西欧建築史年表
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アイテム解説
ニケーア公会議 325
アリウス派(イエスを人とする) を排斥し、アタナシウス派(三位一体説)が勝利した
コンスタンティノープル公会議 381
父なる神と子なるキリストが〈ホモウシオス(同一実体)〉であるとの定式化した
ローマ東西分離 395
西ローマの政都はラヴェンナ、教都はローマと分離した
エフェソス公会 431
ネストリウス派: マリアを「人間としてのイエスの母」であり「神の母」と呼ぶことを認知しない を排除。ネストリウス派はペルシャに移り更に中国で「景教」となり更にアッシリア東方教会につながった
カルケドン公会議 451
非カルケドン派(単性論:キリストの人性は仮性で、神性のみを認める) を排斥し、カルケドン派(両性論:キリストは人性と神性を併せ持つ)が勝利
西ローマ滅亡 476
教都であるローマは法王配下に生き残る
神聖ローマ帝国発足 962
ローマ帝国と言っているが旧ローマ帝国とは直接的関係無し
三圃制農業による人口の拡大 大都市の形成 11世紀
農地を三分割して季節ごとに順次使う三圃制農業が開発され収穫が増大。それにより農業従事者も増大(人口の増加)した。それは大都市の形成になり、建築的には大規模なゴシック教会堂建築の背景となった。
大シスマ 1054
ローマ教皇を首長とするカトリック教会(西方教会、ローマ典礼)と、コンスタンディヌーポリス総主教の東方正教会(ギリシャ典礼)に分裂 それ以前に東西でのキリスト教解釈の違いも多くあり分裂の要因になる。分裂は現代でもカトリックと正教会と言う形で続いている。
カタリ派の活発化と討伐 12世紀
キリスト教と土着教が結びついたものだが異端とされアルビジョワ十字軍により討伐された
第四次十字軍コンスタンティノープル攻略 1202-4
キリスト教どうしの商業争いに起因 1204-1261カトリックが東ローマを統治
「異端審問官」を制度化 1233
魔女狩り 16世紀ピーク(カトリック、プロテスタント共に行った)
シスマ(宗教分裂) 1378
1378-1417年の間、ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立ち、カトリック教会が分裂
宗教改革の萌芽 14 世紀末
ジョン・ウィクリフ:イギリスの宗教学者 聖書とそれに基礎を置く説教を重要視 死後異端者扱いされる
ヤン・スフ:贖有状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とし異端者扱いで処刑 宗教改革の先駆者
コンツタンス公会議 1414
宗教分裂を終結 ウィクリフとフスを異端として有罪とする
免罪符販売 1517
サン・ピエトロ再建の為に販売後に宗教改革の要因の一つとなる
ルター宗教改革 1517
福音主義(聖書第一主義)信仰義認説(自らが神に祈ればよい)・・いずれもカトリックの教会必要主義に反する
カルヴァン宗教改革 16世紀初旬
福音主義 予定説(人間の運命は生まれた時に決定されているのでその後の行いに左右されない) 自分自身の仕事を天職として、正当な方法で懸命に勤しみ蓄財に励むのが努め。→商工業社会に適合→イギリスではピューリタン派へ→米国建国へ 教会運営は経験者(長老)による運営(非階位的)
英国聖公会分離 1534
ヘンリー8世の離婚問題が原因となって(離婚の可否)、カトリック教会から分裂 イングランド(イギリス)の統治者が教会の首長
イエズス会創立 1534
イグナチオにより創設されたカトリック教会の男子修道会 海外布教に貢献 1580年最初のイルジェズ教会堂建築
トリエント(トレント)公会議 1545
宗教改革に対する対抗改革 ~1563
バブテスト教会創立 17世紀前半
プロテスタントの一派 イギリスで発生しアメリカで拡大 厳密な聖書主義
モルモン教創設 1830
米国で発生 三位一体を否定 各々は独立したペルソナ 救われた人間はあの世で神になる等の多神教概念を持つ
無原罪懐胎の教義決定 1854
無原罪の御宿りの教義を認めた(イエスは人間マリアの子であるが原罪を持たない)
エホバの証人創設 1870
米国で発生 三位一体を否定 神はエホバのみでキリストは神の子であるが神ではない 現世は悪魔サタンの支配下にある
第二バチカン公会議 1962-65
マリアを「教会の母(Mater Ecclesiae)」とすることと、ミサを各国語で開催可能にすることを定めた