12時前にサン・マルコ寺院を出て、ベネチアの目抜き通りを歩いた。
コッレール博物館(テオドール・コッレールという貴族の個人所有品がコレクションの元。長男ではない彼は、市民のために働かなければならない貴族の義務から比較的自由だったため、趣味である美術品収集に熱中。1830年に没すると、ヴェネチィア市に遺贈。ベネチアには15の国立・市立博物館があるが、テオドールのコレクションはその核となる重要なもの。コレクションの根幹はベッリーニ兄弟の作品。彼らの父、ヤコポ・ベッリーニも画家でビザンチンの影響が強いのに対し、息子たちの絵は写実的な自然な遠近法による画面が特徴。また、カルパッチョによる「二人の貴婦人」も目玉の一つ。そのほか、ブリュージュ、ブリュッセルなどとの交易により持ち込まれたフランドル絵画などもある)
左の写真の奥。右隣がルイヴィトン。その間の通りがサンモイゼ教会につながる通り(Salizada S.Miseサリタ・サン・モイゼ)で狭い路地にブランド店が並ぶ。
このHP作成時(2021/9)はDiorになっている
コッレール博物館1階にある。TC(旅行小切手)→現金の手数料がこの旅行で最も安かった。HP作成時も健在。
両替の前から北方向。右はコッレール博物館
このHP作成時(2021/9)はDiorになっている
東からブルガリ⇒カルティエ⇒ミウミウと並ぶ
2月末から3月初めまでの2週間行われる。世界三大カーニバルの一つ。始まりはアクイレイアの総主教との抗争にヴェネツィアが勝利した1162年。人々はサン・マルコ広場に集い、踊り始め、仮面をつけることも流行。階級ごとに服や振る舞い方、話す相手などが制限されていた当時、カーニバル期間のみ仮面をかぶり、異なる階級や異なる性別の服を着て、匿名の市民となり行動の自由を満喫。
左からボッティガ・ベネタ⇒ベルサーチ⇒プラダ⇒ミウミウのショップが並ぶ。HP作成時は空店舗⇒ベルサーチ⇒プラダ⇒ボッティガ・ベネタに変わっている
サンモイゼ教会、元の建物は8世紀後半にアルティガーリとスコパリ族によって建てられ、当初はサン・ヴィットーレにちなんで命名された。947年に教会はモイゼ・ヴァリエによって再建され、そののち火災の後、1105年とは1632年に再建された。ファサードは、ヴィンチェンツォ(30,000ダキャット)とジローラモ・フィニ(60,000ダキャット)の兄弟の資金のおかげで1668年に建てられました。このプロジェクトは、当時の教区司祭アンドレア[2]の兄弟であるパドワン・アレッサンドロ・トレミニョンによるもの。ファサードの中央はヴィンチェンツォ・フィーニ記念碑、左はジローラモ・フィニ右はヴィンチェンツォ・フィニの碑
サンモイゼ橋から南側。大運河(Grand Canal)につながる
Bauer Hotelの向かいの建物の角
この通りは「3月22日通り」( Calle largo XXII Marzo)と言われる。 長年にわたりベネチアはオーストリアの支配下にあったが1848/3/22に反乱を起こし、ダニエレ・マニンとニコラ・トマセオの2人の愛国者の釈放を要求- オーストリア人は都市から追放され、ヴェネツィアは再びマニン大統領と共に共和国を宣言。しかしわずか16ヶ月後にオーストリアに降伏。しかし1848年3月22日のオーストリア人の追放はヴェネツィアの文化的ルネッサンスのベースとなった。1867年にイタリア王国に併合され、1881年に古いサンモイゼ通りが古い建物を取り壊し広がり、この通りもカレラルガXXIIマルゾになった。
サンモイゼ橋を渡った南側にフェラガモ⇒グッチ⇒1軒はさんでブルガリが並ぶ
サンモイゼ橋から西に100mの4つ星ホテル。1階のテナントSermoneta GlovesはCalle Larga XXII Marzo, 2398から西のCalle delle Ostreghe,2360に移転,していた
デレオストレゲ橋、煉瓦と石の橋でラルボロ川にかかる。サンモイゼ橋から西に200m。
サンタ・マリア・デル・ジッリョ教会。入口の4体の像は左からジョヴァンニ・マリア・バルバロ、マリノ・バルバロ 、フランチェスコ・バルバロ、カルロ・バルバロ。バルバロ家は将軍と政治家一族
北方向
小さなお菓子屋。Campiello de la feltrina
北側を望む
南側
左の手前の建物にある道標