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しまなみ海道は、6つの島を渡りながら本州の尾道市と四国の今治市とを結ぶ、自転車や歩行者も通行可能な高速道路である。そのしまなみ海道が通る島のうち、尾道から数えて2つ目にあたるのが、今回訪れた因島である。この島に注目したのは、島のちょうど中央に位置する中庄というまちに興味をもったからであった。多くの場合、まちは島の外周部に形成される。それは漁業や水運に適しているためであり、不便な島の中央に、ある程度の人口規模をもつまちができていることは珍しい。
もう1つ、この島に惹かれた理由がある。中世、因島は村上海賊(村上水軍)の拠点として栄えていた。そしてその拠点こそが、島の中央のまち——中庄なのであった。
島の中央にまちが形成された理由についてはすぐに答えが出た。因島は2つの山系によって構成されており、言い換えれば、2つの島が連なってできた島である。そのため、島の中心から北西にかけてはかつて大きな入り江が広がっており、その最深部、すなわち島の中央部が海賊の根城となったのである。
後述するように、その入り江は近世から現代にかけて埋め立てられ、現在は平地となっている。しかし、海賊の拠点であった時代にこのまちの基礎が築かれ、近世・近代を通して発展し、農業を主産業とする現在のまちが島の中央に成立したのだ。
私たちは島の中央を走る国道を通って中庄へと向かった。まちの中心を抜ける道路沿いの駐車場で車を停め、外に出た瞬間、周囲から見下ろされているような視線の気配を感じたのである。
因島は、瀬戸内海有数の海の難所である来島海峡を避けるためにできた「安芸地乗り」とよばれる古くからの主要航路が島の北側を通っていたことから、中世においては村上海賊(村上水軍)の拠点として、近世には廻船操業によって、そして近代以降は造船業によって栄えてきた島である。そのなかで中庄は、島の政治・経済・文化の中心としての役割を担うだけでなく、郡内の島嶼部全体における中心としても重視されてきた。
中庄湾の埋立工事は近世を通じて進められ、塩田や新田の開発によって新たな土地が形成されていった。近代的な灌漑技術が導入される以前は製塩業が主流であったが、それでも中庄は、平地が極端に少ない島内において水田率がもっとも高く、生産力の大きい地域であった。近代以降も埋立事業は継続し、より広大な新開地が造成されていくが、それらの土地は水田ではなく、周囲の丘陵地と同様に、温暖な気候を生かした花木や柑橘類などの商品作物の栽培に利用されていった。
1953年、因島は市制を施行し、周辺の島嶼部のなかで唯一の市となった。これによりインフラストラクチャーの整備が進み、因島は周辺諸島の中核としての機能をいっそう強めていった。まちの中心を通る国道の拡幅工事が行われたのもこの頃である。1983年の因島大橋の開通によって本州側と、1991年の生口橋の開通によって生口島と陸続きとなり、1999年のしまなみ海道の開通によって尾道と今治とを結ぶ主要経路の一部となった。交通体系の変化は、第一次産業から第三次産業へと産業構造の転換を促し、島全体が観光開発を指向するようになっていった。
1970年代には、まちの北方に広がる海際の埋立地に住宅団地が次々と建設され、それにともなって湾岸部への工場誘致も進められた。現在では、中庄から海に向かっておおむね同程度の人口密度をもつまちが形成されており、これらのまちの生活機能を支えるために、国道沿いにはオープンモール型のスーパーやドラッグストアが並び、まちなかにもコンビニエンスストアが2店舗ある。教育機関は中学校まで整っているが、病院や行政機関は造船工場のある島南部の土生港に集約されている。また、大きな買い物は車で30分ほどの尾道市街で行うという。
中庄は、かつて入り江が存在した時代に水面上に形成された領域と、その後の埋立によって塩田や水田として利用され、さらに宅地へと転用されていった領域とに、大きく二つに分けて考えることができる。現在の中庄の空間構造は、後者の低地を前者の斜面地が馬蹄形状に取り囲むようなかたちとなっている。また、斜面地上の宅地に隣接する土地のほとんどと、低地の大部分が柑橘類の果樹園として利用されていることも、このまちの空間を特徴づける要素となっている。
1960年代初頭に撮影された航空写真から、拡幅前の国道に沿って水路が流れ、その両側の低地に水田が広がっている様子が確認できる。また、低地には国道と平行してもう1本の道が通っており、その道に沿って短冊状に区分された土地が並び、人家が密集していたことがうかがえる。これらの集落は、近世の埋立後に形成されたものであり、それぞれの敷地には一定の広さの庭が確認できることから、水田経営に携わる農家の集落であっと推察される。その後、この集落を核として周辺の農地が転用され、住宅や県営住宅が建設されていった。
一方で、山の斜面地では、柑橘類の栽培が広範囲に行われており、周囲を取り囲む山麓の大部分が果樹園によって覆われていた。山裾には農家の住宅が点在しており、それらは海際の複雑な地形に沿って複数に分岐しながら斜面地の上下に通された道にぶら下がるように、やや離散的に分布している。それぞれの農家は広い敷地を有しており、その敷地内でも柑橘類を育てているため、斜面地全体が柑橘類の樹木で覆われているようにみえる。現在では、柑橘類の栽培はかつてより縮小し、山麓の大規模な果樹園の多くは雑木林に戻っているが、農家の数や小規模な果樹園の分布には大きな変化はみられない。
また、その多くの住居は日本家屋であり、太い木材を用い、淡路瓦を葺き、重厚な門や塀、石垣を構えるなど、建築の格式が継承されている点にも注目したい。とくに斜面地の上方に建つ屋敷には、立派な日本庭園が設けられており、そこからもこれらの家がより格式の高いものであることがうかがえる。さらに、中庄には、この小さなまちの中だけで大小あわせて30近い社寺が存在している。その多くは、かつての海岸線である斜面地の縁——すなわち「みさき」に建ち、案内用の巨大な石灯籠が残る社寺も少なくない。これほど多くの社寺が存在すること自体が、海の時代における因島の栄華を物語っているのである。
斜面地を歩いていると、あまり体験したことのない強い浮遊感を覚える。それはまるで、実際の地面から数メートルほど浮き上がったところを歩いているような感覚である。この理由を考えてみると、2つの要因が重なり合って現れる現象であることが推察できたのである。
ひとつは中庄の特殊な地形によるものである。冒頭で述べたように、中庄は島でありながら、2つの山に囲まれた小さな「谷」のような場所にある。ところが、島の山は低く、頂も近いため、あたかも内陸で見るような山の中腹部に立っているような錯覚に陥るのだ。さらに、小さな島であるがゆえに、周囲の山の背後にさらに高い山が連ならないことも、山頂に近く、すなわち標高の高い場所に立っているかのような感覚を強めている。
もうひとつは、柑橘類の樹高の低さである。これは中庄に限らず、柑橘類を栽培する地域に共通してみられる特徴だが、柑橘類の樹高は2~4メートル程度と、ほかの庭木や街路樹と比べて低い。そのため、それらが道沿いに密集して植えられていると、無意識のうちに普段見慣れた木々の高さと照らし合わせてしまい、あたかも自分がそれらの樹冠の高さまで浮かび上がっているかように錯覚してしまうのだ。
中庄では、このようにスケールの異なる2つの錯覚が重なり合うことで、特有の浮遊感が生まれているのではないだろうか。ただし、この感覚は、こうした山や樹木のスケールに慣れない島外の人間だからこそ抱くものでもあるだろう。こうした錯覚からくる浮遊感とは別に、柑橘類が斜面地に密集して植えられていること自体も、興味深い風景をかたちづくっている。
まちの外周から眺めると、斜面に敷詰められた常盤色の絨毯の中から、いぶし銀の勾配屋根がところどころに顔をのぞかせている。低地に近づくにつれて建物の割合は増していくが、その隙間にもなお緑が差し込んでいる。それはまるで、樹冠のつらなりとしてよみがえった常盤色の入り江に、建物が沈み込んているような幻想的な風景であった。
さて、中庄にはもうひとつ興味深い景観要素がある。それは、まちを歩いていると、いたる丁字路や追分で出会う路傍の石祠や地蔵である。社寺の多さからも、このまちが信仰心の強い場所であることがうかがえる(おそらく水難に対する信仰だろう)が、とくに注目すべきはその形式である。中庄の石祠は、他所でみられるような建築的形式をもたず、ただ「水神」や「地主神」といった文字だけが刻まれた石が道端に固定されているのだ。記念碑や奉納碑であっても、具象的な意匠は施されず、文字だけが刻まれた抽象度の高い形式をとっている。そして何より、その数が非常に多いのである。
地蔵はさすがに具体的なかたちをもつが、安置されている場所が面白い。それらは道の端ではなく、個人の住宅や擁壁の石垣・塀をくり抜いてできた小さな空間に置かれているのである。特別な形態や空間を設けるのではなく、抽象化してできるだけ多くの場所で祀る、あるいは多くのことを記念するというのが、中庄の祈りのかたちなのだろう。いたるところに存在する文字だけの石祠や石碑が、このまちの「かたり」を強め、かつての入り江の幻を想起させるように感じるのは気のせいだろうか。
最後に、百姓の強さについて考えてみたい。中庄だけでなく、多くのまちで、商業や小規模農家の衰退が目立っている。その原因が、産業構造の転換や都市への資本の集中にあることは明らかであり、中庄でも、しまなみ海道の開通によって低地の多くの農家が離農し、尾道で働くようになった。
一方で、斜面地の代々続く家の多くは継承され、現在も果樹園を経営している。彼らは近世においては農業や製塩業のほか、海運業や柿渋の製造にも従事してきたし、それ以前から続く家もあるだろう。時代に応じて土地を読み、利用方法を変えながら生き抜いてきた百姓である彼らは、人口減少の時代もきっと乗り越えていくだろう。私たちがはっさくを食べることができるのも、中庄の百姓のおかげなのである。
2025年2月23日