ローマ1日目は午前にバチカン美術館、サンピエトロ大聖堂を見て、午後はローマの中心部をナヴォーナ広場、パンテオン、トッレ・アンジェリーナ広場、真実の口の聖マリア大聖堂、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂へ。
トッレ・アルジェンティーナ広場。共和政ローマ時代の4つの神殿の遺跡があり、ポンペイウス劇場の一部もある。古代のカンプス・マルティウスに位置している。名称はアルジェンティーナ塔に由来し、アルジェンティーナとは、ストラスブールの古い名称「アルゲントラトゥム (Argentoratum)」。1503年、教皇の祭式係長だったストラスブール出身の Johannes Burckardt がこの広場に隣接する場所に Casa del Burcardo という邸宅を建て、そこにこの塔があった。現在の広場には、対立教皇アナクレトゥス2世が建てたとされる Torre del Papitto(「小さい教皇の塔」の意。背が低い人だったため)がある。
紀元80年に火災があり、ローマ帝国時代に再建されている。この領域の北には Hecatostylum(百本柱のポーチ)とアグリッパ浴場があり、南にはキルクス・フラミニウスとそれに関連する建物があり、東には大きな列柱で囲まれた Porticus Minucia Frumentaria があり、西にはポンペイウス劇場があった。
4つの神殿は北から順に A、B、C、D とアルファベットが振られている。写真の右が神殿A 、中央が神殿B、奥にもう2つ神殿がある
「神殿A」は紀元前3世紀の建築で、ガイウス・ルタティウス・カトゥルスが紀元前241年にカルタゴに勝利したことを記念して建てた「ユートゥルナの神殿」と言われている。後に教会に転用されており、そのころの後陣が残っている。
イタリア統一運動後の1909年、ローマの部分的再建が決定され、アルジェンティーナ塔付近は取り壊すことになった。しかしその作業中の1927年、大理石像の大きな頭部と腕部が見つかった。考古学的調査により4つの神殿とポンペイウス劇場の一部が見つかり、そこが共和政ローマ時代の「聖域」だったことが判明した。
「神殿C」は最も古く、紀元前4世紀から紀元前3世紀のものとされ、豊穣の女神フェーローニアの神殿ではないかと言われている。紀元80年の火災後に再建されている。
「神殿D」は最も大きく、紀元前2世紀の建築だが共和政後期に修復されている。ラレース(航海の守護神 Lares Permarini)の神殿だが、そのほとんどは道路の下にあり、一部しか発掘されていない。
「神殿B」は円形の神殿で6本の柱が残っている。紀元前101年、Quintus Lutatius Catulus がキンブリ人に勝利したことを記念して建てたもの。Aedes Fortunae Huiusce Diei(今日の幸運)と呼ばれ、フォルトゥーナ(運命の女神)を祭っていた。発掘時に見つかった巨大な女神像はフォルトゥーナ像であり、カピトリーノ美術館に収蔵されている。この女神像は頭部と腕と脚だけが大理石で衣服で覆われた他の部分はブロンズ製である。
中央奥の建物はTeatro Argentina(アルジェンティーナ劇場)。1732年に出来たアルジェンティーナ歌劇場。多くのオペラがこの劇場で初演されている。例えばジョアキーノ・ロッシーニの『セビリアの理髪師』(1816年)、ジュゼッペ・ヴェルディの『二人のフォスカリ』(1844年)と『レニャーノの戦い』(1849年)。
広場には野良猫の保護施設がある。市内に4か所ある猫コロニーのうちのひとつ。
14:40に行くも昼休み
アラコエリの階段。ペストの終わりに対する感謝として、1348年に民意により建てられた。奥はBasilica di Santa Maria in Ara coeli(アラコエリのサンタ・マリア聖堂)。左がAltare della Patria(ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂)
セナトリオ宮。1144年以来のローマの歴史的建造物、市庁舎であり、世界で最も古い市庁舎。12世紀から13世紀にかけてタブラリウムの遺跡とヴェイオヴェ神殿に建てられ、16世紀にミケランジェロ・ブオナローティと後にジャコモ・デッラ・ポルタの監督の下で改装された。
左の建物はConservatori(パラッツォデイ音楽院)。宮殿の名前は、4世紀にわたり司法府、保守党の所在地であったことに起因。ニコラス5世によって建てられ、15世紀まで、宮殿のファサードは、1階に12のアーチがあった。新しいファサードはミケランジェロ・ブオナローティ(後に正面の広場を再設計)によって設計されたが完成前に死去し、グイド・ガイデッティが継承し、1568年にジャコモ・デッラ・ポルタによって完成した。
左右にギリシャ神話に登場するカストルとポルクスの双子の神の像。右には写っていないがカピトリーノ美術館がある。
マルケッルス劇場。共和政ローマ末期からローマ帝国初期にかけて建設された古代の屋根のない劇場で、マルケルス劇場とも表記する。演劇や歌などの上演をローマ市民や旅行者が観覧できた。皇帝アウグストゥスの甥マルクス・マルケッルスの名を冠しているが、当人は完成する5年前に亡くなっている。この劇場の建設予定地はガイウス・ユリウス・カエサルが整地させたが、建設を始める前に暗殺された。アウグストゥスが紀元前13年に完成させ、紀元前12年に正式に利用開始となった。
直径111mで、収容観客数は当初1万1000名。古代ローマの都市に広く普及した都市建築であるローマ劇場の典型となった。主に凝灰岩でできていて、全体を白いトラバーチン(温泉などから生じた石灰質化学沈殿岩)で覆い、コンクリートの表面をオプス・レティクラートゥムと呼ばれる網目積みで石で覆っている。最下部がドーリア式(シンプル)、その上がイオニア式(なると模様)で、一番上にコリント式(草模様)の円柱があったと思われるが、中世に修理された際に最上部の客席や円柱が除去されたため、詳細不明。
ローマ劇場は周囲の風景を背景として取り入れることが多く、この劇場の場合はティベリーナ島が南西に見える。このような恒久的な背景を scaena と呼び、他のローマ劇場と同様に観客席(cavea)の上にもある。
マルケッルス劇場はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の入口から南に220m
カシーナ・デイ・ピエールオーニ。中央の建物。中世の家で何世紀にもわたって国会議事堂の斜面に形成され、1926年から1932年の開発に免れた唯一のもの。
カルチェーレのサンニコラ(刑務所の聖ニコラス)聖堂。最初の教会は6世紀に刑務所と一緒に建設された。]しかし、教会の名前のカルチェレ(刑務所内)の部分は、誤った識別のため14世紀に「カルチェレ・トゥッリアーノで」に変更された。刑務所はビザンチン時代のものだった。教会の両側(写真の白い部分)に組み込まれている柱は紀元前260年のミュラエの戦いでガイウス・ドゥイリウスが海軍に勝利した後に奉献したヤヌス神殿の柱。
教会は1599年に再建され、ジャコモ・デッラ・ポルタによって新しいファサードが付けられた。
有権者登録事務所
サントモボノ地区。ローマの遺跡、1937年に発見され、共和制のローマの祭壇とフォルトゥーナ神殿とマテルマトゥータ神殿の遺跡がある。有権者登録事務所の東向い
ラテン語のSenatus Populusque Romanusの略。その意味は「ローマの元老院と人民(市民)」、すなわち古代ローマの国家全体(共和政ローマ・ローマ帝国)の主権者を指す。また、現代の「紳士淑女諸君」のように、演説などの冒頭の挨拶にも使われた。「SPQR」の文字は、古代の国家ローマとその市民の栄光と誇りを現すものであり、当時ローマ帝国の領域であった現在のヨーロッパや北アフリカにいたるあらゆる地域で公共物にすべて刻まれ、ローマ軍団の軍旗などにも使われた。ローマ時代の遺跡やそれを基にした建造物、ローマ市の盾形の紋章に見て取ることができる。
右の建物は公共事業部、左は有権者登録事務所。
コスメディンの聖マリア大聖堂。鐘楼は中世のものではローマで最も高い。教会は6世紀に設立、ギリシャ人コミュニティの中心に置かれた。ギリシャ街は「スコラ・グレカ」と呼ばれていた。教会は、現代のコンスタンティノープルでテオトコス(神の母)として崇拝されていた聖母マリアに捧げられた。「コスメディン」という名前は、ギリシャ語のκοσμίδιον(kosmidion)のラテン語化に由来、「装飾、装飾」を意味するギリシャ語のκόσμοςに由来。
教会は、ビザンチン教皇庁時代の8世紀に、フォーラムボアリウムのテンプルム・ヘルキュリス・ポンペイアニの遺跡と、古代ローマの食糧流通センターの1つであるスタティオ・アンノナエ(もう1つはバルブス劇場にある)の上に建てられた。
教会の8世紀の碑文には、ローマの最後のビザンチン公ユースタティウス(752-756年頃)が貧しい人々に寄付を行ったことが記録されている。
同じ碑文には、ゲオルギオスと彼の兄弟ダビデという人物による寄付にも言及されている。
教会は多くのビザンチン様式の建物の近くに位置していたので、7世紀にこの教会はデ・スコラ・グレカと呼ばれ、近くの通りはデッラ・グレカと呼ばれている。迫害から逃れたギリシャの修道士は、教皇エイドリアン1世がその再建を促進した782年頃に教会を飾った。教会は身廊と2つの通路とポルティコで建てられた。聖ニコラスに捧げられた聖具と礼拝堂は、教皇の住居を建てた教皇ニコラス1世の命令によって9世紀に追加されたが、ノルマン人部隊によって1084年に破壊された。
コスメディンのサンタマリアは、教皇ゲラシウス2世とセレスティヌス3世、そして教皇ベネディクト13世の名目上の教会でした。教会の元名目上の枢機卿執事の中には、カンタベリーの最後のローマカトリック大司教レジナルドポールがいた。
1118年から1124年にかけ、教皇カリクストゥス2世の命で大幅な修復が行われた。ベネディクト会によって買収され、衰退の期間を経て、1718年に教会はバロック様式、特にジュゼッペ・サルディによって新しいファサードによって改装された。しかし、バロック様式の追加は、サルディの作品を後援した教皇クレメンス11世の紋章とともに、1894年から1899年の修復で取り除かれた。
左の建物。ローマ市庁舎。
刻まれている顔は海神オーケアノスのものとされる。手を口に入れると、偽りの心がある者は、手を抜く時にその手首を切り落とされる、手を噛み切られる、あるいは手が抜けなくなるという伝説がある。
ヘラクレス・ビクター神殿。紀元前2世紀末にさかのぼり.C、ティベリア時代に大幅な改修が行われた。内で崇拝された像の基部であったブロックは、寺院が誰に捧げられたかを決定することが可能であった碑文(ヘラクレス・オリバリウス)と、像の彫刻家の名前、紀元前2世紀に住んでいたギリシャのスコパス・マイナー.C.とサーカス・フラミニウスの地域の他の作品の著者を示している。建築家はサラミスのギリシャのヘルモドロスであり、古代の情報源は、紀元前120年頃にさかのぼるその建設について語っている。裕福なティブルティヌスの商人、マルクス・オクタウィウス・エレニウス(Marcus Octavius Hernnnius)によって委託され、商人が属していた会社である製油所のヘラクレスの保護者に捧げた。ヘラクレスはまた、貿易の守護者でもあった。
紀元前2世紀のローマ商人の経済力を確認し.C、今では貴重なペンテリック大理石で、エーゲ海で交易したローマ人とイタリック人を犠牲にして建設された、収益性の高い奴隷市場が行われたデロスの現代の「イタリア人のアゴラ」に関連している。皇帝ティベリウスの下で(おそらく15年の洪水の後)修復され、他の多くのローマのモニュメントと同様に、中世の教会に変身した。1132年にサント・ステファノ・デッレ・カロッツェに捧げられ、17世紀にサンタ・マリア・デル・ソーレ教会に変身した。教会からそれほど遠くないテヴェレ川の端に、聖母の像が見つかり、そこから太陽の光が去ったのがその理由。
ポルトゥーノ神殿。共和制(BC509-27)時代のもの。長い間「ヴィリーレ・フォーチュン神殿」と言われた。建物はイオニア式、テトラスタイル(ファサードに4本の柱がある)、すなわち、前房の前方に柱があり、壁の外側に寄りかかっている連続した半柱がある。現在の建物は、AC80-70の基礎で見つかった材料から建築年次が付けられていますが、以前の痕跡もある。
ポルトゥーノ神殿は9世紀に最初にサンタマリアセクンディセリイの名前で、その後、売春婦のサンタマリアエギジアカ守護聖人として、キリスト教会に変更された。教会は1916年に寺院の古代の外観を回復するために廃止された。向い真実の口の北向かいにある
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂。建設は1885-1935年。祖国の祭壇があり、女神ローマの祭壇や無名戦士の祭壇もある。
16列の大きなポルティコ(列柱)は建設時の、イタリアの16の地域を表す。後にヴァッレ・ダオスタ、フリウリ・ヴェネツィア・ジュリア、モリーゼ、トレンティーノ・アルト・アディジェの地域が追加された。
ヴェネツィア宮殿。15 世紀に建造された宮殿内の博物館。中世とルネサンス時代の絵画、彫刻、武器のコレクションを所蔵。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の北西の向かいにある。
ろう人形館。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の北東にある。
ヴェデキント宮殿。新聞イルテンポの本部。1838年に教皇グレゴリー16世によりピエトロ・カンポレーゼ・ザ・ヤンガーの設計で再建された。エトルリアの都市ヴェイオの考古学的発掘からの11の古代イオニア柱を含む16本の柱で作られたポルティコが装備された。のちに教皇の郵便局の事務所のなり、さらに1871年以降の数年間、イタリア王国の教育省となった。1879年銀行家カール・ヴェーデキントが購入。1918年に新聞Il Tempoが買収。1938年から1943年まで、ファシスト政権下で反ユダヤ主義のトーンを持つ雑誌La difesa della razzaの編集スタッフが利用した。1943年9月からローマの解放まで、共和党ファシスト党の公式本部の後、1945年からは現在の新聞Il Tempoの本部になった。