コンサートの当日、織屋はいつもよりも早く住まいであるマンションのロビーを出た。
誰かと待ち合わせるなど思えば久しぶりで、同行相手である秋月を誘った身で待たせては忍びない。
チャリティーコンサートは本格的なクラシックのそれと違い大抵はカジュアルな服で構わない、織屋はいつもキャンパスを歩いているのとさほど変わらない服を選んで、彼女にもそう連絡しておいた。
行き交う人々の間を縫い、電車を降りて改札を抜ける。休日は普段よりも賑わうものだということはわかっているが、それにしても人が多いような印象を受けた。
すると待ち合わせの場所である劇場前の広場にそれは大きなクリスマスツリーが見えた。
「ああ…だからか」
もうすぐ年末になるのか、と道行く人の多さに納得する。春夏秋冬関係なく講義や研究に明け暮れる男は季節の概念が希薄で、つい最近まで暖かかったせいもあり、感慨深くそれを見上げる。
「織屋先生」
上げていた視線を声の方へと降ろすと待ち合わせた秋月の姿があった。
「もしかして、待って下さっていましたか?」
「いや、今来たところだ…それよりも早く来すぎてしまったかと思ったんだが…」
袖を僅かに動かして身に着けている腕時計を見れば、やはり待ち合わせの時間にはまだ少しある。どうやらお互いが気を遣ってしまったらしい。
幸い待ち合わせ場所である広場はちょうど催し物としてクリスマスマーケットをやっているようだった。
「入場時間まで、少し歩かないか?」
「いいですね」
「それと…」
彼女の服装がいつもと違う。ワインレッドのロングスカートとオフホワイトのニットに大きなチェック柄のコートを羽織っている。
こういった場合、言及した方がいいのだろうか。と考える。しかし、女生徒の中には教諭のそういう視線を厭う者もいるだろう。
ほんの一瞬、男はその赤い瞳を揺らして逡巡したが、コンサート前から不愉快な気持ちにさせてしまうリスクの方と取るとそこへは触れず、いつもと色の違う彼女の髪留めを見ながら
「──外出先でまで"先生"は不用だ、織屋で構わない」と勧めた。
クリスマスマーケットにはクリスマスカラーの雑貨や製菓を扱うワゴン店もあれば、キャンドルやオーナメントといったヨーロッパ風の小物を陳列している店もあった。
少し見れば、どのワゴンにも華やかな電飾がされていることが解かる。昼間の時間帯でその煌びやかさがわかるのだから、おそらく夜は行き交う人の足を止めるイルミネーションへと変わるのだろう、
織屋はグリューワインを売っている店の前で足を止めると二つ注文し、そのひとつを秋月へと手渡した。ひと口飲めば、温かなワインが喉を伝って葡萄と少しのアルコールの香りが鼻を抜ける。
心地良い温もりに目尻を緩めると、彼女の小さな手がカップで暖をとっているのが見えた。まるでリスが手元で懸命に胡桃を転がすような仕草だ。
「ふっ…どうやら家を早く出て正解だったようだ」
思わず笑えば、彼女は恥じらうようにうっすらと頬を染めて静かにカップに口を付けた。
◇
ホールを反響した重厚な音が耳へと届く。
男はこういったコンサートによく足を運んでいる。常日頃がノートの上の細かな数字を拾う作業ばかりしているせいか、こういった余暇時間を設けるようになるより以前は、日常の中の煩雑な情報に対してまで勝手に思考が引っ張られ、煩わしさを感じたり頭痛に悩まされたりしていた。
医者には定期的に脳を休ませることを勧められたが、習慣化しているとも言える己の行動を急に自分の意思で制御しようなど、思うように出来るはずもない。
そんなときに、偶々立ち寄った商店街で子供達がピアノコンクールの無料観覧チケットを配っていた。半ば強引にチケットを握らされた織屋は、それまで縁もゆかりもなかった音楽を聴いた後に、妙に身体が軽いことに気が付いた。
どうやら音楽鑑賞をしている時はそちらに意識が向くようだ、ちなみに音源だけでは周りの情報に気を取られてしまうことがあり、まったく同じとまではいかないようだった。
それからは、脳を休めるために生演奏を聴きにコンサートホールや劇場に足繁く行くようになった。例え、その良し悪しがわからずとも、織屋にとってはだんだんと楽しみで大切な時間となっていった。
しかし、クラシック、などと言えば高尚な趣味だなどと難しく考えられてしまうこともしばしばある。偏見をもらうこともあったが、隣の様子を見る限りは、嫌な顔はされていないようで胸を撫でおろす。
深く座った座席の背もたれにもたれ掛かり、ゆっくりと目を閉じた。
高い音は耳から胸へ、低い音は腹へ、そうやって織屋はまるで光の粒を束ねるような心地良い音色の世界に身を委ねた。
「……つまらなくはなかったか?」
「えっ?いえ、演奏の音ってあんなに響くものなんですね、なんだかすごい経験をさせて頂いた気がします」
「そうか…」
ホールへの拍手が鳴りやめば、自分と共に席を立った彼女に笑顔の花が咲く、織屋はそんな姿に妙なむず痒さと気恥しさを感じて思わず目を反らした。
会場を出れば冷えた空気が身を包む。夕刻となり薄暗くなり始めた広場の電飾は一斉に灯り、賑わうマーケットから上がったざわめきのような歓声と共に、ふたりでひと際煌びやかなツリーを見上げた。
「わぁ…綺麗ですね」
「ああ」
イルミネーションは劇場からマーケットまでを繋ぐように配置され、植え込みやオブジェ、ワゴン店などを華やかに彩っている。
織屋はその道を秋月と歩きながら、白い息を吐く彼女を横目で見る。すると、不意にその大きな瞳がとあるワゴン店に縫い留められる。
そこは並べられたネックレススタンドに首飾りが下がっていたり、木枠のトレイにブローチや指輪が美しく陳列されているアクセサリーショップで、その中でも彼女の目に留まっていたのは先に装飾がぶら下がっている珍しい形をしたレースのリボンだった。
「綺麗だな」
「そう…ですね」
秋月はそれが余程気に入ったのか、それの値札を探してタグに触れる。するとそれを見ていた店員が明るく声を掛けてきた。
「このショップにあるものはどれも一点ものなんですよ!是非彼女さんに買ってあげてください!」
「か、」
彼女。という唐突な言葉に、少しの間を開けて「違う」と言いかけた織屋だったが、
「やっ!やっぱりいいです…!」
と、真っ赤な顔をした秋月が逃げるようにその場をあとにした為、喉から出かかった声はひっこめられ、織屋はすぐに彼女の後を追いかけた。
そこから彼女はずっと受け答えがどこか静かでよそよそしく、大人しかった、
「…本当に送って行かなくていいのか?」
「せん…織屋さんにそこまでさせてしまうのは…それに逆方向ですから」
駅の前で遠慮がちにそう言われれば、引き下がる他ない。
「では気を付けて帰ってくれ、今日はありがとう」
「そんな……私のほうこそチケットありがとうございました」
路線の違う彼女が改札口を通過したのを見送ると、腕時計を確認し、電子時刻表へと視線を移す。このまま帰れば一時間後にはマンションに到着する。
ふと、どれも一点もの…、そんな風に言っていた店員の言葉が頭を過ぎる。
───織屋は来た道を引き返した。
◇
月曜日、連休明けのキャンパスの掲示板前は各学科からの通達や、担当教諭達のスケジュールを確認しにくる生徒で騒がしくなる。
物理学の准教授は珍しく文学部の掲示板のほうへと足を進めた。勿論、先日劇場前で買ったリボンを目当ての人物に贈るためだ。
すれ違う学徒たちは、掲示板の前でメモを取ったり、携帯機器で写真を撮ったりしながら思い思いに、この朝の時間を楽しんでいるが、まだその中に彼女の姿はないようで、仕方なく傍のカフェテラスに腰かけて待った。
そう長く待たずして杠はやってきたが、席を立とうとした織屋はその甘栗色の髪の隣に、親し気に話す男子生徒の存在に気が付くと、ピタリと足を止める。
(もしやあのとき、彼女はマーケットで自分と恋人のように思われることを嫌がっていたのではないだろうか?)
そんな後ろ向きな考えが過ぎると、急に血の気が引いた。
思えば、彼女は友人や知人の中に意中の相手がいてもおかしくないような年頃なのだ、であれば、その相手は勿論普段からよく顔を合わせる男子学生のうちの誰かだろう。彼女が好意を寄せる相手として己のように歳の離れた男が含まれているとはとても思えなかった。
もし、そうだとしたならば、
こんなにも人目がある場でこんなものを渡してしまっては、辺りの生徒に誤解されたり、揶揄われたりしてしまった場合、傷つけてしまうのではないだろうか。
静止していた男の革靴はそのままテラス席のバルコニーを降りると、小さな紙袋を持ったまま彼女の方には向かわずに、その場を離れようとした。
「──織屋先生?」
しかし、間が悪く生徒の一人に呼び止められてしまう。
自然と杠の視線もこちらを向いたのがわかったが敢えて気づかぬフリをする、
流石に掛けられた声を無視をするというのは気が引けて、その生徒の前で足を止めた。
「おはようございます!」
「おはよう」
「先生が文系学舎の方に来るなんて珍しいですね」
言葉に詰まる。この場合、なんと答えるべきが最もそれらしく場が収まるのか、
理由を探した男は常の即答よりは遅く口を開くと「……ああ、コーヒーが飲みたかったからだ」と嘘を吐いた。
◇
キャンパスの高低差を埋める階段を下り物理学科の方へと歩いて行く、なにもおかしなところはなかったはずだと先ほどの自分を振り返った。
頬を撫でた冷たい空気を目で追うように階段横に植えられた木へと視線をやれば、
ちょうど風に煽られた落ち葉が肩に落ち、それを摘まんで見つめる。
どうして、己からのプレゼントを彼女が無条件に喜んでくれると自惚れたのだろうか、
織屋は杠が自分よりもずっと年若い女の子であったことを再認識すると途端に自分がしていた行動がだんだん恥ずかしいことであるように思えてきた。
それはきっと心優しい少女が当然のように、いつも隣で自分を待っていてくれたからでもあったし、嫌な顔をせずに微笑んでくれたからでもあった。なんということだ、ひと回りも歳の離れた生徒に甘えていたとは。いい歳をして、情けないことだ。
紙袋がカサリ、と音を立てる。
だが、彼女がこれを欲しがっていたのは事実だ、きっと二人でいる時ならば問題ないだろう、コンサートに付き合わせたお礼だと言って押し付けてしまえばいい。
そんな風に考えながら、枯れ葉を手放して建物内へと足を進める。
すれ違いざまに挨拶をくれる学生たちに応えながら、エレベーターの音を聞きながら見慣れた研究室の扉を押す。
彼女に相応しくない、という事実がとても重く感じた、何故なら、
───本当は自分が、これを受け取って嬉しそうにする彼女を、一刻も早く見たかっただけだから。