EN / JP
EN / JP
波切は志摩半島南端の太平洋に突出した大王崎の丘陵部に位置する漁港のまちである。波を切ると書いて「なきり」と読むこの場所であるが、古くは「名錐」「名切」とも書かれ、これは外海の波が荒いことにちなんだ名であると伝えられている。波切の大鼻と呼ばれる大王崎は、遠州灘と熊野灘を分ける岬であり、当時の航海において重要な場所であった。また、嵐の際の避難港でもあったが、岬の前海は暗礁が多く、波濤が荒いため、たびたび遭難する船が出る難所でもあった。かつて「波切大王なけりゃよい」とうたわれたように、大王崎の危険とは裏腹に「志摩の江戸」と呼ばれるほどに栄えた港であり、志摩の経済と文化の中心を担っていたまちであった。
北方より訪れた私たちはその外周からまちに入った。波切は、その海に面した南東部のほとんどが岩礁であり、それらが船の就航を困難にしているのだが、東の一部に湾が形成されており、天然の要害をもつ港として利用されてきた。現在はその北部が埋め立てられ漁港として機能している。私たちはその大きな港を横目に、小型の漁船が並ぶ湾の奥まで車を進めた。
湾には、かつて銀行として使われていた擬洋風建築(現在は海苔屋)や寺院などが並び、ここがまちの玄関口であったことはわかったものの、まちの本体は見当たらなかった。しかし、寺院の裏の細道を抜け大王崎灯台の方へと向かっていく途中、坂を登ったあたりで振り返ると、湾を挟んで向かい合った崖の上に広がる巨大なまちの姿が突然目に入ってきたのである。
波切は古代より海女の集落として人が多く居住してきた場所であった。全国的に海女の数が減ってしまった現在においても、ここではまだ多くの海女が活動しており、海際のあちこちに、海女が火にあたり、冷えた身体を温めるための小屋「火場」を見ることができる。
また、「わらじ曳き」という巨大なわらじを沖合の岩礁へ流す祭が有名だ。これは元来産土社である波切神社の祭礼であったが、いつしかこの地のダンダラボッチ伝説と結びつけられて今のようなかたちになったとされている。海の安全と大漁を祈願する神事であり、海女たちからの信仰も厚い。
波切はその地理的条件により政治的にも重要な場所であった。貞観年間(1362-68)において、紀州より進出してきた九鬼氏がこの地域一帯を征服し大王崎に波切城を築くと、その後、天正18年(1590)頃に鳥羽城を築いて移るまで、長きにわたって九鬼氏による志摩支配の拠点であり続けた。
その後、近世を通じて鳥羽藩領であり、「志摩の江戸」と呼ばれるほどに交易が盛んに行われ、まちは発展していった。その当時の繁栄ぶりは台地の上に広がる巨大なまちの姿に今でも感じることができるが、近代以降は物流の構造変化にともない交易から元来の漁業と観光業に移行していった。
とくに観光業に関しては、1927年に波切城跡に建設された大王崎灯台をはじめ、リアス式海岸の豊かな地形と建築物からなる風光明媚な景観を楽しみに訪れる観光客で賑わい、岬には多くのお土産屋が並び、現在も当時の面影を残している。
明治の終わり頃からは多くの画家がスケッチに訪れるようになり、「絵かきの町」と呼ばれるようになっていった。当時はまちのいたるところにイーゼルを立てた絵かきが存在し、その姿は絵になる風景と相まって、波切の風物詩となっていたそうである。今回の散歩中にも、まちなかでイーゼルの前に座って風景を描く学生の姿を見ることができた。
スーパーやコンビニはまちの外にあるが、商店街は健在で食材と日用品の購入に不自由することはない。志摩自体が交通に恵まれた場所ではないが、その半面豊かな文化が残るまちである。
波切の景観はその海岸段丘という地形によって大きく規定されている。海岸段丘とは、海岸の波によって削られてできた海蝕面が地盤の隆起や海面の低下によって海面より上にもち上がることで形成された地形をいう。同じ標高をもつ台地が島状に複数形成されることも多くあり、波切では、波切神社が位置する台地、かつての九鬼氏の城や大王崎灯台が位置する台地、そして、その巨大なまちが形成された台地に分かれている。その台地の大きさこそが波切の発展の基盤となったといえる。
台地といってもまったく平坦なわけではなく、谷地になっている場所や傾斜になっている場所があるように、その地形は非常に複雑であり、それらの微地形が波切のまちのなかに多くの小さな場所をつくりだしている。一方で、大きくみれば、波切の空間構造はまちが発展した内陸の巨大な台地と灯台や神社が位置する外縁という関係性において考えることができる。波切城址からは波切のまちの全貌を見渡すことができ、同時に外海に対しても目を配ることができる。これは同じ高さに目線がくる海岸段丘であったからこその都市計画だったともいえるだろう。
近代以降の重要な変化は、まちのなかに小学校と墓地が建設されたこと、そして港湾が整備されたことである。とくに前者はそれまで手がつけられていなかった台地上の土地を切り拓いてその場所を確保したものであり、当時すでに波切にはまとまった平坦な土地が余っていなかったことがわかる。
まちの範囲は戦前より大きく広がっておらず、その構造に変化はみられない。終戦直後の航空写真では、まちの外にはかなり広い範囲にわたって畑が広がっていたことが確認できるが、現在それらの多くは宅地に転用されるか、放棄され藪地になっている。戦後に新しく建設された住宅地は、小さな複数の丘と谷からなる複雑な地形を縫うように毛細血管状に広がっており、高低差の多い細い谷間に密集するようにして形成されていった。このように狭く複雑な場所に密集して建っているのは新興住宅に限った話ではなく、大慈寺や仙遊寺の周辺には、谷間に形成された伝統的な集落をみることができる。
そして、肝心なまちの中心部であるが、波切には2本の主要道路が東西に通っている。より幅の広い南側の道路は自動車のために近代以降に整備されたものだ。もう一方の台地の中央を直線状に抜ける通りが旧道であり、途中二股に分かれながら広い範囲にわたって商店街を形成している。
いずれにしても波切の台地の上には所狭しと住宅や商店が並んでおり、それらがたくさんの路地を形成している。海から急な坂や階段を登ってたどり着いた高台の上にこれほどに奥行きの深いまちが広がっているとは思わないので、路地を抜けてもまた路地が続いていく、あるいは路地の先にまた別の街区が見えるという状況に驚くのであった。
しかしながら、そうした平らな地面にも終わりがあるので、さまざまな場所に存在する台地の端ではまた違った風景が現れる。台地の端は急峻な崖になっているため、通路や階段を歩いていると、建物の隙間を通してその先に広がる海や、あるいは谷を挟んだ向こう側の台地の様子がよく見えるのである。崖の斜面は、住宅が張り付くように上下に並んでいたり、あるいは緑で覆われたりしており、それぞれの場所で異なる風景をみることができる。これらの密度ある風景は絵画の主題としても好まれており、実際にこれらの斜面地の住宅群を描いた絵が多く残されている。
一方で、海に面した台地は少しだけ様相が異なる。その理由は、そこに建つ多くの住居が陸屋根のコンクリート造となっているからである。崖地に住宅が密集し、路地が迷路のように絡み合う様子から「日本のカスバ」と呼ばれるようになったのが先か、カラフルに外壁を塗装したコンクリート建築に建て替わっていったのが先かはわからないが、いずれにしても、地面から直立するコンクリート壁やコンクリート塀は、路地の先に見える空と海を小さく明瞭に切り取り、まるでピクチャーウィンドウがそうするように、街路の日常的な風景のなかにその海を上手く取り込んでいたのである。路地を歩くたびに目に入る「小さな海」は、その崖下に広がる雄大で荒々しく雄大な海とは異なる静けさと平穏を日々の生活にもたらしているのだ。
大きな風景にも目を当ててみよう。波切の風景は率直に言って非常に美しい。一つは荒々しい岩肌や岩礁に生じる白波など、地形そのもののもつ美しさである。もう一つはそこに添えられた人工物の美しさ、あるいは人工物と自然の対比によって生まれる美しさである。たとえば、大王崎灯台がわかりやすい例としてあげられるだろう。荒波を背景に、岸壁の上にまっすぐに建つ白亜の灯台は多くの絵画のモチーフになってきた。
あるいは、昔から台風が直撃することの多いこのまちでは、崖崩れを防ぐために石垣を積み上げている場所が多く、それらは今もまちの重要な景観要素となっている。そのため波切には優れた石工が多かったというが、そのおかげか現代のランドスケープ・デザインにも洗練されたものが多くみられ、それらが波切の風景の美しさの基盤を担っていると考えられるのである。
もう一つ注目したいのは、フォリーや祠といった小さな建築物がまちのあらゆる場所に遍在しているということである。フォリーが多いのは観光地であるということだけではなく、丘の端っこ(「おかばな」と呼ばれる)に集まり談話する慣習があったことにも由来するのだろう。絵かきの町としての必要な整備だったのかもしれない。一方、祠は木造ではなく、洞のように組み上げた巨石のまわりに小さな石を積み上げたものが多い。台風や潮風に対する策と考えられるが、普段見慣れない形状には驚かされる。これらも波切の風景の重要な構成要素である。
最後に、歩きながら気づいたなかでとても興味深かかったことを二つ紹介する。一つは多くの家において母屋の脇に陸屋根の平屋を増築していることである。これはおそらく漁具小屋を建て替えたものであり、現在も物置として利用されているが、すべての小屋には外階段が付設され、その屋上が利用できるようになっている。もう一つは住居の一階部分をピロティにして、向かいの崖地の緑を借景している家が多いことである。これらの屋上やピロティには椅子や机が置かれ、そこから見える広大な海や青々とした緑を楽しむ準備ができている。このまちの住人たちは私的な風景の切り取り方をどの絵かきよりもよく知っているのだ。
2025年7月20日