【揺蕩う虚の海中】
【揺蕩う虚の海中】
◇◇◇
「…死にたい」
「…おい、今の一言は流石にわかるぞ。何の脈絡もない。代筆中に主観を語るな相棒」
「僕は僕の言葉を紡いだに過ぎないさ、相棒」
「舌が回るのはどっちだっていうんだ。全く」
希死念慮と軽口の問答が、ガランとした物の少ない部屋に響く。
唯一と言っていい家具であるくすんだ机の前に相棒…彼が座り、少し離れて締め切られた窓の傍に僕がいる。
車いすに座り、窓に反射する自分の顔は、幽霊のように生気は無く、死んでいると言われても妙に納得が出来そうだった。
「今日はここまでにしておくか?」
「今日と言わず、このまま全て終わっても構わない」
「…もう少し続けるぞ」
相反するように、生気に満ちた彼の姿を気怠く追えば、机の上には原稿用紙とインク瓶、手には万年筆が握られており、今、僕がつぶやく言葉達を拾い上げ書き留めるという僅かな意味しか示さない行為を行っている最中である。
「…何を言っていただろうか」
「別になんでもいい。アンタの頭に浮かぶ全てを書いてるだけだ」
「…死に「それは書かない」
「融通が効かないね。それで僕の代筆を嗜もうって言うんだからちゃんちゃらおかしいだろうに」
「それはアンタの願いであって、留めるべき言葉じゃないだろ」
車椅子に身を預け、窓に流れる景色に溶け込む彼を見つめれば、力強い意思と共に目線が跳ね返る。
見ていられなくて、目線を外した。
何も無い部屋の壁を見れば、規則性をもって染みだらけだ。
この部屋は執筆用に誂えた空間だったが、文字を捉えられなくなって意味を無くした本達は全て手放した。
なのに、まだ染みついている。
「…未練たらしいものだ。全てを手放しても尚残るのは、一度はこの手にあったからなのだろう。初めから何も無ければ、何かを憂う事も恐れる事も無かったのだろう。憂いよ。お前はどうしてそこにしがみついている?」
原稿用紙に万年筆が走る。
吐き気を催す程、淀みもなく心地の良い音だ。
耳馴染み深い、僕の失った音が奏でられている。息を呑む。
「時間よ、知識よ、経験よ。この身に入り込む全ての者ども。何故そこに居続ける?捨てても失ってもあり続ける事を、どうしようもなく突きつけるだけの冷たい海で横たわるのだ。最も残酷であり続ける母よ。…ワタシは、何も望まない」
大きく息を吸い、そして吐いた。肺に満ちる埃とインクと彼の熱は、確実に僕を焼き焦がす。
失った筈の熱だ。
「…もう、いいだろう」
「わかったよ相棒。休もう」
筆を置き、カタンと軽い音を立てて椅子から立ち上がった彼はこちらへ歩みを進める。
窓の鍵を外しガタつかせながら開く。
温い風が頬を撫でた。
「気分転換に散歩にでもでるか?」
「今は、良い」
ゆっくりと瞼を下ろす。
思考の海から離れ、虚の海へ。
「…やっぱり、僕はアンタの言葉が好きだよ」
「一体何度言うんだ。今少しばかり休もうとしているっていうのにさ」
「改めてそう感じたんだよ。書き留めながらさ」
「…愚か者」
◇◇◇
瞬きの間が過ぎ、ゆっくりと海から浮上する。
彼の姿は…自分の直ぐ横に椅子を引いて座っていたようだ。
僕の言葉を書き留めたであろう原稿用紙を手に持ち、真剣な表情でソレと向き合っている。
「ソレは面白いか?相棒」
「起きたか。ああ、そうだな。やっぱりアンタは最高だよ」
不遜に、傲慢そうに口角を上げる。
まだ知見も深めていない大学生の、一体何処に僕が刺さったというのか。
甚だ疑問は拭えない。しかし、僕もこうなって初めて気が付いた事がある。
「…見せろ」
「ああ…大丈夫か?」
「別に<見る>だけなら問題ないと言っているだろう?」
原稿用紙をひったくるように彼の手から奪う。
緻密にマスの中に並んだ文字達の意味や概念は頭の中で浮かんでは消える。
しかし、残ったものが、あった。
「(…美しい)」
彼の文字は美しかった。
造形、線の太さ、緩急、流れ滑る先のインク溜りですら。
意味など分からなくても造形の美がここに記されている。
それだけは理解できるのだ。
「…どうだ?」
「聞かれても、意味のある事なんて言えやしないよ?」
「いや…アンタの言葉である上に文字を<読めない>事は分かってるんだが…」
彼は歯切れ悪く、口元を曇らせる。
一体何が言いたいのだろうか。
原稿用紙から彼へ僕が目線を移すと顔を逸らされる。
…そのお陰で、向けられた右耳が少々赤らんでいるのは見えてしまったが。
「アンタの言葉を僕が文字として起こした、っていうのが…嬉しくて」
無骨な大きい手で顔を覆ってしまう。
指先にはインクの染みとペンダコが見えた。
たかだか数枚の原稿用紙でできるものではない。
こうやって僕の言葉を書き記す前に、練習でもしたのか?
「だから、改めてその事について、相棒がどう感じるかな、と…」
「まだ物語を紡いですらいないのに?」
そうだ。
今回のは双方の練習の様なものである。
その練習だけで、目の前の彼はこのような有様になるのだ。
「そんなに、僕の言葉が…」
「…?」
「…いや、良い。」
「えっ、ちょっと!相棒!そりゃないよ!」
ぐっと続きそうになった言葉は、また今度で良いだろう。
長い付き合いになるのだから。
「精々、この美しい文字で僕を綴るがいいさ、相棒。なぁ?」
◇◇◇
END
◇◇◇