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本メッシュには商工業と農業を主要な産業とする白浜と甲浦という漁港の集落が含まれる。これらは高知県の東端、県境近くの山と海に囲まれた入江に位置するまちである。
白浜の町場とその南方に横たわる砂浜の間を国道55号線が通り、高知市との間を2時間半で結んでいる。多くの自動車が行きかう道路脇には防風林が帯状に植えられており、海風と交通からまちを守っている。その反対側には白砂で遠浅の浜辺と入海、そして小島が連なる風光明媚な景色が顔をのぞかせていた。
いくつもの岬を越えてようやくたどり着いた私たちは美しい砂浜とその脇に設けられた巨大な防災施設を右手に見ながら、「海の駅」の駐車場に車を停めた。
まちを散策していると、このまちの風景を強く印象づけているのが海に浮かぶ小さな島々と陸地に点在する小さな山々であることに気がつく。小島や小山によって風景の周辺が縁どられることで、その風景に対してより親密な感情を抱くようだ。
入江の湿った砂丘を干拓してつくられた白浜のまちは周囲を小さな山々に囲まれているため、常に小さな山や島の姿が目に入る。このように陸地から海にかけて連なる小山や小島が、このまちが海と山との境界の上に位置しているということを私たちに強く意識させるのだ。潮の満ち引きがほかの場所よりもとても身近に感じるのも同じ理由によるものだろう。白浜のまちを歩いていると、ふとした瞬間に海の上に立っているような不思議な感覚を抱くのであった。
甲浦は阿波および上方に向かって開かれた土佐国の玄関として古来より発展してきた港町であり、近世中期以降においては近海漁業の基地として存続してきた。一方の白浜は近世初期に砂丘上に開発された新田村であり、漁業をおもな生業にしてきた漁村集落である。これらのまちでは現在も盛んに漁業が行われており、甲浦の入り江には近代以前から変わらず多くの漁船が並ぶ風景を見ることができる。
しかしながら、このまちの生活機能は十分に高いとはいえない。小さな商店や地方銀行の支店、保育園から中学校までの教育施設や高齢者施設などはあるものの、最寄りのスーパーまでは車で15分程度かかり、付近にショッピングモールや大きな市街地もない。高知市街へ出るには2時間半の車の運転が必要である。
現在は遠浅の海浜を海水浴場やキャンプ場として活用した観光と商業に力を入れており、観光客向けのレストランや宿泊施設、釣り具屋などが少しずつ整備されているところである。
また近年では、道路・鉄道両用バス「デュアル・モード・ビークル(DMV)」が世界で初めて本格的に導入され、その電車からバスへのモードチェンジ駅がこのまちに設置された。これによって、高知市街から徳島市街にかけての海側のまちまちを公共交通が再びつないだのである。
入り江の複雑な地形に住宅と港の空間が高密度に併存する典型的な漁業集落である甲浦と、砂丘の干拓によってつくられた白浜は全く異なる空間構造を有している。
まずは白浜についてその空間構造をみていきたい。白浜では砂丘の土中に多く含まれる水分の排出のため亀甲状に堀を切り、背後の山から流れる小池川の水を引き込むことによって、灌漑のシステムをつくり上げてきた。まちの空間はこの堀によって大きく内外に分けられている。掘の外側には背後に山を背負う2つの漁村集落が古くから存在し、それぞれに住居と畑、神社と寺院、そして墓地を有している。第二次世界大戦以降、堀近くの農地の一部が宅地や公共施設の用地に転用されたものの、その基本的な構造は変化していない。
北側の集落では温暖な気候を活かして柑橘類の樹木や鉢物を栽培する家が多く見られる。曲がりくねった道と外に開かれた農地、南国の雰囲気をもった樹木が集落の景観を特徴づけている。西側の集落において特徴的なのは、住居の敷地の多くが石垣で地面より少し高い位置に持ち上げられていることである。高潮への対策がこのような独特な空間をつくり上げてきたのである。台風が多く上陸する場所ならではの集落風景といえるだろう。
これらのような古くからの漁業集落とは異なり、近世期に開発された堀の内側は明解な空間の構造を有している。堀の内側は土佐街道によってほぼ東西に貫かれ、両側に低層平入の住宅が直線状に規則正しく並んでいる。この通りは甲浦港で積み下ろしされる商品を取引する場所として開かれたものである。通りの南側には上記の表通りと平行に裏通りが形成されている。戦前までこれらの2本の通りに面する宅地以外の土地は、街道に面して鎮座する社寺の境内や墓地、そして白浜の開発者である明神家の屋敷を除き、すべて農地として利用されていた。神社境内や明神家の屋敷は現在でも大きな森に包まれている。
戦後、住宅地への転用が徐々に進む中で一面の農地は細切れに分割されたのち、一部は住宅とそれに付属する農地として開発され、一部は開発されず荒地となっていく。南側の農地は比較的開発が進み、街区が切られ、町工場などもつくられたが、北側の農地は堀沿いを除いて開発が進まず、多くの空地と家庭菜園、そして墓地と神社の境内を残すこととなった。
その後、コンクリートによる堀の造成が進み、堀の両岸において住宅の建設が進められていく。同時に町の東端の沼地も埋め立てられ、住宅地へと変わっていった。しかしながら、堀と街道に沿って立ち並ぶ住宅の裏側には多くの農地が残されたままであり、住宅間の路地を抜けると大きな空地が広がっており、そこでは住民によって多種多様な作物が育てられている。背後の山と住宅に取り囲まれた少しゆとりのある領域に緩やかな視覚的連続性をもった空間と自給自足の風景が広がっているのだ。
話を白浜へと戻そう。近代の土木事業による堀周辺の環境の変化によって白浜のまちのありようは大きく変化したといえるが、現在でもいたる所に存在する水と砂っぽい畑や荒地、そしてそれらを取り囲む複数の小さな山々が、このまちが浦の砂浜を干拓してつくられた場所であることを喚起させる。
白浜の環境は人間の常なる努力によって維持され、改善されてきた。過去には幾度となく波に飲み込まれることもあったが、その度に繰り返し再建されてきたのである。砂浜と町という2つの異なる環境は本質的には紙一重である。それは宅地への転換が進まず、取り残された農地や荒れ地からも感じることができるだろう。そして、このことを意識すると、白浜の堀の内側に形成された小山と集落に取り囲まれた風景が、実は甲浦港の入り江の風景と同じ構造をもっていることがみえてくる。
それは陸と海の境界に生じる複雑な地形に取り囲まれた浜や浦といった場所を人間がどのように利用するかという選択であった。浜を干拓し町としたものが白浜であり、浦の水際に石を積みあげ港としたものが甲浦であった。結果としては全く異なる2つの風景が形成されたが、人間が生きるための環境を構築してきた、その証のようなものとして白浜と甲浦の2つのまちは現代にその姿かたちを残している。このまちを練り歩き、時折立ち止まるなかで、陸と海の境界における生きられた環境の構築の歴史を体感させられた。
前述の通り、甲浦はその複雑な地形を活かして港町として発展してきた。陸地へ深く切り込んだ浦は石垣によって補強され、船の停泊に適した建造物として構築されている。その端正で美しい石積みは甲浦港のかつての栄華を思わせる。細長い方形の港の先には雁木が造成されており、その奥には荷揚げに利用していたであろう空地がまちの広場として残されている。
人が居住する場所は非常に狭く、港と山の間のわずかな平地に住居が密集している。一部には土佐で有名な水切り瓦をもつ蔵を見ることができるが、多くは戦後に建て替えられた平入の住居が港に平行して並んでいる。山を登る谷地には寺院や墓地、あるいは比較的小さな住居と農地を確認することができる。
浦に沿って歩いていくと漁協組合の卸市場やドックなどの漁業関連の施設を見ることができる。そうした場所の周りでは、早朝の漁から帰ってきた漁師やレジャーで訪れた人たちが楽しそうに語り合いながら釣りをしていた。甲浦は釣り人の間では有名なスポットである。日本における釣り針生産の最大シェアをもつ会社とその工場が白浜にあることも興味深い。
最後に白浜の南に広がる浜辺に戻ろう。この浜辺の風光明媚な風景が白浜の印象そのものであると冒頭に述べたが、この風景もまちの人たちのたゆまぬ努力と数々の選択によって存在しているものであることを理解しなくてはならないだろう。
風光明媚である入り江は波に対して脆弱であり、台風が引き起こす高波によってまちは何度も被害を受けてきた。2011年の東日本大震災以降における国家規模での防災意識の高まりを受け、この小さな白浜のまちなかに2棟の防災避難タワーと海岸に大規模な防災避難タワーを有する巨大な複合施設が建設された。後者は地元の住民に加え、観光客をも対象としたものである。
このような巨大な建造物が生活の風景の中に突如として現れたことは住民意識にも大きな変化を与えたと考えられる。私たちが訪問しているような規模のまちは災害に対して脆弱な構造をもつことが多く、気候変動に伴い災害の規模がますます大きくなっている現代において、その対策は喫緊の課題となっている。公共施策のレベルから住民意識のレベルにいたるまで、防災まちづくりが取り組むべき課題は多岐にわたるが、こうした防災意識の形成がまちの自治を再び活性化しているのである。
三日月状の美しい砂浜には、少し古びたリゾートホテルと海の駅、そして巨大な防災施設が連続している。防災施設のデッキに上がると浜の風景をより近くに感じられた。観光と防災、そして日常が共存する風景がここには生きている。
2022年2月24日