こぽこぽと水が熱で沸き立つ音が小さな作業部屋に響く。
蒸留器で熱されたほのかに光を放つ花弁が蒸気と交じり合い、ガラスの管を伝ってビーカーに滴る。水と溶けあわぬ油が上辺に層を成し、その油をフィオレは丁寧にスポイトで汲み上げる。
夜光花の精油。これがフィオレの香水の基盤となる。甘くやわらかな香りを放つ精油を小さな瓶に入れ替え封をすると、ふうと小さく息をついた。祖父に何度も教わって慣れた作業ではあるが、いつも抽出の作業には神経を使う。
「いけない、もうこれしか…」
ややっとあどけない少女の声音が驚く。
蒸留器に花弁を追加する為手持ちの夜光花を確認すると、思っていた以上にその数が少なく更に精油を抽出するにはこれでは足りない。本当はまとめて抽出を終えたかったのだが仕方がない。今度は残念そうに息をつくと、少女は加熱するランプの火を止め長いローブを羽織る。午後の予定は花摘みに変更だ。
空の籠を片手にフィオレは部屋を出る。?小さく囁かれた「いってきます」に応える者はいない。
風のない穏やかな週末。風にローブが攫われる心配をしなくていいのは良いのだが、人の往来は平日とうって変わって多いので人とぶつからないようになるべく人目を避けた小さな裏路地を歩く。この前は背中から人にぶつかってしまって本当に冷や汗をかいた。怒鳴られ絡まれでもしたらどうしようという不安が先立ってしまったが、それ以上にそれでこの翼が見つかったら一大事だ。
もしも"化け物だ"と罵られ、この街に居られなくなってしまったらフィオレはもうどうしたらいいのか分からない。ここ以外での生き方は知らないし、ましてや祖父との記憶が詰まったこの街を離れることなどできない。
幸いぶつかってしまった男はフィオレの不注意を許し優しい言葉をかけてくれた。身体の大きさや低い声音から乱暴な人かもしれないと、勝手に見た目で判断してしまった自分を少し恥じた。たしかにスラム街はお世辞にも治安が良いとは言えない。だが、全ての人が"悪い人"だと決めつけるのはよくないな、と。あの日の無垢な少女は家路を急ぎながらそう思った。
「あった」
古びた鉄と壊れたガラクタの山。上層や商業区で不要となった機械や資材、それらを処分するために掛かる費用を嫌がる不埒者の手によって辺りにいっぱいに不用品が乱雑に積まれていた。乱暴に砕かれたそれらは所々部品が抜け落ち、細かな塊となった破片が埋立地のように足場を形成する。その隙間を縫うように僅かな光を求める夜光花が廃墟に凛と咲いていた。
ここまで来ずとも夜光花が群生している場所はあるのだが、子供が遊び程度にしか摘まない花をわざわざバスケットいっぱいに摘んでいる所を見られたら非常に悪目立ちをしてしまう。この不法投棄の地は"夜"に物を捨てに訪れる者があっても、人工灯が照らす時間帯に立ち寄る者はいない。それはフィオレにとって数少ない"外"で安心できる場所だった。
だがここに至るまでは複雑な道を通らねばならず、その事で行き来に時間を必要とする。ただでさえ外出をすることを避けているフィオレだ。一度に摘める花の量には限りがある。その為に香料を精製する為の回数も、その抽出量も僅かであることから更に希少性が増し香水の価値を高めている。
だがそれによる収益の半分近くが女主人の手に収まっていることをフィオレは知らない。
そんな中、以前フィオレは夜光花の根を持ち帰ったことがある。自宅で栽培することが出来れば、人に見つかる危険を冒す必要がないと思ったのだ。思った通り栽培それ自体は簡単であった。だが、どうやら人工的に手を加えたのと、地脈からエーテルを得ているのとでは花の香りに大きく差があり、摘むよりも多くの労力を必要とする上香りも弱いという結果にフィオレはひどく落胆したのであった。
思い起こせば、幼い頃祖父と連れ立って花を摘みに来た時は、二人で両手いっぱいに抱えて家路についたものだ。きっと祖父は栽培が叶わないと知っていたのだろう。
なので非常に手間ではあるが都度花を摘みに出掛ける必要があった。幸い数日であれば、自生している夜光花は摘んでもしばらく取り込んだエーテルのお陰で痛んだり枯れたりすることはない。
慣れた手つきで夜光花を摘み取る。長いローブに深々と被ったフードを纏いながらバスケットいっぱいに花を摘む。まるで幼い頃に祖父に読んでもらった童話の女の子みたいだと、そんな他愛もないことがよぎって小さく笑みがこぼれる。
だがそんな笑みはすぐに翳りを見せる。まだ祖父と別れてからよりも共に過ごしてきた時間の方が遥かに長いフィオレにとって、祖父との記憶はまだ思い出として懐かしむ事はできないほど心の傷は癒えていなかった。
家に一人置いていくにはまだ不安な幼い自分を、祖父は外に出る度に連れて歩いた。翼が人の目に触れる可能性はあったが、フィオレにとっては数少ない外に触れる機会であり大好きな祖父と一緒に出掛けられること自体がとても楽しみであった。
祖父は自分の手を引きながら「あれはなあに?」と尋ねる自分の問いに、ひとつひとつ丁寧に教えてくれた。高い天井にあるのは"人工灯"という照明、壁に張り巡らされた巨大な筒は"エーテル"を運ぶパイプ、下層の人たちが商いをする"商業区"、自分たちが生活をしている区域は"スラム街"。
行き交う人の波を避けるようにしながら、フィオレはいつも人々の背に視線を向けていた。翼のない人々と自分が違う事は幼いながらに分かっていた。でもどうして自分だけなんだろうという疑問はずっと解決されなかった。
だからなんでも教えてくれる祖父に聞いてみたかったのだ。?どうしてみんなには羽がないの?、と。
あの問いかけから、フィオレは胸の内に小さな寂しさを抱き続けた。
みんなと違うのは分かっていた、でも何処かでそんな自分を受け入れてくれる誰かもいるんじゃないかと願っていた。スラムの子供たちがボロボロのボールを楽しそうに蹴って遊んでいる姿を、いつも小さな窓から覗いていた。いつか一緒に遊んでと言ったら、まぜて貰えるだろうか。そんな淡い期待は祖父の答えによって叶わない願いだと理解った。
年を重ねるごとに少しづつ大きくなっていく翼。まだ小さな頃は喜びや興奮で羽が動いてもローブの下で目立たなかったが、今は翼を広げるだけでローブの背にふくらみができてしまう。自分の感情にあわせて動いてしまう"それ"を自制することが出来ない。誰とも交わることが出来ないと知ってしまってからは、フィオレは極力外に出ることをしなくなった。
他の子と遊べなくてもいい。自分には祖父がいる。自分を一番理解してくれる優しい祖父がずっと一緒に居てくれれば、こんな寂しさなんて忘れてしまえる。―ずっと、そう思っていた。
祖父が倒れたのは急なことだった。
スラム街に漂う淀んだ空気。エーテルをくみ上げる装置が発するダストは、人体に微量ながら影響を与え続けていた。長年下層で暮らし続けた祖父はそのダストによって肺が侵されていたのだ。フィオレは必死の思いで少ない金銭をかき集め医者に祖父を見せたが、どうにもならないと匙を投げられた。せめてもの慰めにと与えられた薬は、祖父の痛みを少しでも取り除く効果しかなかった。
人工灯の光も届かない真っ暗な"夜"に、横たわる祖父のベッドの傍でフィオレはただただ泣いていた。何もできない自分の無力さ、突然放り出されてしまう孤独への不安。
「置いて行かないで」と泣き縋る自分に、祖父は困った様な申し訳ない様な笑みを浮かべる。ひゅーひゅーとか細い呼吸音をたてながら薄い皮膚の胸が上下する。それがあまりにも痛々しくてフィオレの春色の瞳からはとめどなく涙が溢れる。
長い年月にしわを刻んだ指の背でいつものように優しくフィオレの頬を撫でる。触れる祖父の指先はまるで死人のように冷たく、それでも一人泣く孫娘を安心させるように小さく何度も「大丈夫」と声を掛けた。
"泣くのはおよし。そんなに泣かれてはお前を置いていくのが心配になってしまうよ…どうか私の大好きな微笑みで見送っておくれ 私の可愛い花(フィオレ)"
それが祖父の最後の言葉。
その時の自分が、ちゃんと微笑んでいられたかは分からない。それがフィオレにとって今も尚深く刺さる棘であり、祖父との幼い頃の記憶を思い出す度に別れの後悔が胸を締め付けるのだった。
痛みを伴う記憶を思い返し止まる手。意識が記憶に奪われていたフィオレは気づかなかった。
その後ろに、一人の男が立っていることに。
◇
「こんなとこで何してんだ嬢ちゃん」
突然の声にびくりと肩が震える。
声を掛けられるなど露にも考えていなかった華奢な身体を竦ませ慌てて振り返る。驚き振り返ったはずみで落ちた夜光花が一輪、自身の足元に転がる花を長く指が掬い上げる。淡い光を放つ花を男はフィオレに差し出すと、やわらかな微笑みを贈った。
「あなたは…」と思ってもみなかった人物と思わぬ所での再会に驚き目を開く。
そこに居た赤い瞳の男をフィオレは知っている。がっしりとした大きな体躯に低い声。あの日被っていたフードではっきりとは分からなかったあ、今日は被らずにいる為後ろに流した黒い髪と、よく整った顔立ちがはっきりと見えた。宝石のような綺麗な赤い瞳ははじめて会った時のように細められ、穏やかながらもどこか不思議な雰囲気を宿していた。
「花売りでもはじめるのか?」
すこし悪戯っぽい話し方で男はフィオレに問う。
何のことかと言葉が呑み込めずにいると、バスケットの中の花を見てそう思ったのだと気づき「いいえ、そういう訳では」と困ったように答える。調香をするのに必要なのだと説明しても、きっと何のことか伝わらないだろうと、何と言うべきなのか答えに戸惑う。
殆ど仕事の時以外誰かと話す機会がないフィオレにとって、見ず知らずの、それも大人の男性と会話をする事は緊張を禁じ得なかった。その緊張が更にフィオレを焦らせ、思考をぐるぐると鈍らせる。そもそも見ず知らずの男性とこんな風に会話をしていて良いものだろうか、だが人を見た目で決めつけるのは失礼だとこの前改めたばかりではないか、そんな問いとは別の事までも考え始めてしまう始末であった。
説明が出来ぬことに戸惑っている間男は黙ってフィオレを見つめる。その事に気づくと、男の手を差し出させたままにしているのは悪いと思い、答えが出ぬまま「えっと、お花、ありがとう御座います」と何とか礼だけを告げる。「いいや、構わない」と答える男の声はやわらかで、フィオレの緊張を少し和らげた。
差し出された花を手に取る。すると、よく知っている甘くやわらかな香りがふわりとフィオレの鼻をくすぐる。
「?その香り…もしかして…」
「ん??ああ、嬢ちゃんも知ってるのか? 知り合いに"譲って"もらった香水なんだが?」
オリアナさんのお知り合いだろうか…男の話を聞きながらフィオレはずっと世話になっている宿屋の女主人を思い出す。繋がりを深く考えようとする前に「?いい香りだろ、気に入っている」と言う男の言葉にフィオレはたまらず顔を綻ばせた。
「そうですか…?嬉しい…自分の作ったものを直接お客さんから感想を頂けたのは初めてです」
「自分の…? もしかしてこれは」
「はい、わたしが作ったんです。あ、この花もその材料で」
肘で持ち手を抱えたバスケットが見えるように、少し身体をよじって夜光花を男に見せる。詰まっていた言葉を説明できた安心感と、自身が作ったものを褒められた喜びに素直に花が咲くような笑顔をみせるフィオレに、赤い瞳を細めながら「へぇ」と声を上げる男は優しい微笑みを崩すことなく「一人でこんなに…大変だろう」とフィオレの労をねぎらう。「いいえ、慣れてますので」と小さく首を振るフィオレは、少し照れくさそうにしながら小さな微笑みを浮かべていた。
「しかしこんな廃墟にいるなんて危ねぇな…あ、誰か連れでもいるのか?」
「あ、いいえ。わたし一人です」
「そうなのか?なら尚の事危ねぇな。もうすぐ人工灯も消えて"夜"になる時間だ」
「え、ああ?もうそんな時間ですか?」
「ああ、女の子一人で夜道は危ねぇからな??この近くに住んでるとしても早く帰った方がいい」
「いえ、近くという訳ではないのですが…」
少しずつ"自分"という情報を男に差し出している事にフィオレは全く気づいていない。
そんな少女の言葉ひとつひとつを、男は耳に覚えていく。
ウーーーーーーーーーッ
突然鳴り響く警報にフィオレは「きゃあ」と悲鳴を上げて驚く。驚いた拍子にバランスを崩し転びそうになるフィオレの華奢な身体を、おっと、と声を上げた男の右腕が支える。ぐんっと引き寄せられた逞しい腕を背に回され、男の胸板に身体を預けるフィオレは驚きに大きな瞳を見開く。
大きな警報の後、ごうんごうんと鳴り響く機械音。恐らくエーテルを汲み上げる巨大ポンプのメンテナンスが終了し稼働に入ったのだろう。どうやら此処はそのポンプに近い場所らしい。
そんなことを男が考えている事も知らず、フィオレは抱き留められた男の腕の中で静かになった事に安堵し息をつく。「大丈夫か?」と尋ねる男の声で、ようやくフィオレは自分が置かれている状況を理解した。
「だ、大丈夫です!すいません…ッ!」
慌てて男の腕から離れる。両手の指先で口元を隠す少女の頬は薔薇のように赤くなり、恥ずかしさに狼狽える春色の瞳にはまだ恋も知らぬ少女の初心な心が宿る。視線を下げて羞恥に耐える少女を男は細めた赤い瞳でじっと捉える。少女の背に回した時に感じた、抱きなれた女の背とは明らかに違う感覚。初めて男の腕に抱かれた事に戸惑う少女は、男が確信を得たことを髪の毛の先ほども気づいていない。それがたまらなく可笑しくて、喉の奥でくつくつと笑いたくなる衝動を抑える。
「いや気にするな、嬢ちゃん?ああ、ずっと嬢ちゃんって呼ぶのも失礼だったな。良かったら名前を聞いても良いか?」
男の呼びかけに顔を上げる。変わらぬやわらかな笑顔のまま男はフィオレに問うた。
少女は少し躊躇った素振りを見せてから、小さなけれども凛とした声色で答える。
"フィオレ"
――男は、満足そうに嗤う。