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周防大島は瀬戸内海に数ある島嶼のなかでも大きな島の1つであるが、広島市からも山口県の中心からもアクセスしづらく、本州と四国とを結ぶ交通もないことから、他所から人が訪れることの少ない遠い離島であるといえる。
そうはあっても、この島を訪問することに決めた理由は、民俗学の巨人であり、島嶼の発展に尽力した宮本常一の生まれ故郷であるからにほかならない。周防大島の西部に生まれた宮本は、子どもの時分にこの島から愛媛は松山へと連綿と連なる群島を眺めて、島を出て世界を見たいと思ったそうだ。そして実際に宮本は家と家族を島に残して、東京を拠点としながら日本中を歩き回り、数多くの民俗誌を書き残したのである。
宮本への想いを胸に抱きつつ、本州の先端ともいえるこの島を目指した。広島市街を出発して1時間半ほどの運転で到着することを予定していたが、この日は大雪の影響で3時間以上かかったことを記憶している。
久賀は東西に伸びた周防大島の北側中央に位置する、南に山を背にした傾斜地と北に平坦な湾岸をもつ港町である。
大島大橋を越えて大畠瀬戸を渡り、まちに近づくにつれて見えてきたのは、日本のどこにでもあるような、山と海に挟まれた港町の情景であった。防波堤と港、埋め立てられた海岸道路とそれに平行する町場、その背後の傾斜地に混在する農地と住宅、学校や行政などの公共建築、そしてすぐ後ろに迫る山といった要素が、日本のまちの普遍的な風景をつくりだしていた。
久賀は、江戸時代には漁業と商業を主産業とする浦方と農業を主産業とする地方に分かれており、それぞれに庄屋が置かれていた。地方では、多肥栽培によって農業の集約化され、その余力で女性による木綿織りが盛んになり、その副産物として綿実の搾油業が起こった。漁業は一本釣りが盛んであり、広島湾に大きく開いた港をもつことから商業と廻船業も隆盛し、その結果、久賀は島の経済の中心を担うまちとなっていった。
文化の中心でもあり、絵画や俳諧、心学や儒学が盛んに行われ、幕末には医学や洋学までもが入ってきた。近世末期にサツマイモ栽培と出稼ぎが普及したことにより人口が増大したという。
明治時代になって、警察署や役場、病院や学校、銀行などの施設が設置された。明治29年(1896)からは大阪港発の中国航路が久賀港に寄港するようになる、また大正12年(1923)には島北側の海岸道路が完成するなど、徐々に島内外における交通が整備されていった。
近代以降の主要産業は織布工業と酒造業であったが、戦時中に行われた企業整備によって衰退する。農業は米麦が主流であったが、昭和になって温州ミカンの栽培が伸び、とくに昭和30年(1955)代後半からの農業構造改善によって、水田からミカン園への転換が進んだ結果、昭和10年(1935)の75haから同50年(1975)の416haへと栽培面積が激増している。ミカン栽培によって子どもを育てることができるようになった家が多かった。それまでの生活は貧しく、食料も不足していたため、政府が斡旋するハワイへの移民に多くの島民が応募している。
現在も商店街はまちの中心を担っており、複数の店舗が営業している。近隣にスーパーやコンビニエンスストア、ドラッグストアやホームセンターがあり、食事ができる場所や宿泊施設も複数存在している。高校までの教育機関があり、病院はないが自動車教習所はあるというように、島を出なくても久賀のまちなかで一通りのことができる。また、自動車で30分かけて本州の柳井市街に出向くと大きなショッピングセンターや公共施設があるし、海岸には小さいながらも砂浜が残されている。つまりはおおよその欲しいものが揃ったまちなのだ。
このまちの人口は、海岸線の少し内陸に通る街道を軸に、とくに津原川河口から久賀港の西端までの商店が立ち並ぶ範囲において、海側へ広がるグリッド状に密実に形成された街区と、山側にむかって津原川とのあいだに挟まれた三角形の平地に集中している。戦前においては上記の範囲に人家が集まっており、それ以外は傾斜をのぼる道に沿って疎らに農家が並ぶのみであった。社寺に関しても、久賀の氏神である八田八幡宮が台地上にある以外は同様にすべて上の範囲に鎮座している。
近代以降に酒造業が盛んになるにつれて、漁業や商業にまつわる町場が形成されていた街道沿いから徐々に川沿いの平地にまちが発達していき、それが斜面地に形成されていた地方の集落に接近していったことが航空写真から読み取ることができる。
海側に形成された町場は建築物だけが密実に立ち並ぶ街区となっているのに対して、前述の三角地帯は道路沿いにのみ住宅が建てられ、その背後に大きな農地が残されているような街区となっている。格子状に敷かれたこの道路は古代の条里制に由来するものであるとされている。
道路の間隔が広かったために中心に農地を残したまま開発が進められていったのだろう。ここは商家でも百姓でもない零細な兼業農家と、酒造業をはじめとする新興製造業の屋敷が入り混じって存在する場所であった。だからこそ、あえて新たな道を通さずに農地や空地を残したのではないだろうか。
現在でも住宅と住宅の隙間から大きく空に開かれた農地を垣間見ることができるが、こうした空間の余白がこの地域の生活にゆとりをもたらしていることは確かである。とくに空き地が増えてきた昨今においては、空き地と農地が連なることによって窮屈な街路のなかに広大な視線の抜けが生じている。
前述の通り、昭和50年(1975)頃には水田耕作がミカン栽培に取って代わられ、斜面地上の棚田のほとんどすべてがミカン園に転換される。そして、残った平地の水田も現在までにはその多くが県営住宅や新興住宅地、またはミカン園に転換されてしまうのである。人口が増え、住宅のスプロールが起こった1970年代以降においても基本的な空間構造は変わらなかったが、農地利用だけは大きく変化したのであった。
このまちのもっとも大きな変化は、まちの景観要素にミカンの木が加わったことであったし、そのミカンによって多くの住民が飢餓から脱することができたのである。
そのミカン園が広がる斜面を登っていく。周囲には農家らしい開放的な庭と外構をもつ住居が疎らに建っていて、その間を埋めつくすようにミカンの木が植わっている。ミカンの樹高は人の身長よりも少し高いが、畑の地面が道路より下がっていることから、親密さは感じれど圧迫感はない。場所によってはミカンの樹冠と屋根の上に瀬戸内海が浮かび、その上に対岸の島が漂う不思議な情景を見ることができる。
まちの端、山際まで登り切り、うしろを振り返ると海への眺望がはっと開く。傾斜の効果によって海が実際よりも近く感じられる。視界を遮るものはなく、久賀のまちを一目で見ることができる。遠くより漁港、海岸道路、商店街、住宅地、農地が順番に並び、ところどころに鎮守の森や寺院の大屋根が顔を出している。まちの古い領域の外周には学校のグラウンドや自動車教習所のコース、スーパーマーケットの駐車場などの大きな空地が横たわる。その先には農地と住宅が混在するような領域が広がるものの、斜面地に差し掛かるとミカン園に切り替わり、山際までを埋めつくすといったように、久賀のまちの領域はいたって判明である。
山と海のあいだの限られた領域において、いにしえの時代から現代にいたるまで、久賀のまちはその空間構造を大きく変えることなく存続してきた。戦後の引揚者や人口増に対応するべく県営アパートの設置や小規模な住宅地開発が行われたものの、領域中に住宅のみが均質的に立ち並ぶような状況にはいたらなかったのである。
それは単純に外部からの移住者による極端な人口の増加が起きなかったことによるものである。日本全国のほかの沿岸部でも同様の特徴をもったまちは存在しており、上記のような風景を見ることができる。日本の原風景という場合、田園風景を思い浮かべることが多いだろうが、こうした沿岸のまちの風景に対しても、山と海に囲まれた日本の原風景であるということができるだろう。
自身の眼でまちを一望したあとでは、以前とは違った目線でまちを見ることができるようになる。戦後に農地を転換して開発された住宅地をよく観察してみると、小規模な開発であるにもかかわらず、軒を並べる各住居のうしろには小さな農地がほとんどの場合において設けられており、複数の家の農地が隣り合わせに並ぶことで共同の中庭のようになっていることに気がつく。また、県営アパートにおいても共同農地が付設されていて、住民が自由に農作物を育てることができるようになっている。言わずもがな、そうした場所がコミュニケーションの生まれるきっかけとなり、社会的孤立の解消に役立っているのだろう。少し余った敷地にミカンの木が数本だけ植えられているという風景にもたびたび遭遇した。まちにとって重要な意味をもつ木を、愛着をもって育てていることを読み取ることができる。
このような些細な風景のなかに久賀の住民が営む生活の一端を見ることができる。宮本常一もよく食していたと記す、かつてはかさましのために米に混ぜこまれることもあった干し大根が住宅の軒下で作られていた。段ボール箱の上に雑に置かれたざるで干されていた細切れの大根はその量からして本日の夕食のおかずだったのであろう。
散歩の最後に久賀歴史民俗資料館を訪問した。宮本常一が尽力し、久賀の住民とともに設立したこの民俗資料館は数多くの民具を保存展示する日本屈指の資料館である。民具は、当時の島民がいかに苦労しながらその生を営んでいたかを寡黙に語る。現在のまちの風景は私たちに何を語りかけるだろうか。
漁業や廻船業を通して、あるいは出稼ぎやハワイへの移民によって、この島は世界とつながってきた。群島のもつ想像力と詩性が宮本常一という巨人を生み出し、近代社会に忘れられた島々こそが世界の中心であることを提示せしめたのである。
現在もっとも普遍的なまちの姿が群島にある。まちの風景を新しい想像力として世界をとらえなおすことは可能だろうか。
2025年2月24日