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半田は徳島市街より車で1時間程度吉野川を遡上した周囲を山に囲まれた谷地に位置する。徳島県南部にそびえ立つ剣山を流れる半田川と吉野川の合流地点において、狭小な扇状地や河岸段丘上と吉野川沿いのわずかな平地に発達した高地上につくられたまちである。
半田はこうした大河と山川が合流する地形の特徴を活かして、山が産出する物資を都市へと中継する交易の拠点として発展してきた。このようなまちは谷口集落と呼ばれ、水運が交易の主力であった近世において全国的に広く形成されていった。現在、その多くは交通の近代化と産業構造の変化にともない、成長から取り残された場所となっている。
近くには「うだつが上がる」という言葉でよく知られる、うだつの町並みで有名な脇町という商業で発展したまちが位置している。また吉野川流域のこの辺りは、極めて標高の高い位置に集落が位置していることでも有名である。吉野川の川面よりも幾分高い位置に形成された河岸段丘上からその背後に迫る山の斜面地にかけて多くの集落が群生しているのである。
視線よりも随分と高い場所に位置する集落を右手に見ながら吉野川に沿って下道を走っていくと、対岸の山の裾野に開けた扇状地と集落が見えてくる。橋を渡り、JR阿波半田駅前に車を停め、新しくつくられた太い車道の坂を登っていくと等高線に平行に形成された古びた商店街へとたどり着く。さらに坂を登ると、そこには斜面に沿って段状に農地が広がっていた。
半田では山間部と城下町との間での交易を主とした商業とともに、冬季の寒冷な気候や山方で産出する一次産品を利用した手工業が興り、漆器や素麺などが特産品として知られた。商工業が発達した当地では、おもに商人層を基盤として石門心学や俳諧などの文芸活動が盛んとなり、商人文化が花開いたのである。現在では商工業のまちとしての面影はなく、多くの人が近隣市街や徳島市内において会社勤めをしているが、まちの中には依然として製麺所が多く営業しており、半田素麺の生産地として全国にその名が知られている。
まちの隅には鉄道駅があり、吉野川対岸には高速道路のインターチェンジもあるため、徳島市街へのアクセスはよい。まちには小規模なスーパーマーケットとコンビニエンスストアが、対岸にはオープンモール型のショッピングセンターがあるため生活には困らないと考えられる。町立の病院や高齢者施設も充実している、静かで穏やかなまちである。
本メッシュには丘を挟んで2つの領域が含まれている。
戦前は、吉野川の川湊として機能していた半田川河口の小野(丘の北側)と半田川流域の谷口集落の役割を果たしていた逢坂(南側)に人家が密集していたほかは、逢坂の対岸の田井地区に小規模な集落がいくつか点在していただけであった。
吉野川に面する小野は勾配の強い土地であり、等高線に沿う形で町場が形成されている。背後の斜面地には田畑が広がり、当時では住宅はほとんど見られなかった。丘を越えた先には、上流に向かって緩やかな勾配はあるものの、狭小ながら平地が広がっている。半田川右岸の狭い土地に極めて密度の高い集落である逢坂が形成され、対岸の平地の大部分は農地として利用されていた。しかしながら、丘の北側南側ともに、60年代以降徐々に宅地が増え始め、現在のようなかたちとなった。
耕作可能面積の不足から丘の側面のほとんどが棚田として耕作されていたが、農業人口の減少にともない、90年代以降には放棄される土地が増え、その後、逢坂の背後の丘の上を除いて植栽や樹木が植えられるようになった。
小野の商店街の南側には背後の斜面地へと上がっていく坂の入口が一定の距離ごとに設けられている。坂は隣り合う宅地や段状の田畑よりも低い位置に通されているため、私たちは家や畑を目線のやや上に見ながら、石垣に囲まれた中を登ることになる。細く長い坂道を登り切ると狭いながらも平らな土地が広がっている。戦後に農地の転用が進むまで、住居は傾斜のもっともきつい商店街の周辺にまとまってつくられていた。平坦な土地をできるだけ農地として利用するためである。その後人口の増加と生活様式の変化にともなって、斜面を登るための農道に面して住居が少しずつ建てられ、農道にはインフラ整備が行われ、現在のような道がつくられたのである。
興味深いのは、正確ではないが基本的には道の片側に住居が建てられ、もう片側に農地が残されていることである。そしてそれらは3、4軒を単位にして道の左右どちら側に建つかを入れ替えているのである。これはおそらく、日あたりの悪い農地をできるだけ減らすための共同体内における空間利用の方針によるものであるといえるだろう。
その結果、現在見られるように、住居の集まりと農地がそれぞれ分断されることなくリズムよく均等に配置された空間ができあがったと考えられる。斜面に沿って連続する農地はこのまちに大きな視界の広がりをもたらしている。とくに斜面地の上から吉野川の方向を見るとき、特別な風景が広がっていることに気がつくだろう。
小野のまちを歩いていて、あるいは坂を登っていて感じるのは、背中に空を負っているような感覚ではないだろうか。商店街から背後の斜面地へと抜ける坂道を、身体の左右を石垣に囲まれ、前に地面を見ながら登るとき、振り向かずとも背後に何もないことをうっすらと感じ取っている。そして、石垣を通り抜け、壇状の畑が広がる開けた場所で自身の周囲を見渡すと、背後には遮るものの何もない空が存在し、私たちに覆いかぶさろうとしていることに気がつき、驚かされるのである。
半田を訪れたのは冬から春に変わろうとするまだ空の高い時期であったが、都市のビルの隙間ごしに見る空や平地の平野部でみる空よりも随分と距離が近く感じたことを覚えている。それは何もない空(くう)ではなく、より質量や密度をもったより具体的な空気の塊のようなものとして感じる何かであった。
おそらくそれは、吉野川が長い年月を経てつくり出した大きな谷の斜面と斜面によって挟まれた目に見える巨大な空間に対するある種触覚的な感覚であるといえるだろう。
そうした空気の層を通して、吉野川対岸の讃岐山脈とその中腹に位置する高地性集落が見える。川を挟んで遠く離れた場所にある対岸のまちがこちら側の景色と同一平面上に連続して見えることによって、中景をもたない奇妙な風景が生まれている。このような中景をもたない風景は高地のまちにおいて特徴的な風景であるといえるが、小野のまちで見たように、自身のいる場所と同質の雰囲気をもつ場所に、鏡を向き合うようにして対峙する体験は、大河が長い時間をかけてつくりだした巨大な谷の中に存在しているという強い感覚をもたらす。吉野川流域一円において共有される歴史的風景であるといえるだろう。
吉野川の谷の背後の丘を越えるともう1つの谷が目の前に現れる。谷の様子を眺めながら長い坂を下りきると、山と半田川に挟まれた少しの平場に密実につくられた、かつて谷口集落として栄えた集落に到着する。逢坂は商人の集落であったため、各屋敷の敷地内に農作業を行うための大きな空間は必要なかったのだろう。実際、半田川対岸の田井地区の農家は比較的ゆとりのある空間構成をもっている。
逢坂では等高線に沿うように2本の道路が集落の外周部を回っているが、その中に自動車で侵入することは不可能である。集落の中には人1人が通れる程度の細い路地が敷地と敷地の間を迷路のように何本も通っている。路地と敷地との間に設けられた境界装置の高さは低く、敷地の余地に開放的な菜園をつくっている家も多くみられた。一部の路地には椅子が置かれており、路地を生活空間の一部として、あるいは世間話の場所として利用している様子も垣間見えた。
隣家との垣根をあえて低くし、互いの生活をさらけ出すことで路地を開放し、住宅の廊下のように各家庭の接点として利用していたのである。路地に対する住居の接し方は庭を挟むもの、勝手口に面するもの、玄関と正対するものとそれぞれであったが、いずれも路地に対して閉じておらず、いつでも隣家と会話が始まるような親密な雰囲気を醸し出していた。
こうした雰囲気は空間によって大きく影響されるものである。そしてその空間は近世期に芽吹いた商人文化がつくりあげたものであった。勤め人家庭がほとんどとなった今も、残された空間によって、親密で開放的な空気感が継承されているのである。
一方、対岸の田井地区は緩やかな傾斜をもつものの、山間の広大な平場であり、その大部分が農地として利用されてきた歴史をもっている。農地は緩やかな傾斜に平行して短冊状に区分されており、現在も広い面積で田や畑が耕作されている。集落の各屋敷は逢坂と比較して広い敷地を有しており、農小屋やトラクターのガレージ、作業場などとして使われており、隣地との間には比較的広い道が通っている。
また、山際には棚田がつくられており、その周囲には農家の屋敷が段状に建てられている。戦後の航空写真や神社や寺院が位置することから、本来はこちらがおもな集落であり、平場はすべて農地や農作業場として利用されていたことが推測できる。それらの集落の間に県道が整備され、道に面するようにして住宅地開発が進められた結果、谷に広がるかつての無垢な田園風景は失われてしまったが、都市的な空間である「町」と農的な空間である「里」が川を挟んで同居する谷全体の空間構造の骨格は変わっていない。住民たちが日常的に体験する運動感覚を伴った風景は、かつてと変わらず、剣山の上流へと続く谷の中に位置づけられているのだ。
丘を挟んで発展した2つのまちは、それぞれの谷に位置づけられた風景をもっており、それはそこにいる人自身の存在を谷の中で確認するような感覚を呼び起こすものであった。
丘の上の突端には古くより寺院と共同墓地があり、半田のほとんどの人がそこに眠っている。それ以外の平場は従来農地として利用されてきたが、現在は高齢者用施設が立ち並んでいる。これらの建物はまちのどの位置からでも見ることができ、その存在を忘れることはない。反対に丘の上からは北側と南側の両方のまちを常に望むことができ、生まれた頃から自身を位置づけてきた谷の風景に抱かれながら生涯を終えることができるのだ。近親者の死、あるいはまちをつくってきた先祖や他家の人間の死、そして自身の予告された死を背負いながら生活することの充実を都会の人間は知る由もないだろう。
2022年2月25日