たようだ。ソレでは」
「えぇ、はい…」
視界の端で桜小路さんは優雅にお辞儀をし、車の側へ歩み寄った。
後部座席のドアを開けようとし、何か思案したように一度立ち止まる。
そして、車の屋根で人差し指を二回軽く叩いた。
整えられた形の良い爪がコツコツ鳴る。
ハッとして彼の顔を見上げると、柔らかい皺が出迎えた。
「田ノ宮クン。もし良かったらなのだが…」
「…なんですか?」
俺は今だって、彼が何を想い、考えているのか、分からない。
その最たる瞬間が、この時だった。
「『何でも屋』をやってみないかい?」
◇◇◇
俺があの場での返事をすぐに出せずにいれば、「返事は今度でも。また来るよ」と車に乗り込み、去っていった。
それから桜小路さんは頻繁に顔を見せるようになる。
知らず知らずの内に、彼の言葉によく耳を傾けるようになっていった。
「私には横のつながりが広くてねぇ。色々手広くも仲良くやらせてもらっているんだが、同時に相談事を受ける事も多いんだ。だから、細かい問題が起こった時に対処できるような場所が欲しいな、と考えていたんだよ」
「問題?」
「例えば…飼い猫が逃げたとか、もう歳で買い出しに困るとかね」
「…はぁ」
「そんな時にキミと出会ったんだよ、田ノ宮クン!」
そういって皺を深め、俺を見つめる。
桜小路さんは出資者…つまりオーナー。
そして俺自身に『何でも屋』をやってほしいと語っているのだ。
このような形式で他にも様々な店に出資して商いをやってもらっているのだとも説明された。
何度も問答している内に、話は具体的になっていき、最後には俺を雇っていた元締めの承諾さえも貰って俺の元へやってきたのである。
「…なんで、僕だったんですか?」
最後に、俺は桜小路さんにそう問いかける。
桜小路さんはコツコツと爪を鳴らす。
俺が顔を上げて彼を見つめれば、一層皺を深めた。
「キミにぴったりだと思ったからさ」
「…それ、答えになってないと思いませんか…?」
桜小路さんの皺に釣られて小さく笑いながら、俺は『何でも屋』開業のサインを書き込んだのだ。
◇◇◇
繁華街の片隅にある古い一軒家を買い上げ、看板を掲げた『何でも屋』の日々は、桜小路さんの言葉を借りれば俺にピッタリだった。
仕事内容は今まで以上に多岐に渡る。
ペットの一時的な世話や預かり、壊れた家電や家具の修理、買い出しの代行、果てはただ愚痴を聞くだけ…どんな内容であっても、ある程度の事はこなせる器用さが幸いし、概ね問題なく仕事をこなせたのだ。
『やらなければ』と感じるのなら苦痛だが、課せられたノルマもない自由業にそれはない。
そもそも『やりたい』事を阻害する位なら仕事を受けなくてもいいのだから。
始めこそ、桜小路さんの友人や知人だという人々から持ち込まれる仕事ばかりだったが、暫くすれば噂を聞いて依頼を出す人やリピートしてくれる人も出てきた。
そうして細やかな依頼を解決すると、自由に過ごせる。
言ってしまえば自分だけの時間…読書の時間が増えたのだ。
「おや、随分とまた本が増えたね」
「許可は貰ってますよ」
「ああ勿論。キミの好きにしなさい…ただ、食事はちゃんととるんだよ」
「…分かっています」
時折様子を見にやってくる桜小路さんは、俺が増やした蔵書に目をやり皺を深めるのだ。
「それじゃあ、今日は何処にしようか」
そういって俺を食事に誘い、最近の仕事ぶりを報告するのが定例会の代わりとなっていった。
その日も近くの定食屋に足を運び、向かい合って食事を摂りながら桜小路さんは問いかける。
「最近困ったりしてないかい?」
「問題ないです」
「そうか、そうか。便利屋の評判も上々の様でね、私の耳にも入るんだよ」
「そうなんですか?」
「そうさ!この間もキミに話を聞いてもらえて助かったのだとか」
「…俺は、話を聞いただけです」
「それができる人は、中々居ないモノだよ」
「…そうでしょうか」
「そうだとも」
相も変わらず俺は彼の考えを読めなかったが、やはり不思議と嫌な気持ちになることもなかった。
穏やかに皺を深めながら俺と話す桜小路さんが、コツコツと爪を鳴らす。
ハッと顔を上げ、彼を見つめた。
…今日は何故か、その音色が気になった。
「…桜小路さん」
「どうしたんだい?」
「…いえ、なんでもないです」
浮かんだ疑念を言葉にしなかったのは、目の前の人に対して俺自身が抱いた気持ちに整理が付かなかったからかもしれない。
ー暫く後、桜小路さんが倒れたのだと連絡が入った。
◇◇◇
病院には様々な人が詰めかけていた。
中には何でも屋を利用した人もちらほらいる。
軽く会釈しながら桜小路さんの側へ進んでいくと、彼は相変わらず皺を深めながら一人一人に声をかけ続けていた。
その光景に、思わず、足が止まる。
そのまま自分の足をひたすらに見つめた。
彼が嫌だったわけでもない。
周囲の人々が嫌だったわけでも。
ただ、すぐそばの光景に名前を付けるのならば、人は愛と呼ぶのだろうと…見えないはずの形がこうして見える事に、その輪に入る事に、躊躇ってしまった。
俺が足を踏み入れて良い場所ではない、と。
コツコツ。
いつもより弱い爪の音にハッと顔を上げると、穏やかな海を思わせる双眼が、深いシワと共に俺を見つめていた。
「田ノ宮クン」
「…桜小路さん、俺」
「よかったらこれからも、お店、続けて欲しいな」
「…え?」
「君のような子にはね、自由に過ごして欲しいんだ」
「自由…」
「自由って、難しいことなんだ。けど、君なら出来る」
やっぱり俺には彼の思っていることが分からない。
なのに、全てを見抜かれているような、それが心地よいような。
今も説明がつかないこの感情の答え合わせをすることもなく、桜小路さんはこの世を去っていった。
◇◇◇
「ねぇ、そろそろ開店してよ〜!」
今日の始まりは、玄関から響く不機嫌そうな声だった。
俺は観念したように布団から這い出すと「少し待って」と声を上げた。
手早く身支度し、寝不足の顔を洗うと多少はマシになる。
「お待たせ」
「遅いわよ田ノ宮クン!11時行くって連絡したじゃない!」
玄関の鍵を開け、入り口のプレートをcloseからOpenに切り替えながら依頼人を居間へ案内する。
案内と言っても、彼女は常連の1人だ。
慣れたもので隅に重ねてある座布団を自分で引き出して座っている。
今日は少し崩して座っているから、きっと愚痴だろうと声を掛けた。
「ごめんごめん…それで?今回は…旦那さんと喧嘩した?」
「残念〜!喧嘩はあってるけど義母とで〜す!」
彼女はお得意様だ。
小さな喧嘩を旦那さんや姑さんと起こしては、こうして吐き出しにきている。
そして帰れば仲直りしている。
今この時間は、言ってしまえば簡単な避難所のようなものなのだ。
コロコロと変わる彼女の話に相槌を打ちながら、俺は1日の仕事のチェックを始める。
昼過ぎに相談がひとつ、夕方に買い出しの代行…夜もひとつあったが、今日でなくても良いだろう。
頭の中で仕事の流れをまとめ終えた所で、彼女の言葉が耳に届いた。
「それにしても、助かったわ」
「…何がです?」
いつもと違う話題だ。
不思議そうに彼女を見つめると、目尻の小皺を増やした。
「アナタがこのお店を辞めなくて」
「…それは」
「ふふ!私が愚痴を言える場所が無くなったら困るもの!」
楽しげに笑う声に肩をすくめる。
桜小路さん程ではないが、彼女も中々曲者だ。
そんな事を考えながら携帯に手を伸ばす。
「そろそろ席を外しますよ」
「えぇ、いいわよ」
彼女がサラリと髪をかきあげた。
もう愚痴はすっかり吐き出し終えた合図のようなものだ。
それに合わせて俺が彼女の旦那さんへ電話を入れれば、迎えに飛んでくる。
少ない謝礼を置いて2人笑顔で帰るまでが定番の流れだ。
「ふぅ…それじゃあ、今日の分を片付けるか」
2人の背中を見送って、俺は大きく伸びをしながら今日の仕事へと戻ったのだった。
◇◇◇
ー目を開く。
目の前にはすっかり使い込んだ机と、書類、読みかけの本。
そして読み終わって積み重なった本たちが視界に入る。
ふぅ、と誰に聞かれるわけでも無いのに息を吐いた。
こんな自分の事を長く思い返したのは、今日来た彼女の一言がキッカケだろう。
桜小路さんが死んだ後、俺は経営権は自由にして良いという遺言を受け取った。
そして、店を続ける選択をしたのは俺自身の決断だ。
…こうして思い返せば、自分の決断で道を決めたのは初めてだったように思う。
「君になら、出来る」
あの時言われた言葉を口の中で反芻する。
未だに俺にとって彼という人間は分からないまま。
…そして、この世界で、『生きる』という事も、分からなかったんだ。
ただ、息をしていただけ。
無意味に世界の冷たさに殺されないよう、息を潜めて。
死なない事は、生きようとすることでは無い。
『生きる』理由も意味もないままに、流されるように生きてしまった。
もう一度、人差し指で机を2度叩くと、カツカツと音が鳴る。
俺の鳴らす音は、彼の鳴らす音とは微かに違う。
顔を上げても、そこにあの深い皺を見ることはない。
それでもこの音を聞くと、不思議と顔が上がるのだ。
「なんだか、不思議な気分だ」
空っぽだった心に少しだけ、響くこの音を産み落としたのなら、世界も悪いものばかりでは無いのかもしれない。
ならば、彼の言葉通りもう少し自由に生きようと思ったのだ。
ほんの少しだけ。
彼のような人と出会えた…この世界に期待して。
◇◇◇
END
◇◇◇