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その部屋を訪れることになったのは、居住者であるグラフィック・デザイナーへのインタビューの約束をとりつけることができたからであった。青山の骨董通り沿いに建つヴィンテージマンションの1室が、そのグラフィック・デザイナーのオフィスとしてリノベーションされていた。これから話すのは、その部屋で体験した不思議な感覚についてである。
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エレベーターから出ると両側に部屋が並ぶ仄暗い廊下が続いていた。部屋番号を確認し、インターホンを押すと、すぐに扉が開かれ家主が出迎えてくれた。さっそくなかに入れてもらったのだが、窓からの光によって室内がとても白く明るく感じたことを覚えている。実際には、廊下や玄関口の暗さとの対比によってそれだけ明るく見えたのであって、すぐに目は馴れ、部屋の細部や窓の外の風景がよく見えるようになってきた。
窓の外には海外ブランドのフラッグシップとしてデザインされた建築物が立ち並ぶ様子が見える。いつもとは違う高さ、違う方向から見るそれらの建物の姿は珍しく、まじまじと見つめながら部屋の奥へ進んでいくと、不思議なことに、奥に進むにつれて建物が大きくなっていくような気がした。その感覚を家主に話すと、それは脳が窓のフレームの大きさとの比較によってその建物の大きさを認識しているからだと教えてくれた。つまり、視界において窓の占める領域が大きくなっていく速度に対して、建物の大きさはほとんど変わらないからである。余所の部屋にましてそうした感覚が強く現れるのは、ちょうど目線が中心にくるような高さに部屋の端から端にわたって連続窓が設置され、フレーミングされた外の情景を部屋の視覚的な中央に据えているからなのだろう。
窓の下には、窓と同じ幅をもったベンチが据えつけられており、その上部、つまり窓との間の壁には背もたれが貼りつけられていた。正方形の連続で形成されるベンチと横長の長方形の背もたれ、そして窓によって切り取られた水平の情景が、元々はそれぞれ別の場所を漂っていたにもかかわらず、一時的にすっと、ひとところに落ち着いたかのような顔をして壁際に整列しているのが面白い。インタビュー中、「動かないはずのものが動く」のがコンピューター・グラフィックの醍醐味であるという話を聞きながら、「動きだしそうな家具」の意味について少しばかり気を遣っていた。
インタビューが終わり、部屋を紹介してもらう。(インタビュー中は窓の方に向かって話を聞いていたので、部屋の反対側、つまり入口の方についてはじっくり見れていなかった。)振り返るとまず、部屋を横切る白く塗装された梁が目に入る。そもそもこの部屋の空間はスケルトンに最小限の造作を上書きすることでつくられており、打ち放しコンクリートがむき出しになった天井や玄関と、白く平滑な板で構成された壁が対比的に用いられることで、即物的な印象をもった空間が形成されている。対比によって打ち放しコンクリートの天井や玄関は透明化し、その存在が見えなくなる一方で、梁だけが白く塗装されることによってその姿を露にしていた。この部屋のなかで唯一荒々しいテクスチャの梁はその大きさゆえに奇妙な存在感を放っていたのである。
梁とならぶようにしてこの部屋の印象をかたちづくっていたのが、戸棚の正面や床と壁の間、あるいは巾木と壁の間などに設けられている幅数ミリメートルのニッチである。それらのニッチは太く強調されており、その隙間の存在が壁や扉に「動きだしそうな」印象を付加していた。さきほどの窓際の家具のように、動いていたものが落ち着いて、いつでも再び動きだしそうな状態に見えるのである。隙間があって揺れ動きそう、あるいは動く余地がありそうに見えることがこうした印象を生み出していると考えられる。これらのような「見かけの可動性」(あるいはコーリン・ロウに習って「虚の可動性」とするか)がこの部屋のいささか不安定でありながらも夢見心地な空気感を醸し出しているといえるのではないだろうか。まさに、コンピューター・グラフィックにおいて描かれるように、窓枠や立方体、さまざまな形状をもつ板状の物質が、コンクリートのスケルトンのなかに集まっては、瞬時に部屋のようなものをかたちづくり、そしてまた散らばっていくといった一連の流れのなかの微持続を可視化したような部屋であった。
この部屋のもつ印象を言葉にしようとしているうちに、家具が特定の/明確なオブジェクトであるためにその前提として設けれる壁や床、他の家具との距離や、そして意識的に必要以上の幅をもたされたニッチが、家具や造作に「見かけの可動性」をもたらすということを仮説的に論じてみたが、果たしてそうした浮遊感のある夢見心地な空気感だけがこの部屋に感じた印象だっただろうか。いや、実際のところ頭に最初に浮かんだ印象は、「石切り場っぽいな」だったのではないか。夢見心地なアンビエンスを瞬間的に凌駕して現れた「石切り場」という印象は、白く塗装された荒々しい梁と壁一面の戸棚や足元に刻まれた多数のニッチが並存することによって喚起された記憶のようなものだったのではないだろうか。しかし、その印象は強烈でありながらもすぐに消えてしまったため、その場においてはそれ以上深く考えることができなかった。わたしたちはインタビューの礼を言ってその部屋をあとにした。
後日、この部屋で感じた不思議な感覚について、いくばくかの確証を得るために栃木県の大谷石採石場跡を訪れた。地下につくられた人工の巨大な空間として一般に人気のある場所であるが、わたしが見たかったのは石を切り出したあとに残る刃物の痕であった。そして、壁一面に刻まれた直線状の痕を見たとき、やはりあの部屋で感じた印象と同じ印象を抱いたのである。ところが、よく見ていると、それら2つの空間は似ても似つかないものであることが明らかであった。大谷石とコンクリートのテクスチャ、切痕とニッチは、それぞれは似通っているが、それらが組み合わさってできる視覚的なイメージはその構成からしてまったく異なるものであった。つまり、その見た目が似ていたから同じ印象を抱いたというわけではなかったのである。
憶測にすぎないが、このような印象の錯誤は、複数の身体感覚が並存することによって生じたものではないだろうか。つまり、視覚的なイメージではなく、石やコンクリートのテクスチャ、そして切痕やニッチ、それぞれに対する触覚的な感覚が脳のなかで結びつくことによって、瞬間的に同じ組み合わせの記憶を呼び起こしたのだと考えられる。しかし、視覚的なイメージをともなう記憶ではないため、その後部屋の様子をより詳しく見ていくなかで、視覚的なイメージによるところが多い「夢見心地な印象」に上書きされたのだろう。人間の感覚のなかでもっとも強いのは視覚だからだ。おそらく、ここでもっとも興味深いのは、視覚から得た情報によって引き起こされた触覚的な感覚が混ざり合うことで1つの印象を想起させたということである。
まず、視覚情報が触覚に影響を与えるということは、「ミラーニューロン」という言葉によってよく知られており、多くの心理学的実験や脳波研究によってその実態が明らかにされている。わたしたちは目で見たものを実際に自分の身に起きたこととして追体験できるのだ。虫がうごめく穴のなかに手を差し込む映像を見ると背筋がぞわっとしたり、人がくすぐられているのを見たり、包丁で指を切っているのを見ると、自分もくすぐったくなったり、指先に痛みを感じたりするのが、ミラーニューロンが働いている証拠であるという。アルゼンチンの作家、ルーチョ・フォンタナが制作した、カンバスをナイフで切り裂き、複数の裂け目をいれた《空間概念》という有名な一連の作品があるが、この作品はわたしたちのなかに紙や布を切る感覚を引き起こし、人によっては自身の肌が切られるような感覚を与えるだろう。また、ミラーニューロンは実際に見なくとも、頭のなかでその情景をイメージするだけでも働くが、それは「イメージ」する際にすでに視覚的な「イメージ」を脳のなかに結ぶからだ。
つまるところ、この部屋で瞬間的に抱いた「石切場っぽい」印象は、(白く塗装されて存在感を露にした)打ち放しコンクリートの梁の荒々しいテクスチャに対して感じた、ざらざらした手触りと、同じく壁一面の戸棚や足元に刻まれた多数のニッチに対して感じた、切るという行為に付随する圧力と摩擦の感覚が脳のなかで自然と結びついたことによって、かつてどこかの石切り場で感じた「ざらざらした」「切堀」の触覚を呼び起こし、生じたのである。このようにして共有される空間の印象は、視覚イメージの直喩的な再生産とも、記号化されたオブジェクトを用いて試みられるナラティブの寓喩的な共有とも異なるものである。異なる場所、異なる時に経験した印象が、思考や知識を必要とせずに、触覚の組み合わせのみによって瞬間的に共有されるこの現象を仮に「身体的寓喩の並置」と呼んでみたい。触覚の記憶は視覚的なイメージよりも弱く、ユニークではないので、単独では特定の印象を呼び起こすことはないだろう。複数の触覚を同時に経験することによって、1つの印象が像を結ぶのである。その組み合わせは、見る人が何を経験してきたかによって異なるだろうし、その発現の強度も人それぞれだろう。「身体的寓喩の並置」は空間の印象を構築的につくり上げる論理的な方法であると同時に、その不確定性と不特定性によって多くの印象をつくり出すことのできる興味深い事象でもあるのだ。
2023年1月7日