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高松市街より琴平方面へ車で30分程の県道沿いに畑田という地名の場所がある。南方に讃岐山脈を抱き、北方にはいくつもの低山を望む緩やかな傾斜が続く風光明媚な田園地帯である。私たちは、讃岐山脈の足元に位置する高松空港より本津川沿いを下って近づき、最後に一息に崖地をかけ登り、この地域一帯の総鎮守である畑田八幡宮に到着した。
断崖の突端に鎮座するこの神社は広々とした境内を有している。南に伸びる長大な参道には灯篭が立ち並び、社殿のまわりは境内林に囲まれ、神社境内の背後には薬師堂が控えていた。その荘厳な佇まいがこの神社と地域の由緒を物語っていた。
崖下からは樹木にすっかりと覆われた神殿を見ることはできないが、田園に横たわる巨大な境内林は古代遺跡さながらの様相を呈しており、地域一帯のモニュメントとして風景の中に溶け込んでいる。
畑田は複雑な地形よりなるまちである。南北を山地に囲まれた台地上の土地は微地形と断崖の様々な組み合わせによって形成されている。南北に走る断崖によって大きく視界が分断される場所もあるが、総じて見通しの良い景観を有するまちである。
訪れたのは2月下旬の晴れた日であったが、讃岐山脈から吹き込む空っ風がとても冷たかったことを思い出す。障害物の少ない緩やかな斜面地をなでるようにして冷たい風が吹き抜けていたのである。さらには、ため池と農地の表面温度の差によって、時折突風が生じていた。
この地域一帯は古代からの穀倉地帯である。仁和年間(885-889)に創建されたとされる八幡宮が鎮座していることからも、古い歴史を有する地域であり、そしてこの地域一帯の政治的な中心地であったことがわかるだろう。
畑田の周辺は瀬戸内海に位置し降水量が1年を通して少なく、大きな河川も通っていないため、空海らによって農業用水の確保を目的としたため池が多くつくられた。またその頃大陸よりうどんが伝来したとされ、讃岐うどん発祥の地としても知られおり、現在でも多くのうどん屋が存在している。
大正15年(1926)に高松-琴平間の鉄道路線が敷設されたことで、高松市街まで1時間で出られるようになった。高度経済成長を経て郊外住宅地としての需要が高まった結果、1970年代中頃に挿頭丘駅を中心に大規模な住宅街の開発が行われた。それ以降に農地の一部や道路沿いおいて徐々に小規模な開発が進められ、農家と勤め人家庭が同居するまちとなっていった。
メッシュ内には断崖下のまちの東部を縦貫する産業道路(県道39号線)にいくつかの飲食店と工場があるものの、目立った商業施設は存在しておらず、住民は食料や生活必需品の買い出しに車で5分程度の隣町のスーパーを利用する必要がある。中学校や病院などへの通学通院も同様に綾南町に依存している。まちなかの生活機能は高いとはいえないが、高松市街にすぐに出ることができる点では住みやすいまちであるといえるだろう。
このメッシュ内には大小合わせて11個のため池が存在している。メッシュ東部の崖下一帯の平地を除いて耕地整理が行われておらず、複雑な形状の土地利用が継承されているのは、ため池の存在と複雑過ぎる地形が理由だろう。所々にみられる小規模な微高地と東部を縦断する崖線のほかは、全体的に北に向かって緩やかに下っており、その傾斜に合わせて複雑な形状のため池と農地が基段状に形成されてきた。それらが生み出すジオメトリに応じて次の4つの居住形態が重層的に配置されている。
1つ目は分散的に独立して存在する農家である。これらは旧家であり、その多くは屋敷前に小規模な畑を有し、周囲に屋敷林を設けている。なかには新しい建築に建て替えられている住居もあるが、多くの場合において畑や樹木は残されている。
2つ目は微高地や崖地上に存在する集落である。これらも成立は古く、伝統的な空間構造が継承されてきた。微高地の集落の場合において、もっとも地表面が高い中心部分に道が通され、その両側の少し下がった土地に各家の畑と屋敷が順に配置されている。道と畑の間にできた微妙な高低差がインマテリアルな境界装置としての役割を果たすと同時に、畑、つまりは庭が共通の空間に晒されることによって自然と集落の集合性が高められていると考えることもできる。また、各敷地間には水路が設けられ、集落外の低地に下水が流れていくようになっている。平坦な土地を水田として効率的に利用し、衛星や水害を鑑みた結果であるといえるだろう。一方、崖地上の集落においては、日射条件から樹木栽培を行っている農家をみることができた。
70年代以降、前述のように伝統的な土地利用に重なるようにして、大小のまとまった住宅地が開発されていった。以上に加えて、80年代以降に多くみられるようになっていく、道路沿いの農地を部分的に宅地化した戸建て住宅が存在する。
このまちにおいて最も感銘を受けたのは、緩やかな傾斜と巨大なため池によって生み出された空白に起因する方向をもたない一望性の高さであった。そしてさらには、屏風様に連なる低山を背景にどこからでも同様の眺めを得ることができることに気がつく。離合集散する低層の建築群が眺望の邪魔になることはなく、むしろ心地のよいリズムを生み出しているのである。また、境界装置を設けない住居が多いことも、風景の一望性を高め、地形の豊かさを感じさせる大きな要因であるといえる。たとえば1980年頃に建てられた住居は、道路側にこそ塀をもつものの敷地の後部には隔てるものが何ももたず、敷地の境界を越えて遠くの住居までを一望することが可能である。このように住居間や農地との間に大きな境界装置を設けず、空間的な連続性を保持している住居が畑田には多い。そのため農家であれ勤め人の住居であれ、同様の空気感を表出している。
このように傾斜のある土地において対象とのあいだに巨大な空白がある場合、つまり大きな気積を有する場合においては、一般的に視覚によって把握する対象物との距離の感覚に錯覚が生じ、対象物が実際の距離よりも近くにあるように見えるのである。そうした認知の仕組みが、周囲の環境を実際の距離に関わらず見る者の近傍に感じさせるような現象を引き起こし、風景の一望性の高さを増強していると考えることができる。
以上のような全体性をもった風景を生み出している一方で、巨大な水面を挟んで遥か対岸に望む旧家や住宅街、桜並木や工場、そして浄土を模して寺院の彼岸につくられた墓地まで、ため池は畑田の断片的な風景にも特別さを与えている。なかでも、ため池と周囲の住居との微妙な高低差、そして土手に囲まれた畑で営まれる小さな農業風景は、複雑な形状の田畑とともにこのまちの風景に彩りとリズムを与えているといえるだろう。
畑田の風景を特徴づけているのはため池だけではない。住居の敷地間にもまた別の興味深い風景が生じている。背後に農地を有する多くの場所において、本来道のなかった敷地間にどちらか一方の敷地から土地が拠出され、表の道路から農地へと通り抜けるための「畔道」がつくられているのだ。
興味深いことに、これらの道は居住者だけではなく、半ば一般にも開放され、多くの人びとが散歩道や近道として利用している。そして、これらの「畔道」は水田の畦道に直結しているため、車では侵入することのできないような地図上では巨大なヴォイドとなっている領域を、歩行者は複雑な地形の縁として形成された畦道を縦横無尽に渡り歩くことで、好きな点から好きな点へと自由に移動することができるのである。
このような道は微高地や崖地の古い集落や大規模な住宅地にも同様に存在する。前述のように、水利のために微高地につくられた集落はその内部に小規模な畑を内包しているが、それらの畑と周囲の農地は道を介して連続している。70年以降に農地を転用して開発された水田中に浮かぶ島のような住宅街もまた、内部から外側の農地へと繋がるいくつもの抜け道と住宅街を住宅街の外周を取り囲むようにして繋ぐ道を有している。
これらの道や畦道はとても細く、時に鋭角に折れ曲がり、時に段差を乗り越えなくてはならないため、自転車ですら通ることは困難である。交通ではなく、農作業のためにつくられたこれらの道々が、畑田に住む人全員が自由な歩行を実現するための道に読み替えられ、自律的、有機的に接続されていったことによって生まれた歩行空間はかけがえのない財産である。
以上でみてきたように、可視不可侵な性質をもつ巨大で平らなため池と自由に渡り歩くことのできる小さく分割された少しずつ高さの異なる水田、まちの領域の大部分を占める2つのヴォイドの連なりが、このまちの風景の基層を構成している。そしてその上を私たちが歩き、見ること、その運動感覚を通して風景を完成させるのである。
ここまでにおいて、おもに空白の観点より畑田の風景について記述してきたが、最後にこのまちの人口の大部分を占めている住宅街について目を向けておきたい。すでに述べてきたように、70年代以降、戦後の経済成長とそれに伴う産業構造および家族構造の変化よって、琴平電鉄挿頭丘駅駅を中心に大規模な住宅地開発が行われた。核家族の勤め人家庭に最適化された、車庫と庭付きの2階建て妻入り木造住宅がグリッド状の街区に沿って一列に並んでいる。空き家になっている住居はほとんどなく、統制のとれた形式をもつ妻面とブロック塀の連続が落ち着きのある町並みを形成している。
しかしながら、新しい世代のための郊外住宅地として開発され、当時は最新であった住居にも建て替えの時期は迫ってきている。高松市街まで自動車で30分、電車の便も良いという立地を活かしつつ、均整のとれた町並みを損なわずにどう世代交代をしていくことができるかを今から考えなくてはならない。住むべき場所としての遺産を上手く継承していけるかどうかが、畑田のみならず高松や琴平を含めた地方経済圏の自律的維持の実現のための分水嶺となる。
商業的価値をもたないまま発展してきた畑田が、住むべき場所として魅力的であるといえる理由は、このまち全体の風景とその歩行可能性にある。古代より地域の中心地として育まれてきた農風景は、勤め人である住宅街の住人にもしっかりと開かれている。豊かな風景の中を裏庭に繰り出すような気持ちで自由に歩くことは人の心を癒し、暮らしの活力を生み出すだろう。
2022年2月21日