サイコロ状の分子(cubane)が合成されて50年が過ぎた."Cubane: 50 Years Later,"と題した総説が 2015年(7月)の Chemical Review に掲載されている.合成,反応性,転位,エネルギー,医薬品,ポリマー,新規誘導体等に分けて発展の歴史が記述されている.
Cubane は炭素原子間の結合角が 90°に近く,理想的なsp3 炭素の結合角である 109.5°から大きくずれているため歪(ひずみ)エネルギーが大きく,非常に不安定な化合物と予想され,合成は不可能と考えられていた.ところが,1964年にシカゴ大学の Philip E. Eaton 教授によって,シクロペンテノンを出発原料として15工程を経て合成(スキーム)された.実際に合成されてみると,予想よりはるかに安定な結晶であることが分かった.
C-C結合長 1.562Å(大きな結合伸長は認められない)
融点 130−131℃
分解点 220℃ 以上
炭素8個の炭化水素と言えば,直鎖状ならオクタン(融点 −60 °C,沸点 125 °C)である.ガソリン(炭素数4 〜 10の炭化水素の混合物)の中に含まれているが,常温において無色透明の液体である.
Cubane の合成論文が出版された年に,単結晶X線解析結果も Everly B. Fleischerによって報告された.歪んだ骨格のために大きなエネルギー(144-166 kcal/mol) を内包しており,炭化水素の中でも密度(1.29g/cm3)が最大である.そのため,高エネルギーの燃料になるはずであるが,画期的な簡易合成法が開発されない限り無理と思われる.
特殊な用途(爆薬)として,すべての水素をニトロ基に置き換えた化合物 (ONC) が合成されている.1モル燃焼すると8モルの炭酸ガスと4モルの窒素ガスが発生する.
ONC1モル → 炭酸ガス8モル + 窒素4モル
爆発に伴う体積膨張率は1200と大きく,分子中に水素が存在しないため,燃焼時に水が生成しない.そのため,煙(この場合は蒸気)が生じないため,ロケット等に推進剤として使用した場合,追跡されにくいといわれている.無煙火薬とも呼ばれている.
Cubaneは毒性がないため,安定な親油性プラットフォームとしてドラッグデザインの分野でも注目され,ベンゼンの生物学的等価体としての利用が提案されている.医薬品にはベンゼン環に複数の置換基を有するものが多いが,その際,置換基の位置関係を設定するのにベンゼン環は都合のよい構造であるが,置換位置が平面内に限られるのに対し,キュバンを使えばベンゼンより多様な置換基の立体的配置が可能である.ヒトの免疫不全ウイルス(HIV)に対して活性を示す化合物(dipivaloylcubane, A)や抗腫瘍活性を有する化合物(diphenylcubane, B)が認められている.Chemical Reviewに紹介されている図をそのまま引用させてもらった.原報はBashir-Hashemi, A. NASA Conf. Pub. 1994, 127である.
その他,シクロデキストリン抱接化合物,含硫黄誘導体,ポリマーの繊維への応用等が紹介されている.
私にとっては,Cubane は単結晶X線解析の最終段階における分子描画に用いるプログラム ORTEP のテストデータとして用いた想い出深い化合物である.稿を改めて紹介したい.
資料
Cubane,Philip E. Eaton, Thomas W. Cole,J. Am. Chem. Soc., 1964, 86 (15), pp 3157–3158
X-Ray Structure Determination of Cubane. Everly B. Fleischer. J. Am. Chem. Soc. , 1964, 86 (18), pp 3889–3890. DOI: 10.1021/ja01072a069.
Cubane: 50 Years Later, Kyle F. Biegasiewicz, Justin R. Griffiths, G. Paul Savage, John Tsanaktsidis, Ronny Priefer, Chem. Rev., 2015, 115 (14), pp 6719–6745. 詳報(PDF)をフリーで読むことができる.
SOLID CUBANE: A BRIEF REVIEW. T. YILDIRIM, P. M. G., D. A. NEUMANN, P. E. EATONC and 'T. EMRICK', Carbon Vol. 36, No. 5-6, pp. 809-815,1998. 次表は本論文の表1である.
CUBANES: SUPER EXPLOSIVES AND POTENTIAL PHARMACEUTICAL INTERMEDIATES Dr. A. Bashir-Hashemi https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19940025949.pdf
分子計算による cubane の CーC結合長予測値 B3LYP/6-31G* 1.571Å,RB3LYP/6-311+G** 1.571Å, PM6 1.549Å, AM1 1.576Å, MP2/6-31G* 1.565Å, HF/6-31G* 1.559Å.
(熊本地震前に執筆した原稿に加筆したものです)