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作曲家・瀧廉太郎はその幼少期、石垣のみとなった岡城址に一人佇み思索に耽っていた。「荒城の月」のメロディはそうした瀧の心象風景をもとに生まれたという。その岡城の城下町が竹田であり、瀧の暮らしたまちであった。
竹田は大分県南西部に広がる阿蘇溶岩台地上の小さな盆地につくられたまちである。この盆地は岩石と森林からなる複雑な地形に囲まれており、周囲に目立った都市はなく、最も近い大分市街まで自動車で1時間、鉄道で1時間20分の距離にある。
竹田からどこかに行こうとすると、かつては必ず溶岩台地に掘られた7か所のトンネルのいずれかを通らなければならなかったことから、このまちは「蓮根街」と呼ばれていた。
私たちが竹田に着いたのは夜であった。トンネルを抜け、まちの中に入る。日が落ちた暗闇の中でも、家の灯りによって目の前に広がるまちの輪郭がわかった。というより、まちの周りを取り囲む崖の暗さがその輪郭をより際立たせていたのであろう。それは不思議な感覚であった。
まちの北西、川を挟んだ狭小な土地に鉄道駅がある。その近くの宿で荷物を下ろし、身支度を整え、まちに向かって歩き出す。川を流れる水の音が、まだ暖かくなりきらない三月末の澄んだ空気を伝って心地よく響いていた。一部の通りには行燈が並べられており、その優しい灯りがこのまちのひととなりを語っていた。そぞろ歩いていてふと感じたのは、空の下のこの場所に自分がいるのだという、これも不思議な感覚であった。
竹田という地名は南北朝期からみることができるが、文禄3年(1594)に中川氏が岡城に入部し、居城の築造と城下町の建設を開始するまでは、文字どおり竹と田ばかりの小さな寒村であったと考えられている。当時この一帯は小さな河川の流域に広がる湿地帯であったそうであり、排水の整備を行い、それから城下町の建設が進められた。その最初は、近隣の町村から50余りの家屋を移し、町を建設したと記録されている。
その後、まちは拡大していったが、狭い盆地内に人家が密集する様子から、俗に「竹田千軒」と呼ばれていた。江戸時代後期の地理学者である古川古松軒が「概ね良い町であり、ここではさまざまな品物が自由に手に入る。この町から4、5里のあいだに商家が1つもないため、あらゆるものをこの城下で手に入れられるように、商人たちが不足のないよう蓄えているのだとみえる」と記しているように、このまちが周辺地域における経済的な中心として機能していたことがわかる。
近世期には複数の学舎や医学校が設置され、藩士の教育や医学の研究に力が注がれていた。その1つである由学館は、竹田市歴史文化館と併設するかたちで現在まで引き継がれている。また、幕末には医師や僧侶、武士らが開いた8つもの寺子屋があったように、竹田は文化面においても秀でた場所であった。
近世期には多くの寺院が建立されており、現在もまちのさまざまな場所において本堂の大屋根を見ることができる。それらは竹田の名所にもなっており、ここを訪れた人たちは寺院をめぐりながら、近世城下町の風情を楽しんでいる。
近代に入り、明治18年(1885)に大分・熊本を結ぶ県道(現国道57号)が開通し、続いて昭和3年(1928)には現在のJR豊肥本線の開通したことで、竹田は豊肥地域を結ぶ重要な交通の要所となった。とくにトラック運転手にとっては、ちょうど良い位置にある休憩地点として知られ、まちの飲食店は昼夜を問わず大いに賑わっていたという。しかし、道路整備の進展によりまちの外にバイパスが通ったことで、客足は遠のいていった。それでも竹田では現在も多くの飲食店やスナックが営業を続けており、夜遅くまで灯りがともる場所が少なくない。
竹田は、宮崎県高千穂の北部に位置する祖母山から大分市の別府湾へかけて流れる大野川とその支流である稲葉川が通る盆地状沖積地の中心部につくられた城下町であり、その三方を屏風のように屹立する溶岩台地が取り囲んでいる。
一般的な城下町と異なり、岡城の場合はその地形の制限によって、城から南西に1キロメートル弱離れた場所に町を開いた。そこにはすでに竹田村とその水田が存在していたが、その一部に碁盤の目状の町筋を通し、他所より町屋を移して町をつくったということは先に述べたとおりである。また当時は、武家屋敷や寺社は岡城と城下町のあいだに続く谷あいや町の周囲の台地上など、条件の悪い場所に置かれていた。
江戸初期の城下町は現在のまちの南東部分を範囲としていた。池沼をあいだに挟んだ北西地域は、当初百姓の居住区であったが、寛永7年(1630)に城下町に組込まれて古町と称されるようになり、続いて同13年(1636)に町割が行われた。明暦2年(1656)には池の周囲に関門と堀が築かれ、吉野池と名付けられた。現在この池は埋め立てられている。
また、中心部の町筋に関しては江戸初期から基本的に変化がなかった一方で、山際に関してはしだいに開発が進んでいった。江戸初期より、町の東側には上級藩士の居住する武家屋敷町が設けられていたが、山際にも武家屋敷ができていき、谷あいに居住していた武士たちが移動してきたのであった。寛文4年(1664)には古町の裏町も武家屋敷とされている。
人家の密集する竹田はたびたび大火に見舞われており、元和5年(1619)の大火の際には町屋の屋根を萱葺から板葺に、寛文2年(1662)には板葺から瓦葺に、倉庫はすべて漆喰塗にするよう命じている。国登録有形文化財の塩屋(主屋・中蔵・古蔵)をはじめ、現在も多くの漆喰塗の建築が残っており、経済と文化の中心地であった江戸の頃の栄華を今に伝えている。
ところで、江戸初期から大きくは変わっていない竹田の町割は、実際にこのまちを訪れてみるととくにわかることであるが、正確には碁盤の目状ではない。それぞれの通りは角度を振りつつ、適宜折れ曲がりつつ、むしろ網の目のようにゆがんだ街区を形成している。これは各通りが谷あいの道やトンネルにつながるためにその角度や向きを調整する必要があったということに起因するものと考えられる。
それぞれの通りは交差点で微かに折れ曲がっているので、まち全体を射貫くような視線というものは得られず、それがかえって風景に奥行きを生み出し、狭いまちながら空間に広がりを感じさせることの要因となっている。
また、このまちの中での高低差が大きいこともその空間に広がりを与える要因になっているといえるだろう。山から稲葉川にむけて全体的に低くなっていくだけではなく、各所で微細な高低差がみられ、場所によっては結構な傾斜が見られるのだ。
こうした微細な高低差はこのまちが不規則な凹凸の多い溶岩台地の上につくられていることに由来している。均質的なものとして捉えられがちなグリッド状のまちであるが、この竹田の城下町のように、大地の条件によってその形状は揺れ、結果として多様な風景を生み出しているのである。
このように豊かな街路風景と建築遺産をもつ竹田のまちであるが、私たちの心をもっとも揺さぶったのは、ほかでもない周囲を取り囲む岩壁であった。阿蘇山から流れ出た溶岩が冷えて固まり、それをまた河川を流れる水が長い年月をかけて削り、崩した結果できた、優に20メートルは超えるだろう黒い岩肌をもった壁の存在である。
まちのどこを歩いていても常に感じるのはその壁の存在であり、囲まれているという感覚である。通りの先にも町屋の屋根の上にも黒い岩肌が現れ、私たちの視界に入り込み、その多くを占めてくるのだ。日本において、ここまではっきりとした領域をもち、それが風景としてかたちに現れているまちは、おそらくこの竹田だけであろう。
さらに興味深いことに、岩壁の中腹には数多くの寺社や住宅が建てられている。前述のように、こうした土地は条件の良いものではなかったが、まちを見渡すことのできる場所でもあった。そうした場所に寺院が多く建立され、現在までまちを見守ってきたのである。一方で、まちを見ることができるということは、同時にまちからも見ることができるということである。そうした「見る/見られる」の関係にあることを一度意識してしまうと、常に複数の場所から視線を浴びているような感覚をもつようになる。そして、このような感覚もこのまちのもつ囲繞感を強めていると考えられるのだ。
この囲まれるという感覚は窮屈さをも与えはするが、自身の住む場所のかたちを認識しやすいという点において有用でもある。イメージと実際のかたちが一致することは、まちに対する帰属意識や愛着の醸成に良い影響をもたらすといえるだろう。
また、この壁の表面が岩であること、そしてその上に樹木や竹が生い茂っているということも、この囲まれるという感覚にとって大きな意味をもつ。それは岩肌の繊細さと葉影のゆらぎが直立する壁そのものの存在感を減じ、世界の背景へそっと押しやることで、囲まれることへ恐怖感を安心感へと変えるのだ。
山に足を向け、岩に近づくとまた違った風景が見えてくる。岩肌に見えるのは苔むした美しい自然の造形だけではない。そこにあったのは、長い時間をかけて蓄積された数えきれないほどの人間の手のあとである。竹田の人びとは、岩に道を通したり、風景として愛でたりするだけでなく、ときには削る、あるいは穿つことによって利用してきたのである。
山の際やその中腹において岩の表面を削って土地を整え、人家やお堂を建てることもしてきたし、穴を開けて空間をこしらえ、さまざまなことに使ってきたのである。まちを歩いていてよく見かけるのは、岩に穿たれた奥行きの浅い穴に地蔵が並んでいる光景や、少し深い洞穴が物置として利用されている光景である。先の古河古松軒によれば、近世期には風呂や便所の空間としても利用されていたようである。
岩壁に穿たれた洞穴は、かつて墓場としても用いられてきた。現在でもその痕跡をとどめる大きな空洞を確認することができる。切支丹洞窟礼拝堂もそうしたものの一つであり、戦国末期の切支丹大名・志賀親次のもとで、多くの信徒が竹田村に居住していた歴史を今に伝えている。
竹田は大野川流域の経済・文化の中心として繁栄したまちであった。その栄華はさまざまなかたちで今もなおまちの随所に息づいている。一方で、その地理的条件により、大都市を中心とした現代の消費社会の流れに取り残される時期もあった。しかし、そうした社会の潮流が変わりつつある今日、このまちが新しい中心性を手にする可能性について考えてみたい。竹田には良いゲストハウスがある。それは近郊の高原や温泉地への拠点となるだけでなく、旅行者とまちをつなぐゲートウェイとしての役割を果たしている。それに良い図書館がある。図書館は子どもたちが地域や世界を知るための重要な場所であり、まちの未来をかたちづくる基盤でもある。これらの場所が核となってこのまちの新しい風景をつくっていくだろう。
2023年3月30日