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野沢温泉村は、その自治体名のとおり「まち」というより「むら」と呼ぶほうがふさわしいように思える。しかし一方で、農村的な基盤の上に温泉街という都市的な空間をもつこの場所の両義的な性格こそ、「まち的」であるといえるだろう。
長野県の最北部に位置する野沢温泉は、その名のとおり温泉街を核として形成された「まち」である。三方を毛無山の山麓に囲まれ、西方だけが千曲川に向かって開けた山あいの傾斜地に、建築物が突如として密集する都市的な景観をつくり出している。
「温泉町」は、中世から近世にかけて封建領主の加護を受けながら発展した、日本の伝統都市における重要な類型のひとつであり、低密度居住地域にも少なくない事例がみられる。
今回の調査で訪れた野沢温泉は、これまでの調査と異なり、都市と後背地、あるいは都市と都市を結ぶ中継地ではなく、この場所自体が目的地となるようなまちであった(毛無山登山の拠点でもある)。そのため私たちは前日の日暮れ前に野沢温泉に到着し、外湯や情緒ある夜の温泉街を味わいつつ、急斜面を上り下りする翌日のハードなまち歩きに備えたのである。
宿泊先は、建築家・吉阪隆正が設計したロッヂである。登山家としても知られる吉阪は、数多くの山小屋(ヒュッテ)を設計している。私たちが泊まったロッヂも、登山や冬のスキーのために建てられたもので、近くに湧水口のある、ちょうどまちと山の境界に位置していた。翌日、私たちはまちの際である山裾から、温泉町のまち歩きを始めた。
野沢温泉の歴史は、約1200年前に行基(668-749)が湯煙を発見したことに始まると伝えられている。天暦年間(947-957)にはすでに利用されていたともいわれるが、正式な開湯は寛永年間(1624-1644)、飯山藩主・松平忠倶によって湯治場としての営業を許可されたことをもって始まりとする。長野県を代表する名産品・野沢菜の発祥地としても知られている。
温泉の特色は、外湯とよばれる共同浴場にある。江戸時代を通じて多くの湯治客が訪れ、天保5年(1834)には『野沢温泉療法』という書籍が出版されるほど人気を博していた。近代に入ると、大正12年(1933)に飯山鉄道(現・JR飯山線)が隣接する岡山村の桑名川まで開通し、湯治客の範囲がさらに広がった。現在では、東京から新幹線とシャトルバスを利用すれば、わずか2時間ほどで到着できる温泉地となっている。
温泉地としてだけではなく、スキー場としても有名であり、明治45年(1912)にスキーが導入された日本最古のスキー場のひとつである。前述の鉄道開通とあわせて、本格的にスキー場の開発とスキーヤーの誘致が進められ、戦後には、1967年にはナイター施設、1977年には夏期用ジャンプ台、1979年にはゴンドラリフトなどが設置され、整備が一層拡充された。オリンピック選手を多数輩出したまちとしても知られ、1998年の長野オリンピックでは競技会場のひとつにもなっている。
全国的なスキーブームが落ち着いた現在においても、東京からのアクセスの良さや雪質の良さに支えられ、スキー場としての人気に陰りはみえない。近年は、良質なパウダースノーを求めて国外から訪れるスキーヤーも多く、とくにオーストラリアからの旅行者に高い支持を得ている。スノーシーズンになるとまちは国際色豊かに賑わいをみせるという。ワーキングホリデー制度を利用して滞在するオーストラリア人も多く、なかにはそのまま職や世帯をもち、定住する人も少なくないという。
野沢温泉の空間構造は、戦前よりほとんど変化していない。この調査で訪れるほかのまちと比べると建築物の密度が高いが、それは旅館や民宿、飲食店などの訪問者向け施設が多いためである。建物の大きさや密度だけをみれば都市的な様相を呈しているが、実際には山岳地帯の傾斜地に形成された集落を基盤に、その上に建築物が密集してできた場所といえる。集落でも都市でもないこのような状態こそが、まさに「まち」とよぶにふさわしいだろう。
もともとの集落の空間構造がもっとも強く表れているのが、道の形状である。野沢温泉の道は水の流れに従ってつくられている。上流から下流へと、水が流れる方向に沿って道が通され、まち中の道のネットワークが地形に応じて複雑に張り巡らされている。道の脇には水路が設けられており、水勢が強いため藻などがつかず、常に清らかな状態が保たれている。水路の周囲には土や植物が残され、まちに緑を添えている。水路には要所ごとに整流のための桝が設けられ、鹿威しや滝など、水の音や流れを楽しむ仕掛けも施されている。
道の構造自体は複雑であるものの、まち全体の空間構造は明解である。もっとも高い場所には神社と寺院が配置され、水源を守っている。その付近には野沢温泉の源泉である「麻釜」があり、同時にまちの縁でもあるその周辺には、大規模なホテルや病院、ゲレンデに向かうゴンドラ乗り場もみられる。
東から西に向けて緩やかに下る傾斜地のなかにも微地形があり、尾根通りと谷通り、等高線に沿って設けられた本通り、そしてそれらを結ぶ横道が張り巡らされている。主要な通りは車両が通れるように拡幅されているが、車が一台ぎりぎり通れるような道も少なくない。
通りによって雰囲気が異なり、高級な表構えの旅館が並ぶ通りや大衆向けの旅館が並ぶ通り、あるいは飲食店や土産物屋が並ぶ通りなど、場所によってさまざまである。深い谷地となっている湯沢川の周辺は、なかでもとりわけ風情のある地域である。
県道38号線より西側の傾斜地は、のちにスプロールした住宅と棚田が混在する地域となっており、小中学校や役場、公民館、高齢者施設などの公共性の高い施設が配置されている。そして県道38号線沿いには、バスターミナルや大規模駐車場、観光案内所など観光客向けの施設が整備されている。団体旅行客を想定して整えられた一帯であることがうかがえる。
古い温泉町でありながらスキー場でもある野沢温泉には、その時々の時代に建てられた多様な建築物が残っている。中心をなすのはやはり和風旅館であり、温泉街の情緒をかたちづくっているが、ハーフティンバーの意匠を施したスイスの山小屋風のホテルやレストランも多くみられる。これらは高度経済成長期からバブル期にかけてのスキーブームに建てられたものである。
野沢温泉では、外湯とよばれる共同浴場が有名である。かつて自宅に風呂がなかった時代には、地元の人びとも日常的に利用しており、隣に洗濯をするための「洗濯湯」が残る場所もある。多くの外湯は近代的なコンクリート造建築に建て替えられたが、近年の観光地再生事業のなかで、和風建築へと建て戻された施設も少なくない。街角に少し背の高い小さな建屋が佇む姿は、このまちを象徴する風景のひとつである。また旅館においても、浴場を母屋から離して設け、外湯と似た形式を採る場合がある。街路から少し離れた場所に、内湯の建屋の屋根が垣間見える風景も、野沢温泉の情緒ある景観をかたちづくっている。
等高線に沿って形成された商店街は、湯治客やスキー客を対象に観光地化しており、そのデザインには統一感がなく、日本風のデザインとヨーロッパの山岳風のデザインが混在している。近年は新たな事業者によってリニューアルも進む一方で、スキーシーズンに来訪する外国人向けの飲食店も増加しており、文化の混在がいっそう進んでいる。
温泉街の外側、すなわちまちの周辺部に目を向けると、数多くの民宿が立ち並んでいることに気づく。これらが本格的に稼働するのはスキーシーズンであり、ワーキングホリデーで訪日した外国人の働き場所にもなっている。大規模なホテルだけではなく、小さな民宿が数多く存在することが、幅広い訪問者を受け入れる基盤となっている。外周部の民宿は、不定形な棚田を宅地化した土地に建てられており、建物と敷地境界のあいだに生れた余地を活かして庭を設ける例も多い。地形の豊かさもあいまって、独特の風景が広がっている。
もうひとつの特徴として、旅館や商店街など温泉街を構成する建物や街路に隣接して、住民や従業員たちの生活空間が存在していることがあげられる。少し裏手に足を踏み入れると、道路ぎりぎりまでせり出した玄関や車庫の横に小さな植木鉢が並ぶなど、都市的なふるまいを見せる住宅が点在している。これらの住宅地は、横道や街区の内側の、使い勝手の悪い急斜面に形成されており、階段を通ってアプローチするような場所も少なくない。
また、表通りからは見えないが、裏路地からビルを見上げると、植栽や椅子が置かれ、従業員たちの憩いの場として設えられた共用部が目に入ることもある。もっとも、まちの表と裏の距離は近く、両者は緩やかに連続しているため、前述の水路やその脇の植物、そして上記のような日常に根差した緑が、人工的になりがちな温泉街の環境に情緒を与えているといえる。そして、水や緑が荒れることなく保たれているという事実は、このまちが今も丁寧に維持・管理されていることの証でもある。
これまで、ひとつのまちの中に異なる文化や業態、あるいは生活が混在していることが野沢温泉の魅力であり、それはこのまちが温泉を核にしながら、幾度かのスキーブームを受け入れてきたことに起因していると述べてきた。温泉とスキーが共存すること自体は、火山国の日本において珍しいことではなく、このまちのような事例はほかにもみられるだろう。しかし重要なのは、温泉こそが古代より野沢温泉のまちをかたちづくってきた根源的な力であるという点だ。その源である麻釜や湯澤神社は、まちのもっとも奥に位置し、今もなおその神秘性を失わず、この温泉の歴史を語り継いでいる。大勢の人が訪れる都市性をもちながらも、同時に山村のような性格を保ち続けていることは、伝統的なかたちで道祖神祭が継承されていることからも明らかである。冒頭にも述べたように、温泉が都市と集落の両側面をあわせもつ場所をつくりだしたのである。
2024年9月30日