「また調香の腕をあげたね?フィオレ」
飾り気のない瓶から放たれる甘やかな香りに、満足そうな声で女主人は言う。
その言葉に、フィオレと呼ばれた少女は、深々と被ったローブの影から嬉しそうに「ありがとう御座います」と言葉を返した。
スラム街の一角。商業区にほど近い宿屋のロビーで、女主人と少女は商談をしていた。
商談と言っても、かねてから付き合いのある老人の孫である少女から、商品を受け取るだけのことである。
宿屋となってはいるが、塗装も剥げ床が軋む古びたこの宿を、本来の意味で利用する者はほとんどいない。あくまでそれは表向きのことで、その実スラム街で花を売る女たちの仕事場だ。女主人は娘たちを束ねる主であり、フィオレはその娘たちが愛用する香水を組む"調香師"であった。
この下層で調香師を営んでいたフィオレの祖父は、この一帯では珍しい香水を組んでいた。
夜光花?太陽の光が遮断された"下層"において、人工灯の光だけが唯一の生物のよるべだ。それは植物であっても例外ではなく、種を遺そうと環境に適応したこの花は繁殖力が強く、別段この下層では珍しいものではない。
だが、この花の持つ繊細でやわらかな香りを抽出するには複雑な工程を要し、ようやく香料が出来てもそれを組み上げる為には調香師に高い技術力が求められる。どこでも手に入る材料に対して"商品"にするまでの費用が割に合わないことと、それを成すための技術者が不足していることから、この花の香水が市場に出回る事はない。
そんな貴重な香水を組む調香師がいるらしいと、客の一人が噂話をしていたが誰一人まともに取り合う者はいなかった。それほどにその調香師の存在は希薄であったのだが、一体何の因果かたまたま自分の宿に香水を売りに来た男がまさにその噂の"調香師"だったのだ。
男曰く、最近この区画に越してきたばかりで生活に困窮しており、ここの娘たちにどうかと自身の商品を勧めにきた。
生活に困窮しているのはここでは珍しい事ではない。老若男女問わずみんなそうだ。
だが居住を探すのも苦労する下層で越してきたばかりとはどういうことなのだろうか。よほどの大罪を犯して逃げて来たのか。だが物腰柔らかな男にはそんな気概があるようにはみえない。
?何より大罪を犯している者が、"それ"を連れながら逃走劇など演じることができるだろうか。
年老いた男は香水瓶の入った革張りのトランクを片手に、もう一方の手には幼い少女の手を握っていた。少し怯えたような表情をしながら祖父の手を握る少女に、女主人は"子供らしくない"と思ったのが、初めてフィオレを見た時の印象だった。
純真無垢、一言で言えばそんな印象。そういえば聞こえはいいが、この"下層"に住む子供にしてはあまりにもこの世の危うさを知らな過ぎる。人と会う時はスリと思え、それくらいの用心さはこの年頃であればスラムの子供は誰でも知っている。それを一切感じない少女に女主人は"子供らしくない"と思ったのだ。
フィオレの異質さは他にもあった。足元まで隠れる長いローブ。顔が隠れるようにフードを深く被り、どんなに外気の熱が上がっても決して脱ぐことがなかった。それは、それなりの付き合いとなる今になっても変わる事はない。
あきらかに怪しげな二人組。関わり合って面倒なことになるのはごめんだと、適当に商品とやらをみて帰そうと思っていた。だが、商品を手に取った瞬間。女主人は男が噂の"調香師"であると察してすぐにその考えを捨てる。ふわりと鼻孔を擽る甘い香り。それは誰も広げることができない市場を独占できる、金脈の香りがした。
喩えどんなに不審な者であろうと、金になるなら問題ない。"下層(ここ)"はそういう場所なのだ。
?女主人は下層での生き方をよく心得ていた。
そこからは長年の付き合いとなっていたが、数か月前に調香師は"代替わり"をした。
有体に言うと、男は死んだのだ。
この淀んだスラムにしては長く生きた方だと思う。だが、いつも手を握っていた少女を一人遺して行ったことは恐らく気がかりだったに違いない。これまで良い思いをさせてもらったのだ、せめて娘くらいは引き取ってやろう、と女主人は考えていた。幸い顔は悪くない。ある程度整えればすぐ一人で飯を食えるようになるだろう。
しかし、この少女はその調香の技術を祖父から受け継ぎ、まだ未熟ながらも香水を組むことができた。まだまだ男には遠く及ばないが、その希少性から娼婦以外にも一部の"上層"に顧客を得られた。男ですら築けなかったそのパイプを女主人はそちらの方が金になると踏み、少女に香水を卸す仲介をかって出た。
他が追随できない"唯一性"。
その唯一性があったからこそ、この"下層"にあっても?少女は未だ"無垢"なままなのだ。
確かに打算はあったが、別に自分は少女を貶めたいわけではない。花を売る以外にも生きる道があるならそれに越したことはない。自分には花を売る方法しか紹介できないが、男は大事な孫娘にその術を残して行ったのだ。ならばその思いを大事にしていくべきであろう。
そんな女主人の考えを露とも知らぬまま?まあ教える気もないのだが?、健気に調香をしては月に一度フィオレは商品を卸しにくるのだ。
「誰か。商品を奥に運んでおくれ」
「はい奥様??って、ふぃ、フィオレさん?ッ!?」
手を叩く主人に呼ばれて駆け出してきた青年はフィオレの姿を見て驚く。
フィオレがほがらかな笑みを浮かべながら「こんにちわ」と挨拶をすると、青年は慌てながら挨拶を返す。まだ何処か少年のような幼さを残すその頬は、少し赤みを帯びているように見えた。
「これ今月の仕入れ分です。あまり数が入れられなくてごめんなさい」
「いいえ!そんなそんな!フィオレさんの香水は姉さん方にも評判でして!」
いつもありがとうございます、と早口になって行くのと同調するかのように赤くなる青年。そんな青年に少し首を傾げつつも、「自分はこの香りが好きで…!」と瓶を指さす先に「わぁ嬉しい!私も好きでよく使うんです」とすぐに花が咲いたような笑顔を見せる。その表情に更に頬を赤らめる青年。
なんとも甘酸っぱい恋の花が芽吹いている事に気づかない少女と、奥手すぎる若い使用人のやり取りを呆れ気味な笑みをたたえながら女主人は紫煙をくゆらせた。
◇
「遅くなっちゃった…」
スラム街の小さな通りを小さな足音がぱたぱたと響く。少し埃っぽい風を避けるように被ったローブのフードをより深く被る。片手で襟元を抑えながら慌てる足取りは近道をしようと普段は通らない道に軌跡を残す。
「えっと…確かこっちの方が近い…よね?」
一度足を止め進路を確認する。注意深くなるのは馴染みのない道だからというものもあったが、危険な街中を早く抜けたいという思いもあった。たびたび女主人に「お前は警戒心がなさすぎる」と注意を受けているが、流石のフィオレも人が多い街中では十分に注意を払っていた。
だがフィオレが考える"警戒"と、女主人のいう"警戒"には天と地ほどの開きがある事をお互いに知らない。
どんっ
突然背に受ける衝撃に思わず「きゃっ」と声を上げる。どうやら通路を妨げる位置で足を留めてしまっていたようで、誰かにぶつかってしまったらしい。「あ?」と上から聞こえる低い男性の声にフィオレはびくりと背を震わせる。決して治安がいいとは言えない此処で、知らない男性と接触してしまった事の恐怖、ただでさえ普段から男性との接点がないフィオレにとってはどう対処するべきなのか分からず顔に焦りがでる。
とにかく謝らねばと慌てて頭を下げる。ちらりとだけ見えた男性の大きな体躯と鋭い赤い瞳に身を怯ませた。(怒鳴られるだろうか…)と身を強張らせていると、男性は「構わねぇさ、気をつけろよ嬢ちゃん」と想像もしていなかった言葉を返した。少し驚きながら顔を上げると穏やかな笑顔を浮かべる男性の顔が目に映る。その表情にほっと胸をなでおろしながら、フィオレは再び丁寧に礼をして再び走り出す。
(いい人で良かった)
そう安堵してしまったのがいけなかった。長いローブが翻らないよういつもなら襟元を抑えながら歩くのに、ほどけた指に自由になった裾が、吹いた風がふわりと攫われる。
―その後ろ姿を、男性が見ていたとも知らずに…
*****
「-ただいま」
超番が悲鳴を上げる扉を後ろ手に閉じる。しんと静まり返った部屋にフィオレの小さな声だけが大きく響く。二人で暮らしていた時は手狭に感じていたのに、今はとても広く感じ胸に空しさが満ちる。?「おかえり」と返してくれる祖父は、もうこの部屋にはいない。
薄暗い部屋にランプを燈す。電気が通っていない訳ではないが、少女は灯を付けることを拒んだ。その理由はすぐに明白となる。
するりと肩から落ちるローブ。華奢な肩と白い肌が闇夜に露わとなる。
だが、それ以上に目を引くものが少女の身には宿っていた。
―翼。その春色の羽毛をまとった小さな羽は、少女の肌から直に生えていた。
押し込められていた窮屈さから解放されたのを喜ぶように、一度だけ翼を大きく広げまた小さくたたむと、緊張の糸が切れたかのように深く息をついた。
鳥類だけがもつその両翼が、何故自分の背にあるのかは分からない。
なぜか生まれた時から背にある。そして、この背に翼があるのは自分だけであることを、フィオレは幼い頃から理解していた。それは同時に、祖父が自分が本当の祖父でない事実も突き付けられていた。
どうして祖父が自分を育てることになったのか、
どうして両親がいないのか、
その事について終ぞ祖父に尋ねることはできなかった。
人と違う自分の事を祖父がどう思っているのか、両親が何故自分と一緒に居てくれないのか、その真実を知ることが怖かった。
"どうしてみんなには羽がないの?"
幼い頃唯一自身のことを問うた言葉。
フィオレの問いに困った様な笑顔を浮かべながら、"お前は特別だから"と、祖父は言った。
その祖父の表情でフィオレは幼いながらに感じてしまった。これは"聞いてはいけないこと"なのだと。
祖父はきっと慰めのつもりだったのだろう。けれど、その一言で自分は"みんなとは違う"のだという事を理解してしまった。
絶対に越えられない一線。どんなにみんなと一緒を望んでも、決して"其処"には交われない自分は、"異質"なのだと。それがたまらなく寂しくて優しい祖父の手を強く握った。
それからずっと羽を隠して生きてきた。祖父から"決して人に見られてはいけないよ"と、重ねられた言葉がフィオレにとって何より大事な教えだった。翼(これ)は"特別(いしつ)"だから、絶対に人にみられてはいけない。祖父と共にあった頃も、孤独(ひとり)となった今も、変わらずフィオレは約束を守り続けている。
夜が落ちた部屋の中。長い睫を震わせながら、フィオレは生前祖父が腰かけていたソファの前に立つ。そのソファに腰かける事はなくそのまま床に座り込むと、ソファの座に腕を重ねてうずくまる。それはまるで子が親に泣きつくような、ひどく幼さを思わせた。
(みんなと一緒なら、こんなに寂しい思いをしないのかな…)
"特別"なんかいらない、みんなと"同じ"がいい。
叶わぬ望みに春色の瞳から涙がこぼれた。