「…で、あるからして」と、要所を板書へと書き並べながら織屋は少しだけ講義室の後方へと視線を向けた。
彼は大学の教諭の一人ではあったが、研究色が強い自身の講義にさほど生徒の興味を引く要素が少ないことを理解していた、しかし、彼の物理学は学部の必修科目であり、その単位が必要であるという名目で多くの生徒が受講する。退屈かそうでないか、生徒の態度は正直であり、広い講義室の前列で授業を聞く生徒が少ないことと、後方の生徒の頭が船を漕いでいることを確認し、男はそのまま彼らが見ているだろうものと同じ教本へと視線を下げる。小さく吐き出された息は果たして生理的な呼吸であっただろうか。
そこから彼は講義が終わるまでの間、後ろを振り返らなかった。
教授陣の研究室がある実験塔と大講義室がある講義塔の間に位置する中庭で毎日メモを取る男がいる。学生にしては着ている服や身に着けている時計が安物ではないことから、その姿は洗練された大人のものであり、それを遠目に眺める生徒はいても話しかける人間はほとんどいない。組んだ脚の上に置かれた大学ノートはみるみるうちに集中している彼が書き連ねる数字で埋まり、刻一刻と時間が過ぎていく。乱雑に頁を捲ると不安定にバランスを失った金属製のボールペンが男の指先から抜け転げ落ちた。
それを見て「あ、」と聞こえてきた短い声色は自分のものではない。隣を見るといつの間にか一人の女子生徒が隣にいた。
「こんにちは、織屋先生。」
「……ああ」
細い指が拾い上げたペンを受け取ると、少し長めに揃えられた男の前髪から覗く赤い瞳が女子生徒の、秋月の姿を漸く捉える。
「…もしやずっと待たせてしまったか?」
「いいえ、今来たところです」
男は昔から集中すると周りの様子や時間がわからなくなる悪癖があった。明らかに待たせたような気もしたが、優しいその言葉に織屋は頷く。
彼女は秋月杠(あきづきゆずりは)というこの大学の一回生である、自分の担当学部ではない史学部の生徒で入学式後の履修科目のオリエンテーションにて知り合った。入学式の日、スーツを着ていた彼女に私服で行動していた織屋は大学の上級生と間違われたのだ。最初はそれに対する詫びの差し入れとして、申し訳なさそうな顔をした杠に焼き菓子を手渡された。ちょうど昼食時であったため、その場で口に入れて感想を述べればそれからは嬉しそうに「いつも多く作りすぎてしまうから」という理由で中庭にていつもメモを取る織屋に対する差し入れを彼女は定期的に続けるようになった。
「差し入れです」と、その日も手渡されたホットサンドが入ったペーパーボックスを受け取る。
「今度、なにか礼をしよう」
「えっ!いえ…私は好きで作っているだけなので!」
照れるように薄っすらと頬を赤らめる姿に織屋の表情筋が緩む、それはいつも変わらぬ彼の表情を大きく変えることはなかったが心の中では冬の雪が溶けるような癒しを感じていた。
「そうだ君は音楽…クラシックは好きだろうか?」
「クラシックですか?」
「ああ、俺は偶にチケットを取るんだが、よかったら一緒にどうだろう。行ったことが無かったとしても経験になる」
「で、でも…コンサートチケットって高いんじゃ…」
「なにもドレスコードが必要な有名楽団の高額コンサートに行こうっていうんじゃない、チャリティコンサートとか」
「それなら…!」
安心したように笑う生徒の姿を織屋は赤い瞳に映して頷く。柔らかな午後の風が彼女の栗色の髪を揺らした。
「先生は音楽がお好きなんですね」
「好き…というのとは、少し違うな。昔から集中癖があって、算術のみ、論文のみ、基本的にひとつのことしか見えなくなってしまう。
音楽を聴いているときは聴いているだけだ、何も考えない…だからなんというか、安らぐんだ」
「……それは…『好き』とは何か違うんですか?」
「ぇ……」
織屋は杠の疑問に珍しく言葉を詰まらせる。男はその人生の大半を理知的で客観的な思考に頼って生きてきた。
その経験から、しなければと、したい、の違いならば明確に判断できたが、なにが好きで何が嫌いかという趣向の話になるとそれは変わって来る、要は自己分析が苦手だった。
確かに、音楽の中でも何故自分という人間はクラシックというジャンルを選択したのだろうか。ジャズでもロックでもよかったじゃないか。
食べかけのホットサンドに目を落とす。杠の差し入れはこれまでに色々あったが、今日のこれをまだ食べたいと思っている名残惜しさで最後の一口を食べきれないでいる自分がいる。
「…成程。なら俺はクラシックと同じくらいこのホットサンドが好きだ」
「んん!?」
どうしてそこでホットサンドの名前が挙がってしまったのか、
織屋の突飛な発言に杠は一瞬目を丸くしたが、すぐにくすくすと鈴の鳴るような声音で
「また、作ってきますね」と言って、嬉しそうに微笑む。
男は安心して最後の一口を口の中に放り込んだ。