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高須は、東西を木曽川・長良川・揖斐川に挟まれた低湿地において、わずかに盛り上がった丘陵地の上につくられたまちである。高洲とも書かれるように、その地名は、この地が周囲より標高の高い「洲」であったことに由来している。こうした場所は、水害を被りやすい上記の河川に囲まれた低湿地帯において意図的に形成されてきたものであり、「輪中」とよばれてきた。
輪中とは、集落や耕地を水害から守るために、その周囲を堤防で囲んだ場所のことであり、岐阜市街から伊勢湾にかけて大小45の輪中が連なっている。そのなかでも高洲輪中は、濃尾平野でもっとも早い時期につくられた輪中であり、古くから周辺郷村の中心地として発達し、やがて濃尾平野最大の輪中となった。
私たちは名古屋駅より西へ車を走らせ、高須を目指した。まちに着く少し手前で木曽川と長良川を渡り、岐阜県へと入る。隣り合う2つの川のあいだには背割堤が築かれ、大河川が合流することによって起こりうる洪水を防いでいる。明治時代に西欧の土木技術を導入して築かれたこの堤防が、いまも地域の暮らしを守り続けている。全長1200メートルを超える東海大橋を渡る途中、樹木が生い茂る背割堤の姿を見下ろした。
岐阜県に入ると、建物の密度が途端に下がり、周囲一帯が水田に変わる。その理由については、あとで触れることにしよう。東海大橋を渡ってさらに直進し、大江川を越えると、そこが高須輪中である。まちの外縁に位置する市役所に車を停め、私たちは湿地に浮かぶ島のようなまちを歩きはじめた。
高須の歴史は、治水とともに歩んだ歴史である。慶長14年(1609)、尾張藩は木曽川左岸の犬山から弥富まで、高さ10~15メートルにおよぶ大堤防「お囲堤」を築き、尾張側に流れていた支流をすべて締め切った。これにより、美濃側は洪水の被害をもろに受けることとなったのである。江戸前期の145年間に110回余りの大洪水に襲われたことが記録されている。この洪水の多さこそが、木曽川と長良川より西側にいまもなお住宅が少ない理由のひとつと考えられる。
高須輪中の成立は、「お囲堤」の建設より早い慶長5年(1600)から同11年(1606)のあいだと推定されており、濃尾平野で最初に形成された輪中とされている。高須輪中の存在する地域は、海抜ゼロメートル地帯を含む濃尾平野のなかでもとりわけ低位な土地であり、「お囲堤」建設以前から高潮や海嘯の影響を受けやすかったためと考えられている。このまちはかつて高須藩の城下であった。『高須旧記』によれば、延宝9年(1681)には「城は繁栄するようになり、郷中の堤や樋も立派に整えられ、すべての民が安心して暮らすようになった」という。
さらに新田開発とともに輪中堤防も築かれていったが、享保17年(1747)に最後の新田が完成すると、古くからの輪中群を包括する堤防をもった複合輪中としての高須輪中が完成する。その後も宝暦治水など、幾多の治水事業が重ねられたが、氾濫のたびに人びとは水害に苦しめられ続けた。明治20年~同44年(1887-1911)にかけて、オランダ人技師の計画に基づいて施工された三川分流工事によって、ようやく水害による死者や家屋の全壊、堤防の決壊などの大規模な被害が激減する。
しかし、昭和27年(1952)の台風によって再び堤防が決壊し、甚大な湛水被害が発生した。この災害を受け、同29年(1954)より高須輪中では埋立干拓事業が進められる。発達した排水ポンプ技術を導入した大型の排水機場が整備されて以降、人びとはようやく水に悩まされることが少なくなった。これにより、「堀田」(田の一部を掘り、隣にその土を積んで高くしたもの)は一般的な水田へと改良された。また、かつての輪中堤は切られ、集落を結ぶ車道が通るようになったのである。
現在の高須のまちは、航空写真でも確認できるように、住宅や屋敷林をもつ農家、社寺や高校、そして小規模な農地が密に集まり、円形に近い領域を形成している。一見すると複雑な空間構造をもつようにみえるが、実際には単純であることが、終戦直後の航空写真から読み取れる。
いまでも規模を小さくして残っているが、高須の中心にある微高地の周囲には堀がめぐらされている。その内側には南北方向に本通りが通され、道の両側に短冊状の敷地が並び、その前面に平入の町屋が軒を連ねていた。街道は南端で西に折れ、北端では東へと分岐して堀の外へ抜けている。また南北の本通りには、その後方にそれぞれ1本ずつ裏通りが通されている。西側の通りには庭と屋敷林をもつ農家が短冊状に並び、東側では小規模な住宅が同じく短冊状に並んでいた。これらの町が高須の骨格をなしている。微高地上には、こうした線状の町のほかにも、複数の屋敷や社寺が、町と堀のあいだの農地の中に点在していた。それらと町を結ぶように脇道が整備され、さらにその脇道沿いにもまばらに住宅が建てられている。
堀の外側では、庭と屋敷林をもつ農家が道に沿って房状に集まり集落をなしているが、道から離れた位置に独立して建つ屋敷や社寺も少なくない。実際に歩いてみて気づいたのは、堀の内外を問わず、この時期までに形成された場所の多くが、石垣で敷地をもち上げたり、道路全体が盛土したりしていることである。なかでも街道は高く盛られており、裏通りに比べて1メートル以上も地盤が高くなっている。これらのことから、堀の内側であっても地面はそれほど高くなく、水害から命や財産を守るために、そこからさらに地盤をもち上げる必要があったということがわかる。
前述のように、戦後の干拓事業によって水害の不安が減少すると、人口の増加にともなって、堀の内側の元は農地であった場所や、堀の一部であったため池の一部を埋め立てることで得られた土地などに、小規模な住宅が面的に開発されていった。
現代にいたるまでのあいだに、堀やため池の両側に広がっていた農地の多くが宅地に変わったこと、堀そのものも護岸整備によって細くなり、かつてほどの存在感を失ったこと、また、さらに外側に幹線道路が通り、公共施設や工場などが建てられ、まち自体が拡大していったことによって、かつて明確であった堀の内と外の区別はなくなっていったのである。
水害の多いこの地域では、「水屋」とよばれる独特の建築形式が発達した。「水屋」とは、水害に備えて家財や非常食を収蔵し、場合によっては舟を格納するための建物である。その基礎は石積みによって高くもち上げられ、周囲の敷地よりも一段と高い位置に据えられていた。しかし、石積みを必要とする水屋を構えることができたのは有力な百姓に限られていたという。水屋をもたない人びとのために設けられていたのが、「助命檀」あるいは「命塚」とよばれる場所である。2メートルほど土を盛り上げ、その上に社寺の堂宇や神殿が建てられており、非常時には人命や家財を避難させた。信仰と防災がひとつの地形の上に形成されていたのである。また現在、高須に残る古い民家は、明治24年(1891)の濃尾地震以降に建てられたものであり、その多くが二階建てである。これらは二階の天井が頑丈に造られており、洪水時には天井裏が避難所となり、家財を保管する場所としても機能した。以上のように、高須では、輪中を囲む堤防や盛土といった土木的な防御に加え、最悪の事態に備えた局所的な建築的工夫も施されてきたのである。
このように、高須には足元を高くもち上げた建築や敷地がいたるところに見られ、その高さに思わず目を奪われることも少なくない。しかし、こうした背の高い建築物は道路の脇ではなく、敷地の奥まった位置に建てられていることが多いため、道を歩いていても圧迫感や閉塞感を覚えることはない。むしろ、石積みの基壇の上にそびえる水屋やお堂は、塔のように風景の奥行きを生み出す手がかりとなっている。
また、石積みによってもち上げられた敷地と道路とあいだの高低差を埋めるため、敷地の一部をなだらかな斜面地としたり、住居より一段低い位置に畑や庭が設けたりする例も少なくない。なかでも豪農や庄屋格の屋敷では、さらに敷地全体がさらに高く造成され、その前面に設けられた庭や農地は広い面積をもっている。そして、その周囲に生垣や塀がめぐらされることで、まるで小さな城郭のような構えを見せているのである。
高須ではこのような背の高い建築物や石積みの基壇が随所に見られる一方で、宅地化が進んだ今日においても、まだ多くの農地がまちの中に残っている。そうした農地や空き地を介して上記のような建物の全景を見渡すことができるのだが、農地が道よりもさらに低い位置にあるため、地形の視覚効果によって建物は実際よりも高く、また遠くにあるように感じられるのだ。とりわけ、城下町として栄えた高須には、真宗大谷派高須別院二恩寺をはじめとする寺院や、豪農や庄屋格の屋敷など、堂々たる建築物が点在している。これらがまちのさまざまな場所から、空地や農地を介して見え隠れする。その視線の抜けや重なりが、まち全体に不思議な一体感をもたらしているように思えるのである。同時に、まちの外縁から水田越しに望むことのできる、高さの異なる屋根が重なりあい、層をなして広がってゆく風景も、このまちの地形と建築が生み出したものである。
農地や空き地に限らず、堀やため池もまた、このまちに豊かな風景をもたらしている。先にも述べたように、堀やため池は戦後の干拓事業によって従来の役目を終え、護岸整備と埋め立てによって次第にその存在感を薄めていった。それでもなお、完全に消え去ることはなく、高校近くの堀は憩うことのできる親水広場に、住宅街を通る堀は緑に包まれた遊歩道に、そしてため池は遊水地や釣り堀にといったように、その多くが再デザインされ、安全に水と触れ合える空間に生まれ変わっている。
インフラ技術が高度に発達した現代の日本では、水は以前のように恐怖の対象ではなくなった。しかし同時に、私たちは川や池から遠ざかり、水に触れる機会を失いつつある。そうしたなかで、もっとも激しく水と闘ってきた高須が、その存在を手放さず、かたちを変えて取り込んだことに深い意味を感じるのだ。水辺には洪水時の注意事項を記した看板が思慮深く立てられている。それこそが内部に水を抱くということであり、本当の意味で水に親しむということなのだ。
2025年7月19日