2011/1/11 イタリア4日目。朝食前にユダヤ人居住区へ。
泊まったホテル。朝の6時半。朝食の時間までに一人でユダヤ人居留区を見に行く
ホテルの前の運河(Rio di Cannaregio)にあるバポレット乗り場
国立労働銀行の支店。2006年にBNPパリバに吸収。このHP作成時にはこの支店無
ミセリコルディア川
旧ユダヤ街
カンポデルゲットーノボからカンナレージョ方向に向かう出口橋(Ponte de Gheto Novo)のカンナレージョ側の建物の壁の案内板("Nizioleto"ニジオレトという)
ユダヤ街のsotoportego(建物の下を通る通路)
Chiesa Parrocchiale di Sant'Alvise(ポロキア・聖アルビス教会)
ここをくぐり抜けてユダヤ街に入る
右の建物。ヴェネツィアのユダヤ人は1000年前から住み、14世紀後半のゲットーの設立まで様々な制限を受けたが、市内のどこにでも住むことができた。ゲットーとは「金属を溶かす」の意で実際に鋳造所があり、ゲットーヴェッキオとゲットーヌオーヴォの2つの部分に分かれていた。15世紀の初めに鋳造所は機能しなくなり、ゲットー・ヌオーヴォの地域は、賃貸住宅や教会を含む住宅団地を建設することを意図したダ・ブロロ兄弟に委ねられた
13世紀から16世紀にかけ、ヨーロッパ全土でユダヤ人は迫害され追い出された。その多くはヴェネツィアに避難した。16世紀の初めに、カンブレー同盟の戦争でより多くのユダヤ人を本土から移り住んだ。16世紀には、出身ごとに、様々なシナゴーグが建設された。グレート・ジャーマン・スクール、カントン・スクール)、レバント・スクール、スペイン語学校などである。徐々にコミュニティは統合され、ベネチア政府は、医学、貸金などキリスト教徒が宗教上の理由によって妨げられた活動をユダヤ人に認めた。ユダヤ人コミュニティは急激に成長し、キリスト教の住民の一部に疑念と懸念を呼び起こした。1516年3月29日に上院は全てのユダヤ人が新ゲットーの地域に必ず住むことを決めた。
ダ・ブロロの紋章を持つ井戸。奥がホロコースト記念碑。<前の続き>ヨーロッパ中からの移民で建物の垂直拡張に加え、2回ゲットーは拡大した。1541年の追加はイベリア半島とオスマン帝国から来たレバント系ユダヤのために、1633年にはゲットーヴェッキオ(Ghetto Vecchio)が開かれた。ベネチアにユダヤ人が集まったのはベネチア共和国が信教の自由を保障し、かつ国民の多くが宗教に無関心だったといわれる。
ユダヤ人収容所へ向かうナチスの移送列車が描かれている。
右がゲットーの地図、オレンジがGhetto Nuovo(新ゲットー)、緑がGhetto Vecchio(古ゲットー)
24時間営業の海鮮料理が美味しいレストラン
運河に面した露店
右は眼鏡屋(ottica alle guglie)
左下のホテルから反時計周り見学に30分ぐらいでユダヤ街を見学