シリーズ 知の港 刊行のことば
かつて旅人たちは海彼の果てをめざした。そこにある新しい港で、偶然性と出会いがもたらす充実した生の境地を得ようとして。かつて旅人たちは港湾の風光を求めた。多様な船籍の船が行き交い、文物がうごき、ひとびとの思考様式が交錯するなかに、自らとは異質の軌道を引き受けんとして。知の可能性が出尽くしたかと思われる時代にあって、いまわたしたちは、港をつくり、そこに集う。わたしたちに必要なものは、瞬間と永遠のなかで考え抜く決意だけである。
2012年10月 ライトハウス開港社
シリーズ 知の港 刊行のことば
かつて旅人たちは海彼の果てをめざした。そこにある新しい港で、偶然性と出会いがもたらす充実した生の境地を得ようとして。かつて旅人たちは港湾の風光を求めた。多様な船籍の船が行き交い、文物がうごき、ひとびとの思考様式が交錯するなかに、自らとは異質の軌道を引き受けんとして。知の可能性が出尽くしたかと思われる時代にあって、いまわたしたちは、港をつくり、そこに集う。わたしたちに必要なものは、瞬間と永遠のなかで考え抜く決意だけである。
2012年10月 ライトハウス開港社
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人びとに希望を与え、生きる意味を与え、ときに恐怖と諦観をも与えるのが時代であり時代思潮であろう。だとすれば過去もまた未来である。日本浪曼派の運動が同時代の擾乱を超えて歴史の懐に入っていくとき、彼等を探索するほんとうの旅がはじまるのだと考えたい。(著者)
◎目次より◎
帰農者の精神――保田與重郎
〈反順應主義者〉の行路――肥下恒夫
「治者」の発見――伊東静雄
孤影を拓く――あとがきにかえて
著者紹介*澤村修治(さわむら・しゅうじ)
淑徳大学教授。1960年東京生まれ、千葉大学人文学部卒。文学博士(千葉大学、論文博士)。中央公論社・中央公論新社に勤務し人文書を中心に編集者を務めたのち現職。『文藝春秋』などに執筆したのち、2010年に2冊の単著(小社刊『徳田秋聲、仮装と成熟』、河出書房新社刊『宮澤賢治と幻の恋人』)を上梓して、著者として本格的に活動を開始。本名・横手拓治。
◎反抗と受容の内実を探る◎
雑誌『コギト』(昭和7~19年)が母胎となり、雑誌『日本浪曼派』(昭和10~13年)の活動をジャンプボードに昭和10年代半ば、一つの頂点を成した特異な文学思想運動「日本浪曼派」。彼等は非常時・戦時といわれる時代の日本で、社会主義運動が潰えたのちの一季、思想潮流の先端に立った。独自のナショナリズム思想を発信して、青年たちに大きな影響を与えたのである。この運動に結集した知識人は昭和20年8月の敗戦と激変する社会をどう迎えたのか。本書は戦後初期の時代に焦点を合わせ、保田與重郎、肥下恒夫、伊東静雄の反抗と受容の様相を辿りながら、彼等の生と精神の在処を探ってゆく。収録作中、肥下論は「コギトメモ」など新発掘テクストに基づき、資料的価値はきわめて高い。随想「河内の盆踊」も初活字化。
★はじめに、より抜粋★
本書の主たる関心は、日本浪曼派の中心人物が「敗戦」という決定的事態をどう受け止めたのか、という問いにある。戦争時代に一定の影響力を示した思想の担い手たちが、信じていたものの滅びと、占領という価値転換の現実に向き合ったとき、どのように思索し、なにを感受し、どう行動したのか。変動期において、人間と社会のあるべき姿をどこに見いだそうとしたのか。本書はその点の探索を目的としている。
◆『敗戦日本と浪曼派の態度』初版・訂正表◆
本書刊行後、田中克己の研究をなされておられる、中嶋康博氏からご指摘を受け、下記2箇所を訂正いたします。中嶋氏には深謝いたします。(2017年2月末日、澤村修治)
*94頁
【原文】引用中〈依子〉とあるのは長尾依子で、彼女は出版事業をはじめようとしていた。当時、中島遺稿集は長尾の手で出版することが企図されていた。
【訂正】引用中〈依子〉とあるのは田中克己長女の依子である(中嶋康博編『田中克己日記』より)。
*152頁
【原文】長野(良か)
【訂正】長野敏一
★日本浪曼派の淵源をさぐったドキュメント
昭和戦前期のナショナリズム運動として若者の心を広くとらえ、戦後に橋川文三『日本浪曼派批判序説』などで激しく批判された日本浪曼派。保田與重郎を中心としたこのグループが日本思想史にもたらしたものについては、その後もさまざまな論争・研究が行なわれてきた。そして、日本浪曼派は昭和の重要な文学運動でもあった。このグループからは保田與重郎、亀井勝一郎、伊東静雄、太宰治、檀一雄といった文学者が、大小の関わりをもって登場するとともに、既成の文学者からも佐藤春夫や萩原朔太郎らが参集している。周辺を含めれば三島由紀夫も数えられる。人材的にいえば、日本浪曼派は日本文学のきわめて豊富な水脈だといってよい。
保田與重郎もいうように、日本浪曼派は文学雑誌『コギト』の主張を展開する形ではじまった。『コギト』こそ日本浪曼派の淵源にあったものである。若き学生たちの雑誌として初発し、昭和戦前期日本の非常時・戦時のなか12年半、実に146号にわたって継続刊行され、日本浪曼派の運動の母胎であり続けた『コギト』。しかし、一貫してその編集発行人の立場にあった肥下恒夫のすがたは歴史に隠された。肥下恒夫は帰農したうえ、沈黙を守ったまま戦後16年7か月を生き、やがて自ら生命を絶つという道を辿ったからである。
内実が充分に解明されたとはいえず、いまだ日本思想史、文学史上の謎ともいえる日本浪曼派。そこへのアプローチを試みようとするとき、肥下恒夫の悲傷の生を追い、それが意味するものをみつめた本書『悲傷の追想』が、21世紀の読者に問いかけるものはたいへん大きい。(ライトハウス開港社)
昭和初期の日本文学史に重要な役割を果たしたにもかかわらず、沈黙して帰農、最期には自死した肥下恒夫。戦前から戦後へ転じる価値激変のなか、誠実に生きんとしたために悲劇へと傾斜していったその生の内実を、残された本人の日誌ほか一次資料をもとに追った労作。日本ナショナリズムや日本浪曼派研究の基礎文献となる書であるとともに、一知識人の特異な生涯を描いた良質のノンフィクションである。肥下作品集、年譜、保田與重郎小論を付す。
◎目 次より◎
胸中恒ニ花アリ─肥下恒夫の戦後
協同の営為をめぐって
肥下恒夫作品
肥下恒夫年譜
付論 情念の論理
★はじめに、より抜粋★
本書に収録された二篇とも、肥下家に残されていた一次資料をもとにしている。とりわけ「胸中恒ニ花アリ」にて紹介された、戦後における肥下の直筆日誌は、本書にてはじめて全容が明らかにされるもので、かれの人と思想を詳細に浮かび上がらせる基礎的資料となった。「協同の営為をめぐって」のほうは、肥下家に残されていたもう一つの一次資料である、肥下恒夫宛保田與重郎書簡をもとにして成り立っている。
ポジフィルムとネガフィルムのような存在だった保田と肥下の友情が途絶え、しだいに二つの行路へと別れていく戦後のドキュメントが「胸中恒ニ花アリ」なら、二人の友情の絆が固く結ばれた『コギト』草創期のドラマおよび論考が「協同の営為をめぐって」である。友情(「協同の営為をめぐって」)と別れ(「胸中恒ニ花アリ」)で一つのセットとなるように書かれてあり、その意味では、収録二篇でひとつの作品だといえる。そして、二篇を通じて、肥下恒夫の人と肖像を描き、保田與重郎や『コギト』との関わりに探索の錨をおろしていくのが、本書が目指した中心的なことがらである。
◆『悲傷の追想』初版・訂正表◆
本書刊行後の2013年(平成25)年9月、肥下家(大阪府松原市)にて、新たに三つの資料が発見された。昭和21年と22年の日誌、および創作「河内の盆踊」(昭和21年)である。戦後まもない時期の肥下については、別に細密な自記家計簿が存在しているため生活の様相はすでに判っており、それをもとに「胸中恒ニ花アリ」(『悲傷の追想』収録)は同時期のくだりを記したが、このたびの発見された日誌を精査した結果、『悲傷の追想』の記述で訂正を加えるべき箇所が見つかり、他の誤記修正とともにここに開示する(下線部分が訂正箇所、〔 〕はルビ)。なお、発見された資料については、内容を伝える文章を別途発表する予定である。 (2015年8月14日、澤村修治)
★追記:「内容を伝える文章」とは、『敗戦日本と浪曼派の態度』収録「〈反順應主義者〉の行路――肥下恒夫」を指す。
*50頁
【原文】終戦時、第一五〇師団は朝鮮半島南部に位置しており、うち第四二九聯隊は半島南西部の茂長〔ムジャン〕(全羅北道・高敞郡)地区に配備されていた。よって肥下恒夫も茂長にいたと思われる。
【訂正】終戦時、第一五〇師団は朝鮮半島南部に位置しており、うち第四二九聯隊は半島南西部の茂長〔ムジャン〕(全羅北道・高敞郡)地区に配備されていた。肥下恒夫も茂長に一兵卒として屯営している。
*52頁
【原文】田中克己「東京」(『果樹園』昭和三七年九月号)によれば、肥下恒夫の復員は昭和二〇年一二月だった。比較的早いほうだが、朝鮮半島南部にいたという地理的要因が大きいのだろう。
終戦を挟んだ九か月間の軍隊生活の具体について、肥下の言葉は伝わっていない。
【訂正】肥下恒夫が復員し帰郷した時期は、「日誌」の記載に基づけば、昭和二〇年一〇月一六日であった。比較的早いほうだが、朝鮮半島南部にいたという地理的要因が大きいのだろう。
終戦を挟んだ七か月間の軍隊生活の具体について、肥下の言葉は伝わっていない。
*同
【原文】復員してしばらくは瓜破の実家(全田家)に身を寄せた。このとき堺の肥下家は、先に養子となった叔父駒蔵が取り仕切っていた。なお、瓜破に身を寄せていた時代、二一年四月二四から三〇日までの期間、肥下恒夫は、かつてコギト発行所にもし、夫婦で暮らしていた東京・中野区大和町(旧住居表示は野方町上池袋)の家に行っている。引き払いと思われる作業のためであった。
【訂正】復員してのちはまず河内松原・上田の借間に身を寄せ、瓜破の実家(全田家)に多くを頼った。このとき堺の肥下家は、先に養子となった叔父駒蔵が取り仕切っていた。なお、二一年四月二三から三〇日までの期間、肥下恒夫は、かつてコギト発行所にもし、夫婦で暮らしていた東京・中野区大和町(旧住居表示は野方町上池袋)の家に行っている。引き払い作業のためであった。
*53頁
【原文】肥下恒夫は「不在地主」とならぬよう、上田に居を移す。
【訂正】肥下恒夫は「不在地主」とならぬよう、上田に居を定める。
*55頁
【原文】肥下家には、恒夫が書いた農地売渡式の祝辞原稿がある。〈痛ましき運命の荷担手〉である地主を代表して挨拶したときのもののようだ。全文を引用する。
【訂正】肥下家には、恒夫が書いた農地売渡式の祝辞原稿がある。〈痛ましき運命の荷担手〉の一人でありながら、町会議長の代筆をしたのだ。全文を引用する。
*218頁
【原文】日誌に記した俳句を除けば、
【訂正】日誌に記した俳句・短歌を除けば、
*年譜・236頁
【原文】
昭和二〇(一九四五)年〈三五~三六歳〉 三月八日、応召。出征先は朝鮮半島。一二月、復員。大阪・瓜破の生家(全田家)に暮らす。
【訂正】
昭和二〇(一九四五)年〈三五~三六歳〉 三月八日、応召。出征先は朝鮮半島。一〇月一六日、復員帰郷。大阪・松原の借間に暮らし、瓜破の生家(全田家)と多く行き来する。
*同
【原文】
昭和二一(一九四六)年〈三六~三七歳〉 四月二四~三〇日、東京・中野区大和町の家へ行き、これを引き払う。
【訂正】
昭和二一(一九四六)年〈三六~三七歳〉 四月二三~三〇日、東京・中野区大和町の家へ行き、これを引き払う。
*同
【原文】
昭和二二(一九四七)年〈三七~三八歳〉 大阪・松原上田に住み、帰農する。
【訂正】
昭和二二(一九四七)年〈三七~三八歳〉 大阪・松原上田で帰農する。一一月、新築した家へ移る。
★以下7点は通常の誤記・不備の修正となる。
*8頁
【原文】昭和戦前期の日本文学や
【訂正】昭和前期(~二〇年八月)の日本文学や
*54~55頁
【原文】土地を失った地主の悲憤について、〈痛ましき運命の荷担手〉と付記することを忘れてはいない。
【訂正】土地を失い悲憤に包まれた地主について、〈痛ましき運命の荷担手〉と付記することを忘れてはいない。
*99頁
【原文】前者は最晩年の肥下恒夫が受贈を受けて
【訂正】前者は最晩年の肥下恒夫が進呈を受けて
*141頁
【原文】鬱状をめぐって同道巡りする
【訂正】鬱状をめぐって堂堂廻〔めぐ〕りする
*年譜・234頁
【原文】四月、東京帝国大学文学部美学美術史学学科入学。
【訂正】四月、東京帝国大学文学部美学美術史学学科へ入学。
*付論・242頁
【原文】とりわけ『日本浪曼派』は、昭和期日本ナショナリズム運動の悪の華などともいわれた。
【訂正】とりわけ日本浪曼派グループは、昭和期日本ナショナリズム運動の悪の華などともいわれた。
*同
【原文】断固「愛する」といった態度であり、
【訂正】断固「愛する」態度であり、
*奥付
【原文】URL http://www.zd.em-net.ne.jp/~lighthouse/
lighthouse@ac.em-net.ne.jp
【訂正】削除
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