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建築家 原広司へのロングインタビュー
このテキストは、2021年6月28日にアトリエ・ファイ建築研究所にて行われたインタビューを書き起こしたものである。その生い立ちから死についてまで、3時間にわたる語りの記録である。
1945年は小学校3年生の年で、その夏に空襲がありました。僕は川崎に住んでいて、その時は2年生でした。小学校はほとんど空っぽ。1年生の時はまだクラスのみんなもいたし、先生もいたけど、それから1年経ったらば、年上のみんなは疎開してしまいました。3年生以上は学校にいないんで、僕が2年生になった時は学校のなかで一番年上だったんだよね。その時に時代のなにか区切りがあって。すごく厳しい、僕にとっては一番酷い変化があったのは、その空襲のことと終戦のことでした。
川崎の京浜急行の近くに住んでいたんだけど、その玄関の横の下駄箱の下が掘ってあってさ。毎晩そこに入るのね。その防空壕でなにか脅かされたっていうかな、危ないというか。雨が降ったり、それは凄い経験でね。だけども結局ね、両親に非常に感謝しているんだけどさ、空襲の3日くらい前から僕ら兄弟3人は、これ以上は危ない、待てないってね、長野県に行くんです。中央線で新宿から、もちろん電車の車両にはガラス窓なんて1つもなくて、子どもたちはみんな窓から入れてもらって、あなたたちはとにかく田舎へ帰りなさいと。おふくろも父親も長野県出身だから東京から出してくれたのね。だから、直接は空襲に遭わなかったんです。いつも、今日はあそこが燃えているなっていう状態だったんだけれども、それに遭っていたらもう命はなかった。
それから戦争が終わって、これはもうほんとに大変だった。なにが大変かって、飢餓。食べるものがない。食べるものがないっていうのは、もうはじめから、川崎にいた時から始まっていました。その厳しさは小学校の間ずっとそうでしたね。3年生から6年生の3年間半くらい、非常に食べるものがなかった。逃げていった人が世の中のものをみんな食べちゃってね。子どもだから捕るものもないので、カエルがやっぱり一番よかったですね。トンボで捕れる。トンボを捕まえて、田んぼに出すと飛ぶように早く捕れるわけです。それは食料源としてかなり有力だったね。ここ〔アトリエ・ファイがある東京都渋谷区鉢山町〕にも時々カエルがいるんだけど、わが友よという感じなんだけどさ。
それで、そのことが非常にいろんなことに影響していて、たとえばね、僕は今でもね、朝まで起きてるんですよ。夜が不安なんですね。夜というのが非常に不安だから、夜はどちらかといえば起きている方がいいんじゃないかみたいな。で、朝になったら安心して寝る。建築をやっているせいもあると思いますけれどもね。飢餓の問題とか空襲の問題とか、ガキのうちの影響はすごい強いと思いますね。その時に行った所が、育った所が長野県の飯田で、自然がすごい良くて。天竜川の谷で育ったから、原理的に、なんか谷という概念がある意味すごい重要なんじゃないかって。
それで東京大学に入ったらですね、田舎から出てきた、都会に戻ってきたと、直感的に感じました。そう、僕はいつも話すんだけどさ、川崎に小美屋というアパートがありまして。今もあると思います〔編注:1996年に閉業〕。そのデパートがね、唯一エレベーターのある5階建ての建物だったんですよ。エレベーターがただ1つあった。そこでかくれんぼとか鬼ごっことか、みんな遊んでたわけ。それが自然にとって代わるわけですけどね。だけど、なにかもう一回懐かしいとこに帰ってきたなっていう。東京に帰ってきた。そう思いました。
そうして、どうしようもない貧乏なんですよね。父親が洋服の仕立て人なんですが、仕事がなくなってね。家族はあとみんな女ばっかりだっていうことで、どうやって生きればいいのかっていうのがいつも課題で、アルバイトばっかりしてたっていう。なんていうか、とりえは勉強ができるということだったから、いろんなとこへ教えに行ってさ、下級生とかに教えたりだとかして生活していたんですね。貧困というのはどうしようもなかったですね。なにしろね、大学に行っても家庭教師のアルバイトばっかりだった。
なぜ建築学科に行ったのか。大学の教養学部に入って1年半経つとなにか方向を決めなくちゃならないですよね。僕はいつも芸術寄りの話をしていました。元々はね、小さい時には数学者になると思ってたけれども、芸術も同時に好きだった。建築の芸術の話はしていなかったけれど、文学とか音楽とかの話をしていると、そんなに芸術の話をするならば、お前は建築をやれって、駒場寮のみんなに言われて、そう言うなら、なにか建築というものは良いのかもしれないと。だけど、田舎にいたから建築ってあまりよく知らなくってさ。だけども丹下さん〔丹下健三〕が出てきてわかったんですよね。ああいい人だなあ、うまいことやるなあって。それで建築に行きました。
ところがね、丹下研で卒業論文を書こうとしたらね、そうしたらば、丹下先生は、都市の論文を書くから手伝いに来てくださいと言うわけです。僕は丹下系列には入っていないと思いますけれども、実は学生の頃ね、毎日丹下さんのうちに通っていたの。ところがね、僕は都市じゃなしに建築をやりたいってことで内田先生〔内田祥哉〕の所へ行くってことになる。これが1つの大きなことになるわけです。
もう1つはね、成城の丹下邸に通っていて、もうこんな美しい建築はないと思った。ほんとに綺麗だった。美しい。すごいほんとに綺麗な。それがまた面白くってね。僕は飯田の美術館ってのを建てているんですが、その美術館を作っている時にね、柳田國男の世田谷にあった書斎を、僕の先輩の飯田市の市長と一緒にもらいに行くのよ。いただけませんかって、その書斎をね。結果として、良かろうということになったんだけれども、それで驚いたのがさ、実はその前がね、丹下さんのうちだったのよ。それでなるほど近いもんだなぁと、そう思ったけどね。丹下邸っていうのはほんとに綺麗なうちだったんですね。
まあ若い時だからね、僕は丹下批評なんかを書いたりしたけれども、丹下さんはすごくいい先生でね、みんながいろんな建物を建てるたびにあれは良かった、なんとかって、いちいち声をかけてくれる、話をしてくれるような仲だったってことを話さないと僕と丹下さんとの関係はわからない。
僕の先生はもちろん内田先生ですよ。わたくしのほんとの先生ですけれども、基本的には建築をやるということに関していうと丹下さんの深い影響があった。丹下さんは煙草の吸い方がすごくて、ピースを缶でもっててね、これを毎日吸っちゃうんだよ。もう、1缶とか2缶とか吸う。だけどなんにも。ただ火をつけるだけなんだよ。火が何本か燃えてたりなんかしてね。だけど、丹下さんというのは親切な人でね。学生に早くやれなんてことは絶対に言わないんですよ。やれじゃなくて、やっていただけますか、とかさ、やってくださいますかとか。そういうことをおっしゃる方でした。すごい楽しい時間でした。丹下先生はいい先生だった。そういう意味で、建築の広い意味での先生だったと。建築家らしいっていうことでは、丹下さんの影響ってのがやっぱり非常に強いわけですよね。のちになって磯崎さんから聞いたり、いろんな先輩から聞いたりしたことを合わせても、そういうことを言っておいた方がいいんじゃないかなと思うんだけどね。
学部を1959年に卒業しました。それは安保の年なんですね。60年安保という日米安保条約の締結の年で、僕はアルバイトとデモンストレーションで時間がなんにもないわけよ。建築どころじゃいなっていうことはないけれども、正直よくわかんなかった。そうしているうちに大学院生になりましたね。僕は非常に貧しかったけどね、授業料なんてのは全部免除してもらえるから一度も払ったことがありませんでした。
大学院の修士課程に入ってね、内田先生のとこで建築のことをやらなくちゃいけないと思ってた。アメリカやヨーロッパから近代化に関する情報がいろいろ入ってくる。内田先生は近代化を進めた先生だから、資料が全部入ってくるわけだよ。その入ってきた資料を翻訳する仕事があった。内田先生は、アルバイトをしなくて済むから翻訳をやれと。それで僕は建築のことを担当して、英語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、それくらいまで、あっているのかあっていないのか、ほんとわかんないんだけど、将来の近代化のために資料が入ってくるから、一生懸命勉強しましたね。
だけども、それは日本語でこう言うんだと、たとえば建築の英語がこれで、フランス語がこれで、ドイツ語がこれで、日本語だとこうだというのを、最後は内田先生が決めるわけですけれどもね、それでいいんじゃないかなみたいな話で、翻訳を通してどんどん近代化が進んでいったわけです。たとえば、アルミニウム。アルミニウムってのはね、やっぱり近代化のシンボルだったわけですよね。それまではスチールサッシュ。丹下さんなんかは全部自分でスチールサッシュを作っていたわけだけれども、やっぱりすぐ錆びて動かなくなってしまうわけですよ。それからガラスです。ガラスは昔からあったけれども、なにしろ近代建築になったらガラスが大きくなるわけ。サッシュ、ガラス、これが一番大きな変化ですね。要するに窓が開くから。シポレックス、ALCは安くて今でもよく使う。それから軽量鉄骨とか。薄くて軽い軽量の鉄骨も重要だった。
それから、内田先生は30から40のコミッティーの長だったので、おそらく彼が寸法とかを決めていました。フィボナッチ数列を使ったやつを内田先生は作るんだけども、それもなにか寸法を決めるという側面が強かったですね。そのうちに防水材とか塗料にすごいものが出てくる。ウレタンが最後に出てくるけれども、その前にもいろんなものが出てくるじゃないですか。池辺さんが使った積面スレートのようなものも。内田研にいた時には、なにかって言うと、近代化のそういう基礎的な知識を仕入れていました。のちに近代化のかたちがちょっと違うんじゃないの、違ってきたんじゃないのっていうことが出てきます。内田先生が進めてきた近代化というものはまさに今の日本の状態を招いた。まあ1990年代くらいまでに全部終わりましたが、そこでの近代化というのは夢中になって近代化をする時の非常にオーソドックスな意味での近代化だよね。
それで僕らが、ちょっと違うんじゃないのと。近代化でストレートに進むっていうことに対して、これはどうも違うんじゃないかってふうに思ってた。内田先生とは同じ鼠年で12年違うんですけれども、10年違うとそれぐらい差がありますね。内田先生の世代は、とにかくどんなことを考えようが近代化を突き進めなくちゃ駄目なんだということで進んでいく人たち。その人たちの世代の後ですから、ちょっと待てよというようなことを考えていたわけですね。
それから70年安保。ちょうど世界のものすごいカルチュラル・レボリューションが伝わってきてて、僕ははじめ東洋大学で助教授にしてもらって5年いたんですけどね、それから東大に戻ってくるんですけれども、その時が1969年ですごい大騒ぎだった。東大の安田講堂がみんな占拠されてバリケードになって、ものすごい大変な状況になっているわけですね。そういう状態の時に、僕は『建築に何が可能か』を書いていた※1。
僕は学生からバリケードのなかに呼ばれてたんだよね。それでね、僕は絶対に政治家ってのを信用しちゃいけないってのを思ったんだよ。その経験で一番知ったのはそれですよ。戦争ってのは絶対に飢餓を生み出す。だからその何が問題かっていうと、どうして生きるかっていうか。つまり彼ら若者たちがわれわれに突き付けた質問はどういうことかっていうと、「あなたは人間か?」っていうことだった。これはもちろん「イエス」だよね。それで「建築家か?」って。それももちろん「イエス」だ。それで「どちらが重要なんだ?人間の方が重要に決まっているだろう」と。政治の連中、セクションでアクティブな連中、プログレッシブだと思っている人たちはみんなそう言うんですよ。
僕は、「絶対にそれは間違いだ。人間というのは何かをしなくちゃならない。創造的なことをしなくちゃならないんだから、建築家が先に決まっている。建築を作るということが人間である前にあるんだ」っていう、そういう考え方なんですね。それは職業倫理とは少し違う。そうじゃなしに、もっと長く話さないとわからないけれども、カミュやサルトルたちがいろいろ論争してきたけれども、2人とも無神論者で、神はいないっていうふうに言っていた。そういう時代の空気でもあったけど、僕は科学を信じていたからだろうと今は思います。
だけれども、いろいろな宗教があるじゃないですか。単純に言うとさ、僕はそれをみんなフィクショナリティだと思っているんですね。自分にとって一番良い、美しい物語を書いているのはなんなのか。たとえば仏教はすごい美しい。美しいですね。キリスト教もあれだし。僕は彼らを絶対支持しないけれども、ルーミー語録を読んでみたらさ、ルーミーってのはスーフィー、スーフィーってのは神智学、グノーシス派ですね。要するに神をどうやったら知ることができるか。今のイスラムですよね。そのイスラムで凄い詩人が出てるんだけども、ルーミーってのが一番というか、ちゃんと資料があるのかな※2。
アリストテレスを読むとすぐわかるんですけどね、彼は、建築家は非常に良いことをやっている人間だっていう捉え方をもっている。ルーミーもアリストテレスと同じなんだよ。アリストテレスは紀元前350年くらいの人で、ルーミーは12世紀の人なんですね。日本の道元とか定家とか、そういう人たちよりちょっとあとなんだけど。彼もね、良いことの例として建築家を出す。建築家がやっていることをちょっと変えるだけで、それは宇宙的になるはずだとかね。
僕が集落調査をして感じたのは、やっぱりイランというのは最高の建築的知性だということ。イランには山と砂漠があるわけだよね。雨は山にしか降らない。そうすると、山に降った水を集めてきて、地下にトンネルを掘ってきて、今度は耕せるところに水をもってきて、人工的にオアシスを作って、そのオアシスのところに集落があってさ。ほんとに綺麗なんだよね、信じられないくらい。僕はイスファハーンには行ったことがないんだけれども、ルイス・カーンが行ったりしたところの写真なんかを見ても、すごい建築だよね。ああいう力は集落とはちょっと違うけれども、オアシスを人工で作ったその力はすごい知的だと思うのよ。
だから、そのイランのルーミーがいろんなことを言うときに建築っていうのを言ってくれるのは、嬉しいっていうかね、その人はわかってるんじゃないかなぁっていうふうな。それじゃあさ、たとえば日本の道元がね、道元が「建築は」って言ったことはないもんな。僕はものすごく、滅茶苦茶に調べてあるけど、1行もないんだよね。和歌にも1つもないんじゃないかなぁ。日本は歌をよむ人がいてさ、5・7・5・7・7っていうリズムで1つの詩になっている。その歌で文化が支えられているんですね。今もそうだと僕は思いますけれども。その親玉の藤原定家という人が……紙に書いてさしあげましょう。
藤原ってのは京都の頃の貴族なのね。権力を握ってて、京都の文化を作った人たち。そのなかにこの歌よみが1人いた。それで、もう1人鴨長明という人がいてね。この人ね、中国へ行って仏教の勉強をして帰ってきた。京都の平安京の時代から鎌倉に代わるこの戦乱のころに、こういう人たちが生きていた。すごいですよね。ものを小さくしなさいって言う。初めにあった広い住居をさ、それを10分の1にして作りました。さらにこれを100分の1にしました。これはちょっと曖昧なところが残りますが、こういうふうにしろと言ったのがこの人、鴨長明の『方丈記』っていう小説なんだけどもね※3。こう小さく小さくするのね。小さく作ったら世界が見えてきた。小さくすると、あたりの鳥とかね、花とかなんかが見えてきて。広いうちに住んでる間に彼は火事にあって、このくらいに作り直すんですよ。だからね、この人の短文が僕にとってはすごい重要なんですね。彼は自分で家を作って住むわけ。そのなんていうか建築家なんだけどさ。だから、こんなに完璧な建築論はないですね。世界のどこにもないほど完璧だと思います。
ルーミーがね、建築家が非常に何か良いことをやっているっていうふうに言うのに対して、たとえば、今の方丈っていうのは茶室の原型ともいわれるんだけども、茶室が登場するまでの時間は400年くらいあるんですよ。1600年くらいになって初めて利休とかね、紹鷗とかすごい人たちが出てくるわけ。400年くらいスパンがある。その間に、こういうような建築を作ればっていうのではなく、こういうような歌を建築にすれば茶室になるっていうことを言った、そういう歌をよんだ人がね、そのさっきの定家っていう人なんですよ。ものすごい天才だよ。
たとえば、コラージュってあるでしょ。ブリコレっていうのかな。コラージュっていうのは集める人だけど、それに対してね、コラージュの反対の人はエンジニアなんですよ。茶室の作り方はこの定家から来てるのね。レヴィ=ストロースが言ったのはコラージュの方なんだけど、実はもうずっと昔にアジアにはそういう考え方はあったんですね。エンジニアは発明する人で、ブリコルールは集める人。人間にはこういう2つのタイプがあって、茶室なんていうのは落ちているものを拾ってきて組み立てますから、時間がかかる。
たとえば中国では、五言絶句とか七言絶句とかさ、なにかっていうとすごい唄ってのがあるわけじゃない。歴史を決定するようなさ。日本の運命を決定した1つの歌ってのがこの定家の歌でさ。
見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮れ
日本の歴史のなかで一番重要な歌は何かって聞かれたら、何を挙げるかはおそらく人によって違う。だけど建築家である僕からみると絶対にこれになる。なぜかというと、この歌のようなものを建築で作ったらどうかということを400年考えた。それで遂に茶室を作るんですね。それからこれはどう解釈するかっていうとね。見渡せば花も紅葉も両方ともない、美しいものはなんにもない。非常に貧しい家がありますと。秋の夕暮れ、なにかすごい寂しい風景。だけども、それが不思議なことに日本人がよむと、花も紅葉もなかりけりっていってんだけど、あるようにみえる。逆にね。反対なんですね。だから、信じられないことはですね、反対のことをよんだのに、みんなが思うのはすごい花や紅葉がね、咲き乱れているような楽園のような風景をよんだんじゃないかと。よんでいるのは実に寂しい世界。同時に重なっていて、どっちだかわからないっていうのが、これが仏教なんですよ。どっちでもないかもわからない。これを悟ることが、その「非ず非ず」っていう世界を探すことなんです。
非常に重要な話に結びつければ、これはダブル否定じゃないですか。これはリンゴじゃありませんって言ってさ、それでじゃあリンゴでないものを再否定してみる。そうするとリンゴになるであろうというのがさ、アリストテレス。ところが、やっていくと何がなんだかわからなくなっちゃうというか、曖昧になる。ちょっと説明がいろいろあるけれども、ヘーゲルなんかがやってる弁証法では、Aとnot Aがあって、それでnot not Aをやったときにここに何かが現れる。マルキストたちが非常に間違ったエラーをしたけれども。
僕が言う非ず非ずの世界はね、花が咲き乱れているというのと何もないというのが同時にある、そういう世界。そういう美学。ダブル否定という意味では弁証法も非ず非ずも同じ意味なんだけれど、全然違っている。世界に2つ源があって、1つが弁証法で、1つが非ず非ずではないかと。これは東洋的な意味でね。日本だけではなく東洋全体にある。そういう多様性とか、オーバーレイ〔overlay:重ね合わせ〕とか、ジャクスタポジション〔jaxtaposition:並置〕とか、つまりそういうレラティビズム〔relativism:相対主義〕の根元みたいなところでの始祖みたいなものを作り上げる、その力というものに2つの源があるのではないかと。
けれども、一番のキーとなる言葉はフィクショナリティだな。われわれの人生もフィクショナルだということ。フィクショナルだった時にどうすればいいのかというか。じゃあ、建築家だったらフィクショナルな建築を作ればいいんじゃないの、といったことが僕の単純なあれだな。フィクショナルな世界をどうやったら作れるかなと、そういうことでもあるし。なにか、われわれの世代というのはそんなふうに考えているんじゃないのかなあと。大勢と話したことはないけれども。
じゃあたとえば、大江健三郎さんとお話ししても、ほんとにあんまり真剣にそういう話はしたことはないし、どうせ、わからないねということになる気がするけれども。だから、僕は非常になんというのかな。今世界はすごい大変なことになっているなと思うんだけどさ。だけども、フィクショナリティの世界からするとね、これで終わっちゃうんじゃないんですよ。やっぱり次々とフィクションが出てくるっていうかね。
たとえば、僕はいい例を1つ挙げたわけですよね。さっきの歌の話。定家が今から900年くらい前に百人一首というのを選んだんですよ。それを今もみんな遊んでいるんです。毎年お正月に歌会があるんです、日本選手権が。なんだかすごいことだと思うね。やっぱりね。当時の人たちは、もっと前の人たちも、私たちはあと1000年この歌をね、残すにはどうしたらいいかというのをものすごく本気になって考えて。すごい偉い人たちだと思うねえ。それで、有名な歌がいっぱいあるし、その詩がいっぱいある。中国なんかには掃いて捨てるほどあるわけだよ。もっとすごい文化の蓄積がね。イランなんかもそうでしょ。信じられないようなくらいの宝の山みたいなね、そういういろんなものがね。
だけど、なにか、日本はヨーロッパを滅茶苦茶によく勉強した。さっき僕が言ったことと同じですよ。近代化だっつったらさ、もうなんだか、英語だろうがフランス語だろうが、みんな勉強して、なにしろ訳しちゃう。日本っていうのは世界の一番終わりの島だから、そこに集まってくるもの全部に手出ししようということでさ。まあ、努力したよね。だから実をいうと、近代建築っていうのはね、基本的には集落を否定するところから始まったわけですよね。どういうことかというと、ヴァナキュラーなものは地域的だから、民族とかさ、ナショナルとかさ、そういうことに関係してくる。だから、そういうのは良くない。「すべての民のための建築を」と言ったのはまったく正しくてね、僕は良いと思うんです。それは正しかったと。そうして、ナチズムとかね、そういうものに対抗しようとしたわけじゃない?
だからまったく支障ないんだけれども、どうもちょっと怪しいんじゃないかなと。今でもそう思っているけれども。それはやっぱり、資本主義というものの恐ろしさっていうのを人はこれから知るんでしょうけどね。今は自由つったら資本主義でしかありえないような感じだから。だけどもまあ、近代っていうのはそういう意味で二重性があったわけですね。資本主義の空間とほんとに自由がある空間、そういう二重性があって。だから、どうなんだろうなあ。人間は今こそフィクショナリティ、その良い物語ってのは一体なんなのかっていうことを本気になって考えるべきなんだよね。宗教があって神を信じる人は良いんだよ、あれ以上になかなかうまい物語はないからさ。キリスト教1つ考えてみたってね、2000年かかっているわけでしょ? 2000年かかってさ、すんごい美しい話を作ろうっていうさ。だから、宗教っていうのは、そういうなんていうか、僕はフィクショナリティの境地だと思っているんだけど。
そうだなあ、数学っていうのはさ、すごいんですよ。今、幾何学って言ってるのはね、2500年前、2400年前かもしれないけれどね、ユークリッドが作り上げた幾何学のことを言っているわけですね。それから派生して、あとでガウスのような天才が出てきていろいろなことをやるけれどもさ、基本的にはそのときにできた体系を幾何学と言ってるわけじゃないですか。それで、1800年にガウスが現れて、ガウスは大体わかっていたんですね、新しい幾何学というのがありうるってことを。幾何学というのは想像力の話じゃないですか。想像力はものすごい自由にいろんなことを考えるわけ。だけど需要がないのね。幾何学の世界の人たちっていうのは、この200年間っていうのは、じっと我慢して自分たちだけで考えて、ものすごいいろんなことを考えた。
それで、非常に難しくってですね。僕は好きだって言ったけどさ、努力してもどうしてもわからないんだよ。わかんないところはわかんない。難しいんですよ。想像力がね、伸びていかないんだよな。こうなんじゃないのかなっていうのが思い浮かべられない。そういうとこがあるんですね。すべてじゃないですけどね。彼らはこういう世界はこういうふうに説明できますという説明の仕方を作ったんですよ。数学者の説明の仕方は実に想像力に富んでるんですよね。それだから、僕は数学者を信じてるんですよ。数学をやる人間っていうのは、一般的に言えないけどね、かなりのことがわかっているなと。
ただ、それが日常生活でいうと何を意味するのっていうことが非常にわからない。ですが、たとえば「離れて立て」って集落で教わった、ディスクリートな社会があるというようなことっていうのは、数学者がいないと言えないからね。ディスクリートなんて。ディスクリートってのはなるほどこういうことをいうのか、というのがわかったから言えるんだよね。だけども、すんごい面白い。世界の考え方ってのがさ。特に、時間の考え方がすごいんだよね。
新しい幾何学、トポロジーっていうとね。これ〔(0,1)を指差す〕、わかりますかね。これが座標、軸xがありますね。ここに0って点があって、1って点があって、これらを外したこの内側ね。ここのところがさ、(0,1)なんですよ。開区間。これはここのところが閉じてないのね。数学者によればだよ、(0,1)とこれ(-∞,∞)とはですね、構造的にみると同じなわけですね。(-∞,∞)はいわゆる永遠じゃないですか。(0,1)は瞬間ですよね。つまり、われわれは、たとえばだよ、これから10秒考えてお互いに永遠を感じようかっつっても、なかなかにできないけどさ、10秒をほんとに大事に使えれば、できないだけでさ、それが永遠になる。だから、そのたとえばね、ある瞬間に永遠があるというのはさ、ほんとなんだよね。数学者のトポロジーの世界だけど。
それは、仏教でもそうなんですけれども、道元なんかは「両端なし」と言うんですね。「無端」とも言います※4。始めも終わりもないっていう、仏教のすごい時間論。これは非常にアジア的なんですよね。だけど、難しいことを言うと全部違って、まあこれは1つの例なんだよ。1つの例で、フィクショナリティです。距離を普通に1メートル、2メートルって測ってたら駄目ですよと。こういうようなものの見方をしたら、それはどういうふうにみえるかっていうことを言っている。これは1つの見方だけど、幾何学的な体系のなかでね、どういうふうにみえるかっていうかさ。そういうことをやろうとしている。それが僕はフィクショナルなんじゃないかと。現代の幾何学はすんごいフィクショナリティに富んでいるんじゃないかと僕は思うわけ。新しい物語を言うときにね、想像力だけで言ったっていいわけだよ。十分な想像力があれば、勉強しなくてもいいんだよ。想像力で言えればね。だけどそれは大概難しいことであって。数学者の人たちは軽々と言うわけだよね。
たとえば、永遠って概念はさ、世界全体を半径1の円のなかに全部入れちゃう。それをいろんな人が試みているけど、そういう想像力ってのはすごい面白い。だから、想像力の一形態としての新しい幾何学ってのがあるかもなって。
——物理学もやっぱりフィクションなんですよね、どんどん新しいことがわかっていくまでの仮説だから。(小南)
どこまでちゃんとフィクショナリティってのを信じれるかどうかっていうこと。物質とかさ、生命とかさ、それさえも疑うわけじゃない、基本的にはね。だから、そんなに疑っちゃっていいのっていう、そういう心配はありますね。だけども、たださ、やっぱり物理学ってすごいのよ。つまり、実験を何回やっても環境によっては同じ結果が出る必然的な世界ばっかりになぜかいく、というのはなんなんだろうねえ。それもフィクショナリティの1つなんでしょうね。なにか発見として、非常に確実な話っていうか。それはことによると神がいるぞっていう話とかと同じように確実なことなのかもしれないし。結局、真実ってのはいろいろわからないんだけども。なにか、われわれが建築家として生きるってのは、非常に、建築的に考えて生きるっていうかさ、その全体のストーリーをフィクショナルに考えられるように建築を考えていくっていう、そういうことが基本的にはあるんじゃないですかね。今日の最初の話に近いのかもしれないけどね。
大江さんが言ってたんだけれども、想像力には3段階くらいあって、まず妄想ってのはどうしようもない。支離滅裂でさ、駄目な考え方だよね。それで一番最後は構想力かな。真ん中は幻想。幻想は高いのかもしれないね。ルーミー語録によると妄想は駄目なんだよ。幻想を高く書いている。つまりほんとに、神智学だから、神を知るってことだからさ、それが幻想的であるってことは非常に重要である。幻想的であれば美しいし、神を知ることができるわけだよね。
僕の池を作ってくれたアルゼンチンの作家〔レアンドロ・エルリッヒ〕がいるんだけども。この写真ね。ここで見た映り込みと実際の下の池の絵が合うんだよね。すごく良いですよ。ソローの『森の生活』の話に近いね。
そうなんていうか、建築を作るときに建築だけじゃなしに、そういう癖は元々あったにせよね、やっぱり集落調査をやったせいだよね。集落調査で一体人びとは何を考えているだろうかというのを推測するときに、背景となる文化を勉強した。そうすると、歴史のなかにいろんなものが見えてきて、それでどんどん知識として勉強しなくちゃならないので勉強してくと、いろんな世界を相手にすることができた。
そのソローって人は測量を始めるんだよね。ハーバードを出て、近くの森に住んでいるとさ、みんながこの池は底が深くて地球の反対側まで続いているっていうから、それじゃあ測ってみようじゃないかっつって、測りだす※5。これがアメリカにおける測量の始まりじゃないかって説がある。プラグマティズムの始まりじゃないかな、みたいな説もある。要するに、人びとはその池があまりに美しいので、地球の反対側まで穴が開いているんじゃないかと考えていた。そのストーリーを彼〔レアンドロ・エルリッヒ〕は知らなかったけど、実現したんじゃないか。彼はね、どうしようかなあとか色々迷ってたねえ。僕は、空の場合は小さく部分にまとめた方がいいよって言って、だんだんとやっていって、なにか素晴らしいものを作ってくれたわけだけど。
たとえば、バックミンスター・フラーなんてのもすごい人だと思うけれども、そういうすごい人ってのも、ほかの分野みたっていっぱいいるわけじゃない? それで、建築が領域を専門化して狭めて狭めて、自分たちの内輪のなかで夢中になっているようなことをやっているから、広くをみている人たちのほんとの偉大さがわからないんじゃないか。それで、ひとたびフィクショナリティっていうものを考えてしまえば、物事をそういうものだと考えてみれば、良い物語を書くのに、別に建築でなくたって書けるはずだけども。まあ建築が一番、なにか見分けやすいんだっていうような感じはしているけれどもね。だけどまあ、それが妄想だっていうふうに映るとどうしようもないわけだよね。
——何が妄想と構想と幻想を分けると思いますか?(小南)
それはよくわからない。歴史じゃないですかね。歴史的裁判っていうか、なにか下問されるんじゃないですかね。それが『建築に何が可能か』のなかの1つ重要な解だと思う。歴史に呼ばれる、呼び出される。逃げようと思っても、歴史が言うわけですよ。だから、油断できない。だから、近代化=均質空間だとかいうふうにしてくその仕組みっていうのは危険であると。みんな、イコールにしてくというのは非常に危険ですね。
学生たちが暴れて、いつどうなるのかわからないし、先生たちはまあ俺はおでん屋になるかとかそういう話をしている。そういうときに一体何に行くべきかって。どうも時代がそういう時代だったってこともあるんだろうけれども、集落をもう1回見た方がいいんじゃないかっていう。
なぜかっていうとね、都市をずっと見てきたんですよ。30歳のときに『建築に何が可能か』という本を書いて、原稿を女房に渡して、世界一周の切符を買って、それで2ヶ月かけて見てきたんですね。そうして、印象はどういうことかっていうと、近代建築ってのは非常に面白い。わかった。特にバックミンスター・フラーのモントリオールのガラスの球とかさ、ほんとにすごいと思ったけども。だけどね、同時に歴史をすごいと思ったわけよ。ヨーロッパに行ったりして、やっぱりすごいなあって。たとえば、イスタンブールに行ったりして、モスクいいなあと。だけど、それで集落行ってみた方がいいなと。二番煎じになるかもしれないけど、本気になってやってみるかなっていう。なにしろ最初にね、コルビジェが行ったっていうムザッブの谷に行ったらね、そしたら幻のようにほんとに建っている。これは、すごい、やっぱりやってみないとわからないんじゃないかって。
そうして、その次に中南米に行ったら、もう、しょうがないまちばっかりなんだけども、だけども、なにか1つだけディスクリートな集落のタイプがあって。それはなにか、1軒1軒がこう離れててさ、離散的なんだけど、声も届くし、合図も届く。散村集落なんですね。結局、いろんな集落見て、いろんなことがわかったけれども、一番面白かったのはそれじゃないかなと僕は思うんです。行って良かったとそう思う。ヨーロッパの人たちはこのディスクリートな集落を知らないなって。もちろん本には書いてあるんだけど、ディスクリートって概念が説明されてないってかね。
すごい面白い集落で、ものすごい痩せた土地に離れて建っているわけですよね。それはどういうことを意味するかっていうと、痩せた土地だから、ある期間畑を作ると次の年は待ってなくちゃいけない。そのあいだ何するのっていうとさ、それが重要だと思うんだけど、なんだか知らないけど、みんな勝手に生きてこいみたいな話じゃないかと思うんだよね。畑が出来ているあいだはコミュニティが重要なんだけども、その次の年になると、なんかいわゆるディスクリートな世界になって、みんな離れて立つ。お互いに助ける方法はないし、だからしょうがない。なんとかして食べたら、次来たらっていう。集落っていうのは、なにかそういうもんじゃないかと。すごい良い世界があるんじゃないかっていうかね。そういうふうにフィクショナリティとして作り込んでいる方が……そういう解釈をしようということは十分あるわけですし、事実はまったく違うよと言われてもいいんだけども。まあ、そういう世界だよね。
僕は、まだはっきりわかっていない、というかわからないことだらけなんだけども、民主主義とは違う、ディスクリートな社会が次の社会だと思っている。子供たちにさ、ディスクリートだっつったって無理だよね。自分ひとりで生きろって言ったってさ、子供が生きれるはずがなくてさ。それはみんな助け合わなくちゃいけなくて。だけども、ある程度経ったら、そんなん、なにか言いたい一言もぐっと我慢して、適当にやったらっていうのは、そういうふうのもいいよね。そういうことは必要じゃないかっていう。そういう、そういう社会なんだよな。そういうディスクリートな世界を見つけたっていうこと。
当時あったのは『建築家なしの建築』とかさ、そういう考え方なのかもしれないけれども、そういうことではなしに、なんていうか人間の集合形態とか集まり方には、いろんなやり方があるんだよという、私の基本となっているのはそういうことじゃないですかね※6。そのときに、別段、自分の解釈だけだときっと信用されないわけですよ、それはあなたの個人の考えじゃないの?って。恣意的な考え方じゃない?って。いやそうじゃなくて数学者はこういうこと言ってるけどって言うと、イエスと言わざるを得ないんだけどね。そういうことじゃないでしょうかね、数学っていうのは。数学ってのを普通の知識とかとは考えちゃいけないんですよ。想像力の1つの形態っていうかね、そういうふうに考えなくちゃいけない。数学ってのは。特に幾何学はね。
有孔体ってのがあるんですね。穴が開いている。実は僕が考えてきたことってそれに尽きるんですよね。最も美しくそういうふうなものを作るにはどうしたらいいのかっていう。幾何学=孔の話じゃないんだけれども、建築でいうと窓とかさ、入り口とかあるから、絶対に孔の話になるわけですよ。それで、それじゃあ、幾何学はどうなっているのかっていうと、1つ1つ整理された部分があって、それは孔がなくって、面に境界がない球なんですよ。風船は境界があるんですよ。だから、これを塞いどかないと球にならないですね。こう広げたときに紙と同じになっちゃうんで。
トポロジーってのは、伸ばしたり縮めたり何か色んなことをすることに対しては、さっきの一瞬と永遠と同じようにね、如意棒と同じようにぐっと縮めたやつと伸ばしたものが同じなもんだから。そういうことでは、トーラスは非常にユニークな話で、孔が真ん中に1つあいてるわけですね。Σnっていう形があって、これは孔がn個も開いてる。数学者たちは、n人浮き輪って呼んでいるんです。今年の夏ね、能登で作ろうとしている模型はそれなんですけれども。8人乗り浮き輪みたいなやつを作る。作ったやつをもっと数学的にやらせると、なにか、ブーケっていう概念が出てくる。
物の形ってのは、三次元に見えているけれども、面としては二次元ですから、二次元に孔のあいていない形と、球とトーラスと、Σnっていうのがあるぞと。鉛筆で紙に穴開けたもの、建築はそれに近いわけですよ。ポワンカレが発見したんだけども、組合せ幾何学というのがあります。ポワンカレは形を他人に言うことはできないだろうと。だから、貼り合わせて言う。貼り合わせたやつについて説明しようという態度に変えたんです。
僕は数学の本をこの引き出しの一番上に入れてるんだけどさ。松本幸夫先生という先生が書いている本なんですよ※7。この本だけを信用してる、この本は読む、この本だけは読むぞっという本なんですね。本を散々勉強してるわけ、何回も何回も読んで。わかるところはわかるんだよ。わかる計算のところはちゃんと勉強してある。それから、わからないものはわからない。だからもう、これだけ努力して、たった得るものはこれくらいかと思うと愕然とする。でも、それはきっといろんなことに通じてる、理解に通じてるからしょうがないんだけども。
だから、想像力の根拠ってのを自己点検するときに、他者がやったことの成果があるんだったら、それに従った方が自分の想像力、形の想像力に頼るよりか良いのではないかと思っている。そのときに、一番わかりやすいやつは何かっていうと、一番難しいけれども、数学じゃないかなと僕は思うんですね。たとえば、音楽とかって何がなんだかわからないじゃないですか。それはさ、そのなにか、世界中の数学者がものすごい200年も黙って考えててさ、何があっても、ユダヤ人があんなに殺されても、何も言わずに黙っててさ、ひたすら黙ってて、お互いにコミュニケーションをとって、作ってきた世界だからさ、ものすごいことを考えているに決まっているわけですよ。ただ、僕らが理解できないだけでね。やっぱりすごいことを考えている。
そういうことで、「ああ、あの建築がそういうわけか、なるほど」っていうふうに言ってくれればいいんじゃないかってときにさ、フィクショナリティってのはさ、なにか歴史に期待するってところがあるわけね。希望の要素がある。だから、神なき世界ってのは希望がないかっていうのは、そうではなしに、歴史においては、歴史を信じるってうえではやっぱり希望があるんじゃないかな。
——数学の勉強はいつから始めましたか?(ヴェロニカ)
数学の勉強を本格的にやり始めたのはね、正直言うと大学辞めてから。僕がいた頃は60歳で大学を辞めるでしょ。だから、元気があるわけですよ。札幌ドームを設計している最中だった。60歳になると全部忘れているから普通の微分積分とか基礎から始めてね。だけどね、ほんとに数学の素養がないってことがわかるんですよ。ほんとに全部独学だからね。これはなんて読むんだろうと。そりゃ、意味はわかってんだよね。意味がわかっているならいいじゃないのっていうけど、読めないとさ、すんごい大きな障害になる。結局は要するに、全体の素養のなさっていうかね。みんなが日頃に、子どもの時から一緒にやってたりさ、何かやってたら、必ず出てくることだからわかるはずなんだよね。だから講義がいかに大切かっていうね。もっと大切なのは、先生が前にいて、みんなが寝ているなかを、助手と先生が話しているのを聞いててさ、ああ、ああ、そういうことかと知っていくことだと思うんだよね。だから独学の厳しさ、限界があると知りますね。
あなたの質問、良い質問だったね。いつから勉強をしたのか。60歳以降の独学ですが、今まで24年間やったわけだね。でも、わからないものはわからないんだよね。ここが壁だってわかってるわけだよ。そこの概念がどういう概念なのか想像できれば、次に進めるし、より広く開くんだけれども、それがわからない。ずっとそこが壁になっている。普通のことだったらさ、2、3回覚えればさ、わかるはずなんだけどね。それがわからないんだよね。
数学者といえども、1日休んだらもう3日猛勉強しないと追いつかなくって、3日休んだら1週間猛勉強しないと駄目で、1ヶ月休んだら数学者であることをやめた方がいいっていうの。毎日毎日同じ概念をね、繰り返して考えないと、それを考えられなくなっちゃう。そういうものらしいんですよね。だから、やっぱりピアニストがピアノを1ヶ月も弾かないでいたら実力はガタ落ちになっちゃって、やめた方がいいってなっちゃったっていう。建築的なことは毎日考えるから、それと同じふうに数学のことを考えれば楽しいっていうこと。そんなふうに考えられないかなあ。わかれば面白いけど、わからなければほんとに面白くない。だけども、わかる範囲が少しずつ広がっていけば希望はあると思っている。そういう、数学で建築を考えようとしている人をおそらくいないだろうから、きっとその点、ユニークですよね。それがうまい成果を生むかどうかはわからないけれども、でもそれはユニークであるとは言えますね。
モダニティってのはさ、要するに時間だってことですよ。建築は昔から時間と空間との組み合わせで出来ているということでありましたし、そんなの珍しいことではないけれども、建築ってのは出来事であるという概念がある。ヴィトゲンシュタインが言ったわけだよね。世界の総和というものは、物の総和ではなくって、起こった出来事の総和であると。道元はなんでも時間だって言うわけ。山も時なり。それから、海も時なり。山もできごとだし、海もできごとだっていう考え方で、それはすごく有力だよね※8。
フィクショナリティってのは、こういうタバコならタバコというフィクショナリティなんだけども、作る時にさ、その建物で人がどういうように登場してくるかなとか、そっからさ、美しく見せることができるかとか、そういう場面、つまり私の言葉で言うと、情景図式で考える。情景図式で考えているということは、なにか次々と変わっていく場面、あるいはそんなに綺麗に変わらないにしても、象徴な変わり方とかさ、そういうようなことを考えているわけですよね。それは1つの時間的な変化っていうかさ、風景が変わっていくということと同じように、そういうことも含めて出来事というのを考えています。
——情景図式と幾何学はどのように結びつきますか?(小南)
それはですね、どういうかたちで結びつくかというと、記号です。普通はね、スカラー場なら地形だし、ベクトル場なら動いているもののね、それぞれそういう場がある。そういう場で物は記号として現れるわけだよね。だからね、空間のなかにさ、ある物を登場させる。これはこの位置、これはこの位置と対応づけることを場という。それを記号ということに関して言ったらどうかってので、糸口を求めているわけですよ。そう考えてみればさ、記号Aっていう人が舞台に出てきてさ、記号Bってのが出てきてさ、どうのこうのなるってのをさ、その心は書けないかもしれないけれど、物の動きとしてはさ、その現象ってのは時間的にちゃんと位置を変えて描いたりしているわけじゃない。漫画みたいなものと同じように、そういうこと考えながら建築を作っている。
記号とは何かみたいなことは、言わない方がいいんじゃないかって僕は思っている。曖昧な部分は曖昧としておいて、まず、記号というのをある場所に位置づけることができないか。これはここの位置、これをここに置いてと、現にできているもんね。こういうことができているというのは、ここを場として設えれてるんじゃないか、と僕は思っている。かなり数学的な準備ができたんだよ。こういう用意ができれば、書けるんですね。
それで、今日の1つの行き着いた先かもしれないけれどさ、僕にはマイクロデュレーションっていう考えがある。さっきの(0,1)は永遠でもあるし、人生もデュレーションである。だから、建築はある非常に狭いデュレーションのなかでどちらかといえば常に変わっていくというかな、そういう世界に生きているっていうのは事実だし、それをどういうふうにフィクションとして作り上げるのかというのが一番の問題であるから。そのためには概念図の装置が必要だけど、マイクロデュレーションはすんごいうまい概念で、たとえば、自分の人生が4つ、5つ、6つに別れますよとかさ、記号で書けるわけですね。γ1から始まって、γ2になって、γ3になって、γ4になって、γ7になって。
それで、現実的な問題として僕は歳をとってきて、僕は死ぬってことをものすごいよく考えるわけですよね。死ぬ前に死に切れってことなんですよ。死ぬ前に死に切れ。それはね、日本のまた、空海なんだけどさ。空海は死んで死んで死んで死んで死んで死んでって、6回書いてあるんだよな。6回死ねって言っている、死ぬ前に。それは、つまりね、フィクショナリティなんですよ。死に方をめぐるフィクショナリティ。何やっても駄目だし、何やっても正解はないけれど、死ぬ前に死に切れって。やっぱりいい言葉だな。そんなことはみんな気づかない。800年だったかな、空海が言った頃は。
聞き手:Veronika Ikonnikova、原田爽一朗、小南弘季
撮影:Tyler MacBeth
文:小南弘季