「お先に失礼します」
パソコンをシャットダウンボタンをクリックし、無事落ちたのを確認して立ち上がる。そんな彼女に、望月は「お疲れ様です」と穏やかな微笑を向けてきた。
「相変わらず、あなたの金曜日の定時徹底ぶりはすごいですね」
「あ……そうですかね」
「別に責めてるとかじゃないですよ、きちんと終わらせてくれていますし。むしろ他の社員にも見習ってほしいくらいです」
女性社員どころか男性社員にも好印象を与える爽やかな微笑みに、少しうっとなる。彼は、あまりに眩しいのだ。
「その……毎週土曜、朝から予定があるから早めに帰りたいだけですよ。望月さんは明日出勤でしたっけ」
「ええ。なんでも下請けさんが行けなくなった取引があるので、緊急でね。ああそうだ、その都合で月曜日は代休もらってます。言うの忘れてました」
「分かりました」
彼の直接的な部下として仕事を補佐するのも、もう慣れてきた。とはいえ、彼自身が有能なせいで滅多に自分の手を貸すようなことはないし……むしろ彼の方が助けてくれることも多いのだが。
望月は本当に、理想的な上司だと思う。仕事もできて愛想がよく、困ったことがあれば望月自身のことを放って助けてくれる。
そんな彼を尊敬している。しているからこそ……彼に内緒にしていることがあることが、申し訳なくなってくる。
「そういえば望月さんまだ残るんですか? 急ぎの案件終わったって言ってませんでした?」
「ああ……実はこのあと、専務に接待に付き合えと言われていて。またキャバクラですよ、嫌になる」
心底げんなりとした言い草に、思わず笑ってしまいそうになる。その表情を見て、「情けないでしょう」と彼もまた苦笑した。
「でも嫌なものは嫌なんですよ。いくら会社の経費って言ってもなんで知らない女の人相手に媚び売り売られしながらお酒を飲まないといけないんだか」
「でも接待なんですよね?」
「仕事の話なんてろくにしてないんですよ、ただキャバクラに行く口実が欲しいだけなんですあの人たちは」
望月のぼやきは、心底行きたくなさそうな気持ちが露骨に表れていた。こういう、女受けがよさそうな男がキャバクラ……というか女と接する機会に対し辟易しているのがなんだか妙に面白い。逆に女慣れしすぎていてこうなっているのか。
「ああすみません、引き止めてしまって。とりあえず頑張ってきます」
「ふふ、分かりました。お疲れ様です、望月さん」
「ええ、お疲れ様です。お帰りお気をつけて」
手を振って見送ってくれる彼の微笑みを受けながら退勤する金曜日は、……どこか息苦しかった。
毎週土曜日に、もうこの制服を着ることにも慣れてきてしまった自分がいる。さすがに最初こそ気恥ずかしさがあったものの、最近は何とも思わない。よくないこと、だとは思うのだが。
尻肉がぎりぎり見えてしまうほどのミニ丈のスカート。そして、谷間をしっかり見せられるようなほど開いた胸元。どう考えても淫乱なメイドが魔改造したのでは、というようなデザインコンセプトのメイド服。これを着て接客など、いくら表向きはコンセプトカフェだとしてもやり過ぎだと断言できる。下着すら店側が提供するという徹底ぶりで、もはやそういうお店……といっても十分通じる気がする。
「舞那、そろそろミーティングの時間だから」
「うん」
元々同級生の友人でありオーナーである男に扉越しに呼ばれ、舞那はあわてて更衣室を出た。
舞那、という源氏名で呼ばれるのももう慣れてしまった。勤務を始めてもう一年、早いものだ。
「はい、それでは『はにはに♡めいど』本日のミーティングを始めます」
毎日開店前に行われるミーティングには、その日の出勤者とオーナーが集まる。開店まであと三十分とかなりギリギリではあるのだが、いつもオーナーは手早く連絡事項を回してくる。
「というわけで、今日は新しいドリンクサーバーの試験導入があります。そのためにちょっと業者出入りするけど、まあ気にしないで」
はーい、とキャスト全員がやる気のない声で返事する。これにて解散、と全員がそれぞれ元々行っていた作業に戻り始めた。最後まで残っていた舞那に、オーナーはため息を漏らす。
「やっと色々落ち着いたよ」
オーナーの言葉に、舞那は「最近大変だったもんね」と苦笑を返した。
コンセプトカフェ『はにはに♡めいど』はその際どい衣装と客への際どい接触をメインとした営業方法から行政に目をつけられがちだった。それをうまく掻い潜り掻い潜りを繰り返し、今どうにか安定して営業を続けられている。
「やっぱりいっそ風俗店にした方がいいんじゃないの」
舞那の本音に、「そしたらお前もう来てくれなくなるだろ」とオーナーはぼやく。
「それに風俗じゃなくてコンカフェって設定だから得してる部分も多いんだよ。そもそも何やってるかバレないようにすりゃいいだけで。あるだろ、やってることは明らかドスケベセックスだけど客同士の恋愛だからオッケーってことにしてる料亭の皮かぶった店とか。ああいうのと同じだよ」
「カス……」
「とりあえず俺は今日業者の相手で手いっぱいになると思うから、店内のあれこれはちょっと任せるわ」
「うん」
元々知り合いなのもあって、オーナーとの関係は気安い。だがオーナーは若いキャストを色恋管理している一面があるため、舞那はたびたび若いキャストからのやっかみや媚び売りの対象になっていた。それでも、店内では年長に入るため頼られているのも確かである。
「じゃあ私はその業者? には何も関わらなくていい?」
「うん、こっちはこっちでやるから」
「分かった」
軽い返事を終えると、すぐさまオーナーはキャストに呼ばれた。確か彼女もまた、オーナーに懸想している子だ。やれやれ、と思いながらも舞那もまた持ち場に戻る。
レジの最終確認などもすべて終わらせ、開店。この時点で数人の客が列を成していた。
「おはようございます、ご主人様」
この仕事を始めて身につけた、とろりとした甘い笑顔。舞那目当てではない客ですら、息を呑む。そしてすぐに手続きを行い、入店し始める。
もちろん、中には舞那目当ての客もいる。
「舞那ちゃん会いたかったよー」
「ふふ、ありがとうございます」
さりげなく腰を撫でられるが、この程度では振り払えない。それもすべて、オーナーの意向だ。仕方なく受け入れるが、それは客からすれば拒絶ではない、を通り越して……むしろ望んでいる、と誤解に進む。
「舞那ちゃんのためにさぁ、今月競艇頑張ったんだよ。だからめいっぱい使えるからね」
この言葉に、内心喉にひゅっと冷たい風が通る。しかし笑顔は崩せないし、「ありがとうございます、楽しみ」と媚びることしか許せない。
「ドリンクめっちゃ入れるからさぁ、アフターいい?」
客の手が、スカートの中に入り込む。Tバックに包まれていない尻肉をたぷ♡たぷ♡と揺らされるが、笑顔は崩せない。
「すみません私、いっつも言ってるけどやってないんですよー。お屋敷に住み込みなのでぇ」
いつもこういう風にうまいこと言ってかわす。本当はこんな見知らぬ男に触られるだけで反吐が出るが、ここで突っ返せば厄介なことにもなりかねない。結局これが一番丸くおさまってしまうのだ。
そうして、客を捌きつつ。ふと、オーナーに目線をやった。彼はスマートフォン相手に「では裏口に回っていただいて」などと声をかけていた。業者が到着したのだろう。
「舞那さん、あの……ちょっとスペシャルドリンクでわからないのあって」
「うん、すぐ行くね。厨房で待っててくれる?」
同じく際どいメイド服を着ている若いキャストが、帳簿を付けている最中の舞那を残し先に厨房へ向かう。めくれあがったスカートからちらりと見える尻とTバックを眺める客が目に入り、内心ため息が漏れる。友人からの頼みから始まったとはいえ、この仕事で稼いでいる自分に許されるため息ではないのだが。
帳簿をしまい、舞那自身もバックヤードに入った。厨房に入ろうとすると、賑やかな声が聞こえてくる。
「えーお兄さんお仕事以外でこういうお店来ないんですか?」
そういえば、もう業者が入っているのか。キャストが新規開拓として、仕事でやってきた業者にも営業をかけるのはよくある話ではある。
「はは、休日は疲れて寝こけてしまいますから」
業者と思しき声に、足が止まる。
まさか、この声は。いや、そんなわけはない。たまたま似た声なだけだ。
厨房に、足を踏み入れる。すると、先ほどのキャストとオーナー……そして、業者の男の背中が見えた。そのすらりとした長身で、さらにぞっとした。
「ああ、舞那さん。すみません忙しいのに」
キャストがこちらに気付いて声をかけてくる。恐らく生物としての反射で、業者もこちらを向いた。
「……え?」
業者の顔は、引き攣った。舞那の顔もまた引き攣るが、すぐにそのまま慌てて厨房を出る。キャストの「舞那さん!」という驚いた声も無視した。
バックヤードの隅で、舞那はガクガク震えていた。歩けないほどに。そのまま、腰を抜かすようにしてうずくまる。
「……なんで、なんで……望月さんが……」