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長浜は伊予灘に面する肱川河口の砂州上につくられたまちである。松山方面から瀬戸内の島々を右手に眺めながら車を走らせていると、海の上に巨大な木場と工場が現れる。細長く連続する工業地帯を通り過ぎると長浜のまちの境界へたどり着く。この辺りには陶器製造で栄えた町工場がいくつか並び、煙を吐き出している。JR伊予長浜駅を越えたあたりからまちの全体像が見え始めるが、そのまま山の端に突き出すようにして造成されたまちの周囲を取り囲む産業道路を走り、戦後につくられた港湾や漁協、商店街入口の看板や4階建ての豪奢な割烹料理屋を横目に見ながら、港事業の一環で整備された、まちの外側に突き出した海水浴場の駐車場へと到着した。
まずはまちの外周を歩いていく。面積の小さなこのまちをゆっくり一周するのに多くの時間はかからない。
港湾以外の外周には堤防が築かれていて、まちの中から直接海を見ることは叶わないが、堤防の上を歩くことや家の2階のバルコニーから眺めることで日常に海を取り込んでいるのだろう。堤防の内側においてもウミネコの鳴き声と長い堤防それ自体がその向こうに広がる海の存在を期待させる。その一方でまちの背には急な傾斜の小高い山が鎮座し、内陸への視界の連続性を断っていて、このまちのほかに世界があることを理解させない。
そして、まちの周囲を歩くことで、このまちが中心に位置する町場とそれを取り囲む複数の場所によって構成されていることに気がつくのであった。
長浜は松山市から車で1時間、大洲市から30分、電車でそれぞれ1時間半と1時間の距離に位置する。この港町は近世以降肱川水運と瀬戸内海道の接点として発展する。大洲城下一円と従来の肱川水運が結ばれた結果、藩船が出入りし、農林産物や地方特産品を集散する港を中心とした市街が形成されていく。
大洲城下町の外港として准町としての取り扱いを受け、大幅な商品売買を特許されていた長浜では、藩内における商品の取引はもちろんのこと、隣藩をはじめ諸国廻船出入りによる諸国物産の取引が活発化したことに伴い、本町通を中心とする商店街が発展するとともに、計画的なゾーニングによってまちの空間が形成されていったのである。
大正頃より、肱川上流から集められた木材が西日本における木材の価格水準を決めるほどの重要な位置を占めるようになり、長浜は全国三大木材集積地の1つに数えられるようになったが、その後安い外材の流入によって長浜の木材業は衰退してしまう。現在の長浜に盛期のように多くの人間が外から訪れるような港湾都市としての活気は感じられない。商店街を構成する建物も古くなり、まち全体にさびれた空気感と郷愁が漂っている。しかし、大きなスーパーや銀行などの生活に必要な施設をはじめ、多種多様な公共施設や幼稚園から高校までの教育施設、そして多くの医療施設が歩いて訪ねることのできる範囲に充分に存在している。また、大衆食堂から割烹料理まで、飲食店の種類や数も豊富であるように、現在も地域一帯の拠点としての高いポテンシャルをもち続けている。
本メッシュ内には港町長浜とその対岸の沖浦という名の小さな漁村集落の2つの地域が含まれている。長浜は港の発展に伴って肱川河口の砂州上に人工的につくられた市街地であり、四周を海と川、そして山に囲まれた狭小な領域に、高密度の人工環境をもつ。まちのおおよそが本町通りを中心とした碁盤の目状の通りによって構成されている。戦後にその周囲にいくつかの住宅地と港湾設備が整備されていくものの、基本的には近世に形成された町割りとゾーニングを継承する伝統的なまちである。
まちの中心となる商店街は短冊状の町屋によってグリッド状の街区が形成されており、現在でも間口の小さい店舗兼住居が通りに面して立ち並んでいるが、一部の場所においては複数の建物を取り壊し大きなスーパーや駐車場へと転換している。そうすることによって、現代におけるまちの生活機能を維持しているのである。グリッド状の町の中には寺院や神社、かつての商館なども存在しており、このような歴史的遺産が均質的な空間の中に場所性を生みだしているといえるだろう。南北の通りはすべて肱川から海へと抜けており、なかでも本町通りには赤色の鮮やかなブロックが敷かれている。目線の先にブロックと同じ色で塗られた長浜大橋が見えることで、歩行者の視線は自然と商店街の外側へと誘導され、このまちが周囲を水に囲まれた小さな特別な場所であることを感じさせられるのである。
グリッド状の町が中心を占める長浜のまちであるが、その外周には漁港や工場、鉄道駅やバスターミナル、戦後の住宅不足に対してつくられた住宅地、そして集落や墓地が取り巻いている。この小さな領域の中に多様な社会空間が並存し、生産と消費、再生産が総合的および循環的に行われてきたのだ。まちの最も端に位置する山際の斜面地の墓地から俯瞰するまちの様子はまるで箱庭の中でつくられた小宇宙のようでもある。
なかでも道路を挟んで隣接する漁港と商店街の辺りは狭い範囲で風景が変化していく。漁港に近づくにつれ飲食店や宿泊施設が多くなっていき、道路に面する場所には海鮮を扱う豪華な装いの料亭が立ち並ぶ。これらの店先には生簀が設けられており、水揚げされたばかりの魚が客に振舞われるのである。道路の向かいには大衆向けの食堂があり、こちらにも同様に生簀が設けられていた。そしてその裏には漁協や船着き場、造船所が続き、海へとつながっていく。
この港町を俯瞰することのできるもう1つの場所が、肱川の対岸に発展してきた漁業集落、沖浦の防波堤上である。
長浜のまちは対岸から一望できるほどに小さく、平坦である。空と川に挟まれるように横たわり、山によって周辺との縁を切られた砂州上のまちの風景は閉鎖的であり、前述のようにそれ自体で完結した箱庭のような印象を与える。
自分が住むまちを俯瞰することで得られる感覚とはどのようなものだろうか。それはミニアチュールをのぞき込むような感覚や碁盤を前にするような感覚に近いのではないだろうか。つまりそれは自分自身の住まう場所やそこでの生活を相対化し、見つめ直す行為であるといえるだろう。
平坦な土地とその上に遍在するランドマークの存在がまちの座標と場所の相対化を容易にしているとも考えられる。いずれにしても、茫漠と広がる都市におけるよりもはるかに強い、場所への間主観的な感覚を有することができるのではないだろうか。居住するまちの中における自らの生活や行動を俯瞰的に認識することは、このような小さなまちとそこに住まう人の存在論的な関係性、より簡単には愛着の構築の上で大きな意味を有しているのである。
港湾都市として栄華を誇った長浜には海に関わる産業遺産が今でも多く残されている。これらの建築物の多くは、現在は使われなくなり、機能を失ってしまっているものの、それぞれの場所に意味を付与することで、小さなまちの中に多様な空間を生み出している。例えば、肱川と伊予灘に面する場所には多くの倉庫が残されており、なかには船小屋を隣接した住居もみられる。防波堤の整備が行われた現在でも、その辺りにはかつての時代における海との距離の近さが空気感として残存している。
また、港町の消費を支えることで発展してきた漁村集落の沖浦では、戦後の需要拡大に伴い埋め立てが急速に進められ、膨大な数の生簀と船小屋が短冊状につくられた。しかし、冷凍技術が発展し大型の生簀が必要なくなった現在では、これらの建物は風景の一部と化している。海に向かって集落の外側に並ぶ巨大なコンクリートの筐体はあたかも遺跡のようだ。
肱川に架かる長浜大橋は1935年の完成後いまだ現役で動く日本最古の道路可動橋であり、当時の技術水準の高さを伝えるものとして国指定重要文化財として登録されている。まちの住民から愛されており、その特徴的な色から「赤橋」と呼称されている。現在では南方により幅の広い橋がつくられたことにより、長浜大橋の利用者数は減少したが、この橋の存在がかつて長浜がいかに重要な港町であったかということを伝えてくれるのである。
川岸には多くの船と木材が並び、大型船の往来に合わせて長浜大橋が開門する、港湾都市として繫栄し、海と川を介して多くの場所と繋がっていたかつての活況をも喚び起こすだろう。このように、長浜の狭い領域の中には海の産業に紐づく無数の風景が埋め込まれている。これらの遺産を効果的に転用し、これまでにつくり上げてきた港の空気感を継承していくことがまちにとっての重事であるといえるだろう。
そうしたなか、愛媛県立長浜高等学校が校舎内に水族館を併設する高校として注目を集めている。水族館は学生主体となった「水族館部」によって運営されており、彼らによる研究は世界的な評価を受けている。また、高校内水族館開館のきっかけとなった「長浜まちなみ水族館」の活動も現在継続されている。年に一度、まちの鮮魚店の生簀を利用して魚を展示し、高校の水族館を拠点にいろいろな場所をつなぎ合わせてまち全体を水族館にしようという素敵なまつりである。
海と山に囲まれた陸の孤島であり、高度経済成長期以後の産業構造の転換によって成長が止まった長浜では、経済のグローバル化に伴う均質的な開発や無秩序な住宅地のスプロールによって空間構造が大きく破壊されることはなく、近世都市の伝統的なスケール感を保ちながらまちの機能を辛うじて更新してきた。その結果、長浜のまちは狭い領域の中にさまざまな機能や空気感を有する場所を残すことができており、その密度と混成度は、茫漠と広がり彷徨うような現代の都市居住とは対称的である。
歩くことのできる範囲の状況をよく理解し、自分がどこに立っているのか、何をしているのかを場所とともに感じることは、まちへの愛着を醸成するとともに〈近傍〉の感覚を育成する重要な基盤であるといえるだろう。
複数のコミュニティーが重なり合い、生産と消費、そして生と死が近接する領域の中で自身の〈近傍〉を自然に体得し、自身の場所を耕作することによって、漂う現代社会の中で「離れて立つ」ことが可能になるのである。
2022年2月22日