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その住宅は軽井沢駅から車で10分程度の森のなかに建っていた。訪れたのは3月中旬の天気の不安定な頃で、数日前に降った大雪が道路の端にまだ残っていた。いまだ芽吹かない樹々と雪の白さのなかに、長い冬のあいだ主人の帰りを待っていたかのようなその佇まいが印象に残っている。
道路に沿って建つこの住宅は、森の奥にひっそりと建つような別荘とは違った都市的な雰囲気をもっていた。これが軽井沢らしさなのかもしれないなどと考えながら、さっぱりとした玄関アプローチを上り、建物中程のポーチから室内に入った。
ポーチは玄関を兼ねていて、下足を脱ぎ、扉を開けるとすぐ目の前に広々としたホールが現れる。パンチングメタルの引き戸によって内外を区切ることはできるが、ポーチは半屋外であり、室内に土間はない。室内の土間で靴を脱ぐという行為を簡略化した、その「そっけなさ」こそがこの住宅のもつ美徳であるということを理解したのは暫く経ってからのことであった。
床一面に敷かれたオーク材が室内全体の空間を印象づけていた。幅55ミリメートルの細長い板材が、部屋をまたいで一方向に広がる。帯鋸目のざらつきが生み出す心地よいリズムと全体の連続性、そして柔らかな色彩が心象風景の砂浜を連想させた。
砂が入りこんだ海辺のビーチハウスのようにおおらかで明るく、開放的であると同時に少し物憂げで郷愁的な空間。
床だけではなく、あらゆる部材や什器がそう感じさせていることに気がついた。それはまるで舞台のような空間であった。
別荘は理想の住宅である。
日常の重たく動かしがたい生活や荷物は本邸に残したまま、身一つで来ることのできる場所。だけれども、完全には切り離されず、日常の生活の延長上にある身近な場所。軽井沢とは東京の居住者にとって都市の延長のような場所であった。
幼い頃の多くの時間を軽井沢で過ごし育ったクライアントにとって、軽井沢はここでの友達と遊べる場所であり、銀座通りを歩けば常に見知った顔と出会うといったような、狭く親密なコミュニティであった。連絡をとりあわずとも、車が停まっていたり、電気がついていたりすれば、ふらりと庭先に顔を出して、遊ぼうよと言えるような雰囲気が醸成されていた。
そうした気配をまとい、ふらりと訪ねることのしやすい建築をデザインすること、また、大勢の人間が一堂に集うことができるような場所であることがクライアントの依頼であった。それは自己内省に浸ったり、家族だけで親密に過ごしたりすることを目的とするようなものではなく、上記のようなかつての軽井沢での生活を再び可能にするような住宅であった。
別荘は理想の住宅である。それは建築家にとっても同じだろう。
機能は最小限で構わないし、収納も多くは求められない。騒音や視線、日射に関する複雑な問題もない。それでいて都市よりもはるかに大きな敷地が与えられることがほとんどだ。
この敷地の場合、その大きさは間口の大きさとして表れている。それに対する建築家の考えはいたってシンプルであった。大きい間口をあえて分割することはせず、建物全体を道路側に寄せ、その背後にできるだけ大きく空地を確保し、内庭にする。
幅が広く奥行きの浅い建築。
これが別荘というビルディングタイプに対して建築家が出した回答であり、それは片流れ屋根の倉庫のようなボリュームで立ち上げられている。こうしたモノコックな形式を選択した理由は、大きな気積をもつ、おおらかな室内空間をつくるためだろう。そして、その大きな気積をできる限り分節しないことを最優先にしたことが、その明解なプランニングから読み取れる。
正面向かって右が木造軸組みによる二層構造、左が集成材梁による一層吹き抜けの大空間というように、2つの構造形式によってこの建築は構成されている。全体の3分の1ほどを占める二層部分に主人の寝室や、バスルーム、納戸、トイレ、ゲストルーム、倉庫をコンパクトにまとめあげ、それ以外の大空間はリビング(LDK)とホールのみにと贅沢に振り分けている。
リビングとホールは大きな円弧の壁によって仕切られており、リビングは吹き抜け、ホールには少し高めに天井が張られ、その上には奇妙な屋根裏空間が設けられているのであった。
この住宅で一番好きな場所はと問われたら、その答えは人それぞれだろう。大きな吹き抜けが心地よいリビングだと答える人もいるだろうし、別の人は黄色のタイルに囲まれたドリームスケープな雰囲気のバスルームが好きだと答えるかもしれない。
しかし、もっとも重要な空間はと問われたら、それはホールだと言い切ることができよう。このホールは、リビングと二層部分、あるいは外と内庭をつなぐ屋内の通り道であるにもかかわらず、まるで外部と連続する空間のように見えるのである。
その要因として、リビング側から見ると顕著であるが、大きな室内空間に筒状の空間が差し込まれたような空間構成であり、さらに内庭側にホール内と同じ幅でデッキが連続していること、そして、室内に入ったときに感じた「そっけなさ」がそれであり、デッキとのあいだにもいえることであるが、家の外とホールとのあいだに空間的/儀礼的隔たりがほとんどないこと、さらに、内庭側と表道路側の2つの大きな窓を通して入りこむ光がホール内を柔らかく照らしていることが考えられる。
そうした室内における外部性、そしてその外部性をもつ空間と内部としてのリビングとのあいだに生まれる見る見られるの関係性、その両者は「舞台」がもつ空間性に近似している。
くわえて、白く塗られた室内に離散的に配置された扉や螺旋階段、天井の丸や菱形の穴、そして円柱。それらの抽象度の高い物体たちが、まるで舞台装置のように、この空間を「どこか」であるように演出している。その見立ては人によって異なるだろうが、わたしにはそれが砂浜のように視えたのだ。
ホールとリビングを不完全に仕切る弧状の壁がホールの空間性をさらに際立たせている。無造作に置かれた書割のような壁面(シルバー塗装がその虚構性を強調している)の四分円アーチの開口から覗き見るホールは、演者不在の舞台のようであると同時に、「何か」が存在しているかのような気配を漂わせていた。その気配を舞台のような見立ての空間がもつ、見るもののイメージを喚起する力によるものとするのは飛躍が過ぎるだろうか。
ホール/廊下というものは部屋と部屋をつなぐものとして理解されているが、伝統的な日本家屋や洋館においては移動という機能に加えて、演出的なしつらえがみられるものも多く、そうした廊下には「何か」が在るような気配がするものだ。
この住宅のホールは、伝統的な仕方の演出とは異なる、より抽象的な記号の見立てや外部性によって、舞台としての空間性が強調されている。その結果、わたしに砂浜の風景を幻視させ、その心を別の場所へと誘うわけであるが、そうした「どこか別の場所」が家の中心に位置し、昼を過ごす場所と夜を過ごす場所、あるいは外と内庭をつなぐ機能を担っているということが、この住宅の1つの大きな特徴であるといえるだろう。
この住宅にはもう1つ変わった空間がある。それはホールの天井裏につくられた奇妙な屋根裏空間である。大人は立って歩くことのできない天井高の空間がホールの上に広がっており、そしてそれは興味深いことに、リビングと二層部分2階のゲストルームから見ることができるようになっている。
先だって、リビングとホールのあいだの弧状の壁を不完全な仕切りといったのは、それが天井まで届くものではないからであった。壁の上方には傾斜した天井とのあいだに隙間があいており、リビング側からその屋根裏の空間を見ることができる。
壁の高さは3.6メートル以上あるため、普通に暮らしているなかでこの屋根裏の空間に意識的に目線を向けることはしないし、意識化されず無意識的に認知から外すだろうとも予想される。しかし、それは見えていないと同時に見えてもいるのだ。
人間は、意識している視覚情報よりも多くの情報を周辺視野やほかの四感において捉え、無意識化で統合し、認識している。そのことは、この住宅のリビングの吹き抜けに設けられたハイサイドライトから見える空が、目視されずともリビングの空気感の醸成に良い影響を与えているといえば伝わるだろう。
一方で、この屋根裏の空間については説明が難しい。単純な快適さとは指標の異なるものだからだ。前述のホールから連想すれば、そこは照明や昇降装置が吊り下げられた舞台上方の懐のような空間であり、積極的に見ようとはしないが、常にその存在を目の端に感じる全体像の掴めない「何か」である。
これはかつての古く大きな屋敷にはつきものだった廊下の先の蔵や厠、あるいは小屋裏の暗がりと少し似ている。そうした空間に対して恐れと好奇心を抱き、「何か」を視ることもあっただろう。「何か」を視るかもしれないという期待は空間の認識に方向性と奥行きを与えるのである。現代の住宅からはすっかり失われつつあるこのような空間性を仮に「屋根裏の幽霊」とでも名づけておこう。そしてさらに面白いことに、この住宅では屋根裏で過ごすことが曖昧に、やや積極的に認められている。
小屋裏へは二層部分2階のゲストルームから倉庫を通ってアクセスすることが可能である。手摺りのない深紅の絨毯が敷かれたその空間からはまるで自分自身が文字通り「屋根裏の幽霊」になったかのようにリビング全体を見下ろすことができる。
これは舞台の上空から演者と観客を見るような関係性であり、そうした俯瞰する視点の存在はまさに演劇的である。
つまるところ、「どこか」や「何か」といった他者をその内部にもつことのできる空間のゆとり。それこそが真の意味でのおおらかさなのだと思わせる空間性をこの住宅はもっている。
おおらかさのなかに存在することのできる他者の視点。それは、幽霊の眼か樹々のあいだを泳ぐ鳥の眼か。鳥になった気持ちで俯瞰して見てみれば、この住宅と周囲の森との関係、そしてそのなかで発する気配をしっかりと感じることができるだろう。
2025年3月12日