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富士見は諏訪盆地と甲府盆地の境目に位置する八ヶ岳南西の麓に展開した高山地帯のまちである。
八ヶ岳や南アルプスといった山岳に足を運ぶための拠点としても著名な富士見であるが、このまちをとくに有名にしたのは文学であろう。島崎藤村のあららぎ派や尾崎紅葉など、富士見高原療養所を中心とした文学のまちとしてその名が知られる。堀辰雄の小説『風立ちぬ』を原案としたスタジオジブリのアニメ映画は私たちの記憶にも新しいだろう。
新宿から特急で2時間と、東京からわずかな時間で往来することのできる、自然にほど近く、空気の清浄な高山地帯だからこそ、都市に病んだ人びとが多く通う場所になったのである。
まちの南端を流れる釜無川を遡上していくにつれて、徐々に高度が上がっていることを感じるだろう。八ヶ岳を上っているのだ。私たちがこの場所を訪れたのは4月のことであったが、周囲にはまだ葉のつかない針葉樹が目につくようになり、いよいよ高山地帯に入ったことがわかるのであった。
蔦木宿を過ぎたあたりで甲州街道から脇に入り、林のなかを進んでいく。街道を逸れ、一気に高度を上げると突然左右に視界が開き、自分たちがすでに富士見のまちのなかにいることに気づくのである。
新たに整備された公園の駐車場に車を停めた。駐車場には多くの車が停まっており、真新しい公園からは多くの子どもたちの声が聞こえてきた。
富士見という地名は、富士山への眺望が良いことに由来する。これは日本におけるある種普遍的な名付けであり、東日本のさまざまな場所に同じ名のまちが存在する。
現在も富士見町の町域の大部分は山林原野であるが、甲州街道からも距離のあるこの場所は、高原地帯に広がる米作と養蚕を主産業とする農村集落であった。
農村が現在のようなまちに変わったのは、明治37年(1904)の国鉄中央東線(現JR中央本線)が開通し、富士見駅ができたことがきっかけである。駅前に集落が形成され、大正3年(1914)には警察分署と登記所が、同5年(1916)に富士見倉庫会社、同7年(1918)に森林測候所、同15年(1926)に富士見高原療養所が設置され、田園地帯に町ができていった。とくに駅前は商店が発達して富士見の中心商店街となっていったのである。
昭和36年(1961)以降において耕地整理を実施し、また米作以外にも、花卉・野菜栽培、茸類の培養、乳牛の飼育など近代的な農業の導入につとめている。
このように富士見は農業を生計の基盤にして発展していくが、その後の交通網の整備にともなって、まちの周囲に広がる富士見高原は精密工場の企業用地と自然レクリエーション地として開発されていき、これらを核とした人口増加と商業圏が、とくに富士見駅を中心に確立していったのである。
また、富士見高原は、軽井沢に匹敵する避暑地として別荘地の開発が進んでいった。そうしたなかで昭和44年(1969)には富士見駅を中心に住宅団地が造成され、保健観光と近代農業が共存する田園都市へと変化していったのである。
現在は、大型チェーンスーパーや児童公園といった子育て世代を対象とした施設をはじめ、駅前商店街の再興を核としたまちづくりに力を注いでおり、その結果、新規住民の数は増加し、新しい店舗も増えている。
富士見のまちが位置する広大な斜面地は、八ヶ岳の噴火口より流れ出た溶岩によって構成されている。溶岩流による地表は、長い年月のあいだに雨水や雪解け水に削られ、土壌が堆積し、やがて樹木帯が形成されていった。八ヶ岳の急斜面を流れ落ちる水は、溶岩面の凹凸をさらに深く掘り込み、高地から谷へ直線的に延びる大規模な襞状地形をつくりだした。その複雑な谷筋の一部が切り拓かれ、農地として耕されたことが富士見という場所の始まりである。
富士見のまちは、このような傾斜による全体的な高低差と、襞状地形による局所的な高低差とが重なり合う土地に築かれた。明治37年(1904)に鉄道駅が開設されると、駅を中心に南北方向へ住宅地化が進展していく。なかでも商店街を擁する南側の斜面地では展開が早く、谷に向かって大規模な住宅団地が形成された。一方、北側の斜面地では、富士見高原療養所を北端として住宅開発は止まり、その周囲は農地を残しつつ、町役場や農協などの公共施設用地として利用されてきた。近年における公園やスーパーの再整備も線路の北側で行われている。
南北の傾斜地いずれにおいても、住宅地の形成には全体を統率するような明確な法則性はみられない。敷地区分だけが計画され、あとは個々の住民が自由に住宅を建設していった結果が、現在の富士見のまちである。襞状の尾根と谷に道が通され、その両側に敷地が区分されている。多くの場合、尾根と谷のあいだには背割線が設けられ、2つの敷地が高さを変えて並んでいる。大きな敷地をもつ屋敷が尾根沿いに点在するが、それ以外の多くは同規模の住宅が無造作に並んでいる。住宅地としては不向きなほど高低差の大きい土地は、隣地の所有者によって庭として利用されている場合もある。
注目すべきは、尾根道と谷道をつなぐ横道の少なさである。このことが富士見の住宅団地の景観を特異なものにしている。道路建設の段階で横道が計画されなかったため、のちに必要に応じて、いくらかの住宅の敷地内に、人が歩いて通り抜けることができる程度の「けもの道」が設けられているのである。
敷地の表と裏では住居の階数が異なるほどの高低差があるため、「けもの道」の多くは階段を含み、それらはしばしば庭の一部としてつくられている。とくに住宅が建たず、庭として利用されている土地では、蛇行する階段と、それに応じてデザインされた多様な庭の景観をみることができる。
富士見のまちの空間の特徴は、隙間の多さ——すなわち、住宅敷地における空地の多さにあるといえる。これは、この住宅団地が高密度で空気の汚れた都市を離れ、ゆったりとした環境で健康的な生活を営む場所として計画されたことに由来する。一般に、他の低密度居住地域では、こうした空地を利用して農作物を育てたり、庭や外構を整えたりと、空間に対して何らかの働きかけを行うことが多い。しかし富士見では、前述の「けもの道」や斜面地の庭のような特定の場合を除けば、多くの空地がほとんど手を加えられない状態で放置され、広い駐車場としてのみ利用されている。
とはいえ、このことから富士見の住民たちが風景への関心を欠いていると結論づけるのは早計である。実際にこのまちを歩くと、谷の向こうに聳える南アルプスや背後に佇む八ヶ岳の存在の大きさを強く感じる。想像するに、彼らの視線と意識は、手前の小さな空地ではなく、常にまちの外にある大きな山々へと向けられているのだろう。ベランダやバルコニーを丁寧に設えた住居が多いことは、その証左といえる。こうした壮大でおおらかな景観をもつ場所において、住民の土地利用が同様におおらかになるのは、ある種の普遍的な傾向なのかもしれない。
また、富士見では外構があまりつくりこまれていないことも、まちの景観を特徴づけている。先に述べたように、富士見では襞状の地形に沿って、尾根と谷に住居が並んでいるが、塀や生垣など視界を遮るものが少ないため、尾根道を歩くと、住宅の隙間や空地から、あるいは道の先に、隣の尾根に沿って住宅が並ぶ様子が見通すことができる。興味深いのがその距離感である。住宅の規模が大きいことや、あいだに谷地を挟んでいることから、実際の距離よりも近くに感じられるのである。その背後に大きな建物がなく、遠くの森やさらに向こうの山々が背景になっていることも、こうした錯覚を助長している。隙間と高低差、住宅の大きさと山々の存在が一体となり、富士見特有の奇妙な距離感をかたちづくっているのである。
富士見は、今でこそ落ち着いた雰囲気をもつまちとなっているが、スキーブームに沸いたバブル期には、大勢の若者たちがスキー場に向かう経由地として訪れ、まちは大いに賑わったという。商店街には当時のポップ調の店舗が点在し、往時の活気を現在に伝えている。
住宅に目を向けると、ハーフティンバーや三角屋根など、山岳地の建築を意識した意匠のものが多い。寒冷な気候のために色見の抜けた植栽や、溶岩石を多用した庭と相まって、統一感に欠けるものの、全体としては「高原のまち」としての富士見らしさが共有されているように感じられた。
その豊かな自然環境と首都圏からの距離の近さを背景に、富士見高原はこれまで、別荘地や療養地、スキー場、工場地、そして文学の舞台など、さまざまな性格を併せもってきた。ここにもう一つ、日本におけるヒッピー文化の中心地となった時期があったことを記しておきたい。1960年代、都市を離れ自給自足を試みた若者たちが、富士見からほど近い山麓にコミューンを形成した。結局は長続きしなかったものの、当初はときおりまちに姿を見せ、物々交換や祭りに参加するなど、住民との交流もあったという。言い換えれば、富士見のまちがなければ、このようなコミューンもそもそも成立しなかっただろう。
東京という大都市と山岳地帯とのあいだに位置する地理条件が、その時代ごとに相応しいまちのあり方を生み出してきたのだ。富士見はもともと他所からの移住者によってかたちづくられたまちであり、現在もまた新たな移住者や店舗が増えつつある。生活様式が変わりつつある今日、その呼び水となっているのは、従来の自然環境に加えて、都市の住宅街にもみられるような公園やスーパーといった施設であろう。山々へ視線を向け、自然を愛してきた富士見のまちに、消費主義の都市的な環境が整えられつつあるように思うが、もしかするとそれこそが、都市と切っては離せない富士見本来のありようなのかもしれない。
2024年4月7日