零
深夜0時を回っただろうか。街の人通りは少なく、車も滑るように走っていた。
車が数える程度しか残っていない駐車場に停車させると、彼は運転席から降りた。ぬるい風が、額にかかる前髪を吹き上げる。
とある薄暗い中華料理店。それが、志賀光希が呼び出された場所だった。店の扉を開くと、馴染みの店員が駆け寄ってきた。そのまま「日向は?」と尋ねると、恭しく頭を下げられ先を歩かれる。大人しく着いて行った先にあったのは、「海月の間」と書かれた完全個室だった。
一応ノックして入ると、すでに日向が席についていた。自分より筋肉質な彼は、それでも下品に見えない絶妙なサイズ感のスーツをまとっている。
軽く片手を上げる日向に、光希は「悪い」と声をかけた。
「思いの外事務に手間取った、これでもとばしてきたんだ」
「いいよ、俺も今着いたところ。今日は俺たち二人だから」
それを聞き、少し不思議に思いながら光希は日向の隣に座った。すると「いやカップルじゃないんだから」と日向は笑いながら対面の席を指差す。ちょっとしたユーモアのつもりだったが、光希は素直に頷き指差された席に腰掛けた。
「でも、二人って? いつもこの店使う時は『四』の集会だけじゃなかった? あ、でも先月葉月の誕生日やったか」
「そうそう、もうあっという間に全員アラサーだよ……って、そんなのよりさ」
光希にメニューを兼ね備えたタブレットを差し出しながら、日向は続ける。
「『S』の私生児がまた見つかったって、『S』から情報が下りてきた。しかも女性らしい」
「珍しいな。今までそういう血なのかってくらいこっちの地域には男しかいなかったのに」
そう言いながら、光希は受け取ったタブレットで三人前の量の食事を注文した。彼が『四』どころか『S』でも有数の美食家かつ大食いなのをよく知る日向は、もう何も突っ込まなくなっている。
「で、繁華街のとある店がその女性を『使ってる』らしい」
ようやく、呼び出された理由を察した。
光希は開かれた扉から注文した料理を受け取りながら、「ネタは上がっている?」と日向を見た。すると、日向は鞄から自前のタブレットを差し出してくる。
画面に映し出されていたのは、様々なデータだった。確認しながら、どんどん光希の顔が曇っていく。
「ひどいな、しかもよりによってあそこか」
「みっちゃん知ってるのか? その店」
「界隈でかなり有名だよ、主に海外から攫ってきたアジア女性を使っているって聞いたけど。なるほど、無戸籍なら日本人でも使うか」
「その情報、使える?」
日向の様子を伺うような目線を浴び、光希は頷く。
「任せて。一週間もあれば事足りる」
光希の静かな、そして安定した言葉に「そう言うと思ったさ」と日向は安心したように微笑んだ。
日向と分かれ、一時間ほど。光希はすでに目的地へと到着していた。スマートフォンで通話しながら、革靴を鳴らして先へと進む。
「……うん、分かった。じゃあそれは凛判断で動かしておいて。俺はこれからが佳境だから」
『分かった、頑張ってきて。何人か念のため送っておく?』
薄暗いとはいえ、ほんのわずかながらも照明は届いている。それを頼りに、先へと進む。
「そうだね。じゃあ暇そうで、かつ腕っ節が強そうなのをよろしく」
仕事の都合上連携を取る事の多い反川凛にだけは、事前に話を通していた。彼は事情を聞き、「新しい仲間かぁ」と呑気に呟いていた。
通話を切りスマートフォンをポケットに突っ込むと、光希は改めて前を見た。床に突っ伏するようにして、男は呻いている。彼は先程、凛と通話する前の光希にのされたばかりだった。
そして恨めしそうに光希を見上げ、吠える。
「お前、やっぱり『S』か! こんな事をしてただで済むとでも…⁉︎」
「ただではないよね、むしろうちには利益がやってくる。数千万は見込めるかな」
「ふざけたこと抜かしてんじゃねえ! くそ、こっちにはバックだっているんだ!」
「そのバック、承金組だっけ。そこの組長、俺のやってるイタリアンのうちの一つの常連だよ。俺の料理のファンって言ってくれてた」
何も調子を狂わせず淡々と話す光希に対して男は言い返す言葉を必死に考えているのか、散々光希に殴られて欠けてしまった歯をカチカチ鳴らしていた。そんな彼の前髪を、光希は容赦なく掴む。
「ああ、寒い? ヤクでも切れた? でもこの後もっと寒い思いするよ、今のうちに慣らしておいたら?」
「な、何が望みだ! 金か!」
「向こうしばらくの利益、なら考えるけど目先の端金なら興味が無いな。生憎そんなに金に困っていないもので」
溜息をつくように返しながら、光希はぐるりと室内を見渡した。
もうすでに、違法入国していた女性たちの引き渡しは外部に待機している部下相手に完了している。邪魔してきたこの男以外の用心棒も、刃向かってきた分はすでに床で気絶していた。
もう追加の人員は来ない、と確信して本題を切り出した。
「目当ての女の子が一人いるんだ。その子をくれないかな」
「も、ももももちろんだ! だから命だけは!」
「うん、そのために寒さに慣れておいた方がいいって言ったんだよ俺」
階下で足音が聞こえてきた。「開けろ!」「どけ!」など乱暴な声が聞こえてきたがそれはすぐに近くまでやってくる。
姿を現したのは、光希が部下として雇っている男達だった。全員筋骨隆々で、恐らく凛が張り切った人選を行った結果だろう。
「女達は全員担当に回しました、遅くなってすんません」
「構わないよ、むしろ素敵なタイミングだ。すぐに船と拘束の手配、いけそう?」
「ウス、この野郎っすね」
ひとりが、男を羽交締めにした。喚く男に頭突きを一つ見舞って気絶させると、彼は男を担いで出て行った。他の者も、気絶している男たちをずるずると引きずっていく。
それを見送ってから、光希はいったん部屋を出て通路に足を踏み入れた。客も引き払わせているので、もはや残る人間は……あと一人だけだ。
このビルに立ち入るのは初めてだが、よく見る違法風俗店と同じようにカモフラージュされていると分かる壁は目視で確認できた。しかし恐らく、『彼女』はどこにもいない。いるとすれば、きっと。
最奥、「豚小屋」と看板がかけられたプレイルーム。扉の鍵をふた蹴りで破壊する。日向なら一回だったかな、と思いながら扉を手で開いた。
「…ひどいにおいだな」
排泄物やら腐臭やら、色々混ざったにおい。顔を思わずしかめそうになるが、光希は耐えて床を見た。
そこには、裸になった女性が寝そべっていた。目の焦点は合わず、首には太い鎖が巻かれている。彼女はよだれを垂らしながら「お客様…?」と光希を見上げた。
「君だね、俺達の仲間は」
長い黒髪、アーモンド型の目、そして薬剤で無理に調整したことがよく分かる痩せた体。しかし尻と胸元だけは、男好みのする大きさと形を保たれている。メスの跡はないので、恐らく栄養剤の類だろう。
美しい、と思った。けれどそれを言うのは今ではない、と判断して代わりに光希は床に片膝をつく。目線の合わさった先で、彼女は再び唇を動かした。
「な、か、ま?」
まともに発音も出来ないくらいにまで憔悴しているらしい。ここまで酷い状況の女を見るのは、いくら慣れている身とはいえ気分のいいものではない。
「しかし随分と非人道的な拘束だな、チェーンソーでもないと厳しいか……少し待っていて、持ってこさせる。その後は、一緒に帰ろう」
そうやって光希は微笑んで……彼女の手を取ったのだった。
一
いつだって、夢の中は真っ暗だった。夢を見る知識も無かったのかもしれない。
諦めてしまっていた。それでも、どこかにきっと捨てきれないものがあった。
だからこそ……突如として目を刺してきた日差しに、内心驚いた。
「ああ、起きた? ごめんね、カーテン開けちゃった」
甘くはない、けれど優しい声が降ってきた。そっと身を起こすと、自分がいるのはベッドの中だった。
かつて自分という女を買った男が、確かこういったベッドで寝かせてくれたことを覚えている。確か速攻で店の人に連れ戻された。
そして、いつものように豚小屋に……。
「う……」
ずきり、と脳の奥が痛む。頭を抱えた腕に、何者かの手のひらが添えられた。
「可哀想に、まだ痛むんだね。まあどぎつい薬使われてたみたいだし……早く抜けるといいんだけれど」
初めてそこで、声の主を見た。
さらりとした黒髪に切れ長の目の、綺麗な男だった。自分よりは間違いなく年上だろうが、若い。
格闘慣れしていそうな体付きだと、散々男の体を見せられてきたせいですぐに気付く。しかしその男は、今までの男たちと違ってきちんと服を着ていた。
「ここは……」
「もう経緯まるごと話しちゃおうかな。ああいいよ、そのままで」
彼はそう言って、ベッドの脇に置いてある小さな椅子に腰掛けた。きちんと色味などを調整された部屋に、不似合いな椅子だった。
「俺は君の身柄を確保するように言われて、あの店にお邪魔した。それは覚えてる?」
その言葉にハッとする。彼に掴み掛かる勢いで、「オーナーは⁉︎」と叫んだ。しかし突然の大声のせいで、喉が裂けそうになり慌てて咳き込む。彼はそんな背中を優しく摩った。
「寝てる間も相当吐いたんだ、あまり叫ばない方がいい」
「吐……?」
「あそこのオーナーの件だけど、今どうなってるかは俺もよく分からない。聞けば分かると思うけど」
あの日のことを、脳味噌を掻き回しながら必死に思い返す。そのたびにやってくる、酔いに似た吐き気に思考が邪魔され……結果として、首を振った。
男は「それがいい」とだけ呟き、続けた。
「で、ひとまず君を俺の家に連れてきた。この後どうするかはまだ決めてないんだ、リーダーが色々あって今引きこもっててね」
「……なんで、私を?」
痛む喉を気休めに指で押さえながら、どうにか口にする。すると彼は、タブレットを差し出してきた。
「これは、君で間違いないよね」
問いかけでもなく、断言だった。実際、画面に映っている写真は自分のものだった。それも、豚小屋に入る前の。しかしどう見ても、あの店のパネルなどではない……自分ですら撮った覚えのないものだった。
「これはね、AIで作ったんだ。うちの者の、目撃証言を元にね。よく出来てるでしょ」
「なんで……それは、私を探してたってことですか。というか、あなたは誰なんですか?」
「探してた、だけじゃないよ。回収しなければならなかった」
彼はそう言ってタブレットをベッドに置いた。少しだけ触れた指でスクロールされた画面には、新たに……どこの言語か分からないような言葉やグラフが書き示されていた。
「『S』って聞いたこと、ないよね?」
「えす……?」
「今から話すことは、信じてもらわないと困るから」
そうとだけ前置きして、彼は話しだした。
かつて日本の政治に関わっていた、あくまで国内において高貴な一家があった。
その一家が「戯れ」を起こし、落とし胤を産んだ。なまじその一家の影響力が強かったがために、国ぐるみでその存在を秘匿した。
ここまでは、日本だけでなくどこの国でもよくある話だ。むしろ国内でですら初めてのことではないはずである。
「問題は、その落とし胤が野心家に育ったこと。そして、行動力が優れていたこと」
自身の生い立ちを知ったその存在は、自らをやましいもののように扱った一家と日本政府に恨みを募らせた。
そして、生来持ち合わせていた魅力で多くの味方を作り、日本転覆を計った。しかしあえなく失敗し、日本国家はその存在の作った組織を「飼う」ことに決めた。
「これが数百年くらい前の話」
「……そんなことが」
「ありえないように聞こえるけど、実際あってもおかしくないだろう? だってそれだけ昔の話なんだから」
その存在には、何十人、いや何百人もの妾がいた。そして当然、全員に子を産ませた。しかし彼自身がされたこととは違い、彼は出来るかぎり全員を自子として手厚く扱った。
こうしたことを、何代も続けた。その存在が亡くなったあとも。
「そしたらねずみ算式に増えていくものだから、子同士の血の繋がりは全然なくなっていったそうだけどね」
「何で今そんな話を……」
そこまで口にして、気付いた。彼もまた、頷く。
「今発覚している『子世代』は九十一人。君も、その一人だ」
呆然としながら、脳内で反芻する。つまり、この男も……自分とそのつながりを持っているということなのか。
タブレットではない、彼のスマートフォンが震えた。どうやら電話着信らしく、彼は一度だけタップすると耳に当てた。
「お疲れ様……いや、大丈夫。仕方ないよ……ああ、分かった。すぐに連れていく」
簡素な受け答えだけすると、彼はスマートフォンを切った。そして、見つめてくる。
「リーダーからお呼び出しだ。君を連れていくことになってる、服だけ着たらすぐに行こう。シャワーは気絶してる間に俺が浴びせておいたから」
それを聞き、初めて自分が服も着ずにベッドの中にいるのだと気付いた。
豚小屋に居る頃はどうとも思わなかったが、さすがに明るい部屋で裸……しかも一緒にいる相手がこんな綺麗な男となると羞恥心が湧いてくる。慌ててシーツで隠すが、彼は何も意に介していないようだった。
ひとまず用意されていた下着と服を身につける。気遣いなのか何なのか、一応彼はその間部屋から出てくれていた。
何とか服を着て立ち上がると、踵から一気に電撃が走ったかのような感覚に陥った。そういえば、自分の力でまともに立ったのなんてどれくらいぶりだろう。
一歩ずつゆっくりと進んで扉を開けると、彼もまた外出の用意をしていたようだった。服を着た姿を見て頷くと、「行こう」と玄関扉を開く。
「あの、あなたは何者なんですか」
ようやく、それを聞きだすまで頭脳が回復した。彼は「ああ」と思い出したように宙を見る。
「俺は、志賀光希。この県の繁華街の『S』管轄の風俗店全部のオーナーをやってる」
「全部……?」
駐車場に到着すると、車の助手席に乗せられた。光希は運転席に座ると、サングラスをかけて車を発進させた。
「自分の店は、って思ったでしょ。たまにあるんだよ、違法経営。まあ俺としてはサツが勝手に介入するだろうしってことで放置してたんだけど」
「じゃあうちの店は……」
「それくらいはさすがに察せるよね?」
詰めるわけでもなく、本当に確認といった形の声だった。それでも、息を飲まざるをえなかった。
車が進む。今は真昼間らしく、地下の駐車場を出ると一気に眩しい陽光が差し込んできて目を瞑ってしまった。
「今日は空いてるから、すぐに着くよ」
光希の言葉通り、車は滑らかと言ってもいいほど滞りなく進んでいく。平日なのだろうか、それすらも分からない。
豚小屋に連れてこられてから、もうどれだけの年月が経つのかすらも分からない。もはや、自分に関する記憶が抜け落ちているのではないかと錯覚してしまうほどだ。
「ほら、もう見えてきた」
そう言って指で示されたのは、一つのビルだった。高層でこそないが、それなりに立派な佇まいに見える。看板などは何も出ていない。
「一応税務関係の事務所、ってことでやってるんだ。って言っても、何もそんな仕事なんてしてないけど。『S』内部には税理士なんていないし、外注だけで」
「え、じゃあ何で」
「ビルの所有権のためにとりあえずでっちあげたに過ぎないよ。要はただの、俺たちのアジトってところ」
光希はそのまま、慣れた手つきでハンドルを切って駐車した。そして先に降りると、外から助手席のドアを開ける。
「行こう」
その時の逆光で隠れた彼の目を手探りのまま見つめて、頷いた。まだふらつきが混ざるのを気遣ってくれたのか、光希が手を差し出してくれる。ひとまず、その手を取った。
ビルの中は空調が効いていて、とても涼しい。少しだけかいた汗のせいか寒い程だった。
光希がスマートフォンをいじると、すぐに歩き出した。カツン、カツン、と冷たい音が通る。
「こっち。今から会うのはうちのリーダーで、他のメンバーはまあおいおいって感じで」
「……分かりました」
一体、どんな人間なのだろう。この緊張に意味があるのかどうか分からないが、未だ歩きに馴染みを取り戻そうと必死な足が少し震えるくらいだった。
光希に導かれるまま、エレベーターに乗る。最上階に着くと、いくつか締め切られた扉があった。その内の一つをノックすると、「はい」と若い男の声が聞こえた。
「入るよ」
光希が扉を開くと、ドン、と何かが落ちる音がした。それは、マットの上に置かれたバーベルらしかった。
そのバーベルを見下ろしていた長身で筋肉質の男は、光希を見て「早いね」と呟いた。
「まだ来ないと思って筋トレしてた」
「道が思いの外空いていたんだ。連れてきたよ」
目で光希に導かれ、恐る恐る一歩部屋に足を踏み入れる。その姿を見て、男は手を差し出した。
「初めまして、俺は笹山日向。内容はみっちゃんから聞いたんだよな」
「みっちゃん……?」
口にしてすぐ、光希が自分を指差した。慌てて頷き、日向の手を握り返す。
「よ、よろしくお願いします。あの、私は」
「ストップ」
光希が急に、燈の唇に人差し指を当てた。唐突な行動に驚いて硬直してしまうが、そんな姿を見て光希が口を開く。
「前の店の名前は、もう捨てよう。君はもうあの店の子じゃないんだから」
「でも……そしたら」
「ああうん、分かってるよ」
日向の方を見ると、彼は今度はタブレットを手に持っていた。その画面を指でスクロールさせながら、日向はぶつぶつつぶやく。
「あの店に拾われたのは七年前だけど、それ以前の記憶とかはもうごっちゃになってるんだろ。結構やばい薬で脳障害の恐れもあり、と」
「そんなの……なんで」
「実はあれから、他の女の子の聴取もしててね。そこからの推測だけど、ほぼ当たりみたいだね」
気がつけば光希もそのタブレットを見つめていた。自分ですら把握しきれていないことを見られているようで、どこかむず痒い。
そんな気持ちを知ってか知らずか、日向が「よし」と頷いた。
「新しく名前を考えよう、いいな」
「は、はい……でも名前って、どうしたら」
「もともと君の戸籍なんて無いから、好きなのにしてしまえばいいんじゃないかな」
光希の言葉に素直には頷けない。そんな、自分の名前を急に決められるほどの知識も願望もない。そして、頭も働かない。
そんな思考を悟ったかのように、日向は苦笑した。
「まあ突然決めろって言っても難しいだろ。でも不便だもんな、苗字はあとで余ってるのを見繕うとして……下の名前だけでも決めておきたいが」
「すみません……」
小さな声で謝るところを見て、日向は慌てて「謝らせたかったんじゃないから」と首を振った。
光希はしばらく考え込むように俯いていたが、ふと顔を上げた。
「ともしび、ってどう?」
「まさかの四文字? 女の子だぞ」
「前うちの店の名前決める時に候補にしてたんだよ、あの響きが好きで。結局雰囲気合わないからって採用しなかったやつ。漢字はあの、橙っぽいやつで」
日向は困ったように目線を向けてきた。きっと判断を委ねられているのだろう。
だから、「ともしび」と口にしてみる。すると、一気に胸の奥が暖かくなった。まるで、本当に火が燈ったかのように。
「……それで、お願いします」
それを聞き、光希は目元だけ嬉しそうに。日向は困ったように、笑った。しかしすぐに切り替えたのか、日向が「でもって」と口にする。
「ここから燈の処遇をどうするかって話なんだが」
日向にすすめられ、さまざまなトレーニンググッズの脇にある来客ソファに光希と並んで座らされた。光希いわく、本当の来客時にはこういったグッズは綺麗に仕舞われるとのことだった。
「『S』の方には俺が説明しておく。ただでさえ女の子だし、真っ当な報告を回せば……どうなるか分からないから、ちょっとどうにかして捻じ曲げるけど」
日向の言葉に少し引っかかるものを感じて、隣の光希を見た。すると彼はすぐにピンときたらしく、口を開いた。
「『S』も大所帯だから、いくつかグループとして分けてるんだ。俺たちが第四班、つまり『四』」
「燈も一応『四』のメンバーとして入れるけど……どうしようか、さすがに燈のことは『S』から降りてきた情報で手を回したから変に突っ込まれたらなあ」
やけに苦悩する顔をする日向を見て、光希はそっと燈の耳に口を寄せてきた。
「色々あって、日向は『S』本体の女の子の扱いを気に入ってないんだ。ちょっと昔一悶着あって」
「そ、そうなんですか」
つまり、『S』本体に燈の処遇を任せるとひどいことになるということなのだろう。それはさすがに察せた。それにしても、出会ったばかりの自分にここまで心を砕いてくれるのはこの男たちが優しいということの証明な気もした。
光希は燈の耳から口を離すと、「それなら」と今度は日向に向けて言葉を発した。
「もうすでに俺の管轄店に入れたってことにすればいい。それで売り上げをちょっと過大報告でもすれば文句は言わないでしょ」
「事後報告って形にするってことか? うーん……言いくるめられるならまあ、それが一番マシか……」
「管轄店?」
疑問をそのまま口にする燈に向かい、光希は頷いた。
「俺の管轄する店は全部クリーンだから。少なくとも、前の店みたいな扱いは絶対させない」
「でもいいのか? 燈。みっちゃんの店ってことは」
「風俗店ってこと、ですよね?」
日向は困ったように押し黙った。光希は対照的と言わんばかりに、表情を変えない。そのまま口を開いた。
「多分囲っただけじゃ『S』の抜き打ち審査が入る。『S』の子として生まれた以上は、『S』に尽くす生き方をしないと消されるんだよ。秘密結社の宿命ってところだね」
「いや、やっぱりちょっと手を考えよう。さすがに酷だろ、あんな店からやっと解放されたんだから」
二人の静かな言い合いを聞きながら、燈は頭の中で色々記憶をかき回していた。
あの店での七年間は、地獄だった。食事も体系維持のための薬剤を混ぜ込まれた上に最低限の栄養分しか与えられず、意識も毎日のように砕かれ、臓器が駄目になりそうになるたび無理矢理こじ開けられて……ぎりぎり残っている記憶ですらそんな有様だ。
でも、光希はあの場所を壊して連れ出してくれた。あの店の男たちと違い、触れる時に爪一枚立てない。たったそれだけのことなのに、それだけでこの男は……燈の中で神に成り代わっていた。あれだけ、自分を救ってくれと願った神が……この男だったと、錯覚するほどだった。
「私、やります」
燈の声に、二人の会話が止んだ。
「私が頑張れば、それは光希さんの手柄にもなりますよね?」
「手柄……といえば手柄か」
「なら、やります。あそこを壊してくれた恩返しとして」
まだ痛む喉で、言葉を紡ぐ。そんな燈に、日向は「分かった」と苦笑した。それに続き光希も安心したように微笑む。
「ありがとう。安心して、前の店のようなことは絶対無いから」
「はい」
そう頷くと、光希の手が頭に触れた。その温もりが、燈にとって初めて……泣きそうになるほどの、幸福となった。
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