投棄された廃棄物が積み上げられ、ガラクタ街と呼ばれる一帯は地下の湿気を溜め込み、傍によく夜光花が咲いた。
錆びた鉄クズと残灰に溢れたこの場所には基本的に人はいない。
そんな場所で突如鳴り響いた予期せぬサイレン音に驚いた小柄な少女が転げそうになるのを食い止める、ふわりとその背に触れれば明らかに他者とは違う部位がある。
ほんの少しの確認作業に成功した男は、慌てて離れてしまった少女から名前を聞くと、フィオレ、とその音を複唱した。
フィオレの春色の瞳から見える視界には、背の高い影の背景に遠くで羽ばたく鳥たちの姿が見える、地下の空は常に鈍色、プレートを支える電波塔の向こう側へと彼らの姿はすぐにわからなくなった。
「良い名前だな」
男の声は不思議なほどよくフィオレの耳に残った、慣れない距離と誉め言葉に無垢な頬の熱は引かない。
「っありがとうございます」
「偶には散歩してみるもんだな、まさか本物の天使に会えるなんてよ」
「───え?」
"天使"という知らない言葉で呼ばれたフィーはローブの中の羽が小さく動く気配に困惑する。
にこり、と微笑んで少女の知らない少女のことを知る彼は自身をオーガスト、と名乗った、
◇
ボトルの中のラムをグラスに注ぐ、オーガストはその夜も機嫌よく酒場で酒を飲んでいた。気前よく最初にボトルを注文した常連客にカウンターの中のバーテンダーが片眉をあげる、
「早く切り上げる予定でも?」
「ハハ、察しがいいな…まぁ"あれ"が来るか来ないかは半々くらいだけどな。」
とほのめかして男がグラスを揺らすと、中の氷がカラリと泳いだ。どうやら誰かを待っているらしい。
オーガストという男の移り気で浮気なところしか見たことがないブルーは珍しいこともあるものだ、と洗ったグラスを拭く。営業を始めたばかりの酒場にはまだ人の気配が少なく、バーカウンターの中でガラスを拭きあげる音が蛇口の金具に反響してオーガストの耳にも届く。
暫くして、遠慮がちにスウィングドアが開かれると、そちらを確認したブルーはその小さな客に酒を作る手を止めた。すると、オーガストはそんな彼を見て片目を閉じ『余計なことは言うなよ』と釘を刺す。
「お前…」
「なんのことだ?」
ブードを被ったまま、店内を見回すと、その子は迷わずオーガストの方へと歩み寄って来る。
まだ少し幼さを残した顔立ちに桃色の大きな瞳、美しくはあったがそのフードから覗く容貌はオーガストよりも随分と若く見え、ブルーはふたりの似合わぬ組み合わせに片眉を上げる。
酒場にやってきた少女、フィオレは男の傍まで来ると「オーガストさん」と彼の名前を正しく呼ぶ。昼間はフードだけが外されていたミリタリーコートを二の腕まで下げたオーガストの肩には美しい花の刺青があり、それを軸にこちらに振り向いた男の含みのある笑みに異性に慣れない少女の心臓が跳ねる。
「おー来たな。マスター、嬢ちゃんにもなにか入れてやってくれよ」
「…この辺りでは見ないお嬢ちゃんだね、何か希望の飲み物はあるかい?」
オーガストが促すとフィーは誘導されるまま隣の席に腰掛ける。
「お酒は飲んだことがなくて…」
「そうなのか?じゃあ甘いものをもらうといい」
「甘いお酒があるんですか?」
ふたりの会話を聞きながら、カウンターのブルーは初めて来店してくれた彼女に、まず酒場には酒気のないものもあるのだと教えようと、カクテル用の果汁に手を伸ばすが、そうするとオーガストと目が合った。赤い目がその指先を見て口角を上げる。
「それでフィズを作ってやるんだろう?きっと美味いぜ」
つまり、それを出せ。ということだ。
少女はその意味がわからずに首を傾げているが、カクテルにおけるフィズは度数が高く回りやすい、彼女のような初心者ならまず避けるべき飲み方だった。
しかし、酒場の店主が上客の言葉に耳を傾けないわけにもいかない、それにこの少女は彼が連れてきた新しい客なのだ。
バーテンダーは言われた通りに果実酒を作り、フィオレの前に細いグラスが置かれた。量が入らない形のものを敢えて選んだのは急なアルコールで倒れぬようにという酒場のマスターとしては精一杯の気遣いだ。口を近づければ香る美味しそうな匂いとその可愛らしいオレンジ色に彼女はわかりやすく喜色を声に出す。
「とっても美味しいです!」
「気に入ってくれたのならよかったよ」
店主の朗らかな笑みにフィオレは安心感を覚える。
そこは少女にとってはまったく知らぬ場所であり、来るときも知らぬ道を合っているのかどうかわからぬまま通ってきた来たからだ。
ガラクタ街で『天使について』の知識があるらしい男性に、フィオレは自分のことを詳しく知りたいと言った。
すると、オーガストはそれ以上は語らずに、のらくらと話題を変え、彼自身がよくいるという酒場の場所だけを教えた。
そんなオーガストの今の視線は、初めて口にする果実酒に目を輝かせる大きな瞳から華奢な背中へと注がれている。その背中に小さな翼があるのを男は確かに見たが、当の彼女はあまり天使という種族を知らぬというのだ。
それが本当だとするのなら、自分が持っている情報以上のものを少女の口から得ることは難しい、ここからは手探りで彼女自身を調べていくしかない。
男のそんな考えなど露知らず、カクテルの甘い口当たりが気に入ったのか、アルコールを飲み進めていくフィオレの肌はすぐにわかりやすくほんのりと色づいた。
「こんなにお酒が美味しいなんて知りませんでした」
「クッ…そりゃ悪い味を覚えちまったな」
「悪い味…?」
酒瓶から直にグラスへと自分自身で注ぐオーガストの手元を桜色の瞳が見つめる。ちょうどボトルの中身が空になる頃合いだった。
「さて、お嬢ちゃんも来たことだし場所を変えよう」
「へ?此処でお話するんじゃないんですか?」
ぱちぱちと目を瞬かせる彼女に男はわかりやすく肩をすくめると、それ以上は喋ることなく会計をカウンターに置き、スウィングドアを通って店を出る。フィオレは置いて行かれぬように慌ててそれを追った、バーカウンターの上には二人分の酒代と空のグラスが二つ並んでいた。
「オーガストさん!」と声を掛け、追い付いた少女の耳元へと口を近づけたオーガストはそこで漸く事情を話し始めた。
「酒場は待ち合わせの場所として使っただけだ。お嬢ちゃんはよく知らねぇかもしれないが、天使ってのは知られるとまずいんだ」
天使であることを周りの人間に知られてはならない。少女は自身が育て親に隠すように育てられたことを覚えている。
「……それは、知ってます。でも、どうして…?」
「歩きながら話すぞ」
フィオレの疑問にオーガストはほんの一瞬だけ目を合わせると、姿勢を元に戻して背を向ける。夕刻が過ぎて人通りは少なくなり始めていたが、それでも商業区に近い場所で人が途切れることはない。
少女はフードを深く被りなおすとその背を追いかけた。前を行くヒールブーツがスラムに差し掛かる砂利道を軽々と歩いて行く、追うのに一生懸命になっていると、漸くフィオレとの歩幅の違いに気づいた男がゆっくりと歩くようになった。
「地下街のやつらの殆どは天使という存在すら知らない。お前の背中を見て驚きはするが、変わったものを背負っている程度にしか思わねぇ…でも憲兵は違う」
「え…」
憲兵とは、定期的に市街地を巡回をするようにプレートの上から命じられている軍人の呼称である。彼らは主に殺人や強盗といったものを含む犯罪行為を国の規定に乗っ取って取り締まり治安を守る役目を担っている。
フィオレとて巡回中の憲兵には会ったことも挨拶したこともあるのだ。それどころか、何か困ったことや変わったことははないですか?と親切に聞かれたこともある。少女はそれらすべてを彼らの善意だと信じていた。
「憲兵の任務の中には天使の回収が含まれている。見つかったら連れてかれるぜ?」
「つ、連れてかれると…どうなっちゃうんですか?」
「さぁな。知らねぇほうがいいんじゃねぇか?」
「っ」
ショックだ。でも、同時に見上げた男の背に、居住まいを変えてまでフィオレの羽を隠そうとした祖父の姿を重ねる。
あの背中はなんにも知らない自分をずっと連れて行かれないようにと、手を引いてくれていたのだ。
暫くすると、トタン屋根と鉄筋が目につき始め、住宅などが軒を連ねる景色へと変わっていく。男は後方の少女が足を止めた気配に振り返った。どれほどオーガストがゆっくり歩いても、少女の足取りが遅い。
おそらく口にした酒がまわったのだろう、フィオレの細い肩がふらりと揺れた。
「おい大丈夫かよ」
「はい…」
オーガストは少女に近づくと支えるように背中に触れる。
コート越しにする柔らかな羽の感触が彼女が確かにヒトではないことを伝えると、男はゆっくりと目を細める。
「俺の家はもうすぐそこだ、休んでいけよ」
「…すいません。ご迷惑を」
「なんてことねぇさ」
だってその為の酒だったのだから、とは言わずに薄く笑った。