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猿橋という不思議な地名は、日本三大奇橋のひとつに数えられるその橋に由来している。そしてそのことこそが、このまちがほかでもない「猿橋」の存在によって運命づけられてきたことを示しているのだ。山中湖から相模湾へと流れる桂川(相模川)と、その支流である葛野川の合流地点に位置するこの場所は、両河川に沿って形成された河岸段丘の上を縫うようにして武蔵・相模、あるいは奥武蔵へと向かう道が交わる地点であったため、古くから交通の要衝として開けていた。桂川を渡るために渡来人によって架けられたのが、猿橋であったと伝えられている。戦国期にはすでに「猿橋」という地名がみられ、近世期に甲州街道の整備が進むとともに、「猿橋宿」が建設された。
東京からJR中央線に乗って山梨方面に向かう途中、高尾山を越えて相模湖に抜けたあたりから大月にいたるまで、あるいはそこからJR大月線に乗り換えて富士吉田にいたるまで、同じような風景が続くと感じたことのある人は多いのではないだろうか。
そしてそれは、左右を山に挟まれた谷間の、底を流れる川より少し高い位置に広がるわずかな平地の上に住宅が密集し、その隣の傾斜地や、少し離れた低地に田畑が広がっているような風景ではなかっただろうか。そのような風景こそ、東京と山梨のあいだに繰り返し現れる河岸段丘の風景であるといえるだろう。
私たちは旧宿場町の横道を抜け、まちの中でもっとも谷底に近い位置にある公園に車を停めた。小学校の跡地につくられたこの場所には、花見やレジャーを楽しむ人びとの姿があった。
猿橋は甲州の国境に近い軍事上の要地であり、戦国期には武田氏によってたびたび陣が置かれている。江戸時代、諸国を結ぶ街道の整備が進むと、もとより交通の要所であったこの地にも宿場町が形成された。猿橋宿は、本陣が1か所、脇本陣が2か所、旅籠屋が10軒を数えるなど、甲州街道のなかでも比較的大きな宿場町であった。
旅籠に加えて食物を商う茶店や諸商人も多く、また宿場としての収入のほかに養蚕と機業が盛んであった。太織・紬・絹織物が多く産出され、絹市場が開かれていた。明治38年(1905)には、郡内の絹織物業者を組織化した北都留郡甲斐絹同業組合が設立され、その事務所が猿橋に置かれたことで、郡内の経済的中心地として栄えたが、大正期を境に、政治・経済・文化の中心は次第に大月へと移っていった。
明治35年(1902)には国鉄中央本線が開通し、宿場町の少し西方の平地に猿橋駅が設けられた。甲州街道は国道20号線として再整備され、東京と甲信地方を結ぶ主要幹線となったが、やがて交通量の増加は公害をもたらした。昭和44年(1969)の中央自動車道の開通によってその被害は減少し、同時期に国鉄中央本線の複線化が進むと、通勤時間が短縮された結果、通勤圏としての性格が強まり、八王子や立川へ通う人びとが増え、周辺の宅地化が加速していった。
このように、猿橋の狭い谷には多くの交通インフラが集約していることがわかる。これは、川を越えて陸地を渡るという必要性から生じた「橋」に始まる交差点としての場所の力によるものと説明できると同時に、特定の場所に機能や意味が幾重にも重ね掛けされていくような偶有性によるものとしても理解できる。明治45年(1912)に、日本で初めての大規模な調整池式発電所である八ツ沢発電所施設がこのまちに建設されたことも、猿橋という場所の特性をよく物語っている。
河岸段丘とは、川の流れによって形成された平坦な川底が、地殻変動や気候変化にともなう水位の変化によって再び掘り込まれ、高い位置に取り残された地形のことである。これらは高さの異なる複数の段丘面を形成するが、とくに猿橋のような狭隘な谷地では、各段丘の面積が小さく、さまざまな高さの段丘が細かく分かれて集合し、谷を中心としたひとつのまとまりをなしている。そのため猿橋では、谷底から山際にかけて、わずかな平地と傾斜地とが交互に現れる地形となっている。
このように利用可能な土地に制約がありながらも経済的・文化的中心として発展した猿橋では、戦前まで非常に明瞭なゾーニングに基づく土地利用が行われてきた。すなわち、宅地と農地の明確な分離である。人家は街道が通る段丘上に密集して建てられ、それ以外の段丘は農地としてのみ利用された。街道が通っている段丘の幅は狭い。宿場では本通りと裏通りの2本の通りの両側に短冊状の敷地が並ぶが、その奥行きは浅く、背後に農地をもたない。桂川北岸の段丘はさらに狭く、人家は街道沿いの斜面に石垣を築き、その上に建てられている。
また、宿場町から南方の山間に続く川沿いの傾斜地にも集落が存在しているが、これらの宿場町や集落を除く平らな土地は、いずれも農地として利用されてきた。近世期から戦前にかけてのインフラ整備の合理性、住居の安全性、そして農地利用の効率性のバランスを考慮した、土地利用計画であったといえる。
これらの農地は、戦後の世帯数の増加とベッドタウンとしての住宅需要の高まりにともない、段階的かつ局所的に住宅地へと転換されていった。1957年までに、宿場町東方の段丘では小規模な住宅街が開発され(現存せず)、同時期に猿橋東部の伊良原地区では大規模な区画整理が行われている。
その後、1970年代にかけて伊良原地区の整備が進み、小学校が川沿いの段丘から移転し、徐々に住宅が建てられていった。同時に、伊良原地区よりさらに奥に位置する北東の段丘上では大規模な住宅街の開発が着手されている。また、川沿いの小学校跡地には県営の集合住宅が建設され、宿場町南方の段丘には工場と工員用住宅が建設された。
その後、現在にいたるまで、伊良原地区における住宅の漸進的な増加を除けば、まちの空間構造に大きな変化はみられない。しかし、近年の人口減少にともない、駐車場化した土地が増加し、かつて密実であった宿場町にも隙間が目立ち始めている。
河岸段丘という地形は、まちの重要性や土地利用だけでなく、その風景のあり方までをもかたちづくっている。とくに影響を与えているのが、移動経路と段丘の高さである。
まず前提として理解しておきたいのは、猿橋というまちが、谷や崖によって隔たれた複数の場所の集合としてひとつの地域を形成しているという点である。それは単に、谷がこのまちの象徴的な中心として複数の場所を結びつけているということではなく、より具体的な機能の分布に関わる問題である。たとえば、小学校は伊良原地区に、中学校は桂川北岸にあるといったように、まちの諸機能はひとつの場所に集中することなく、複数の段丘に分散している。そのため、住民は日常生活のなかで自然と各段丘を行き来することになる。
ところで、河岸段丘同士を結ぶ橋や斜路は限られており、土地自体も狭隘であることから、主要な移動経路となる道の選択肢はほかの市街地やまちと比べて少ない。このことが、猿橋の風景をある種固定化させているのではないだろうか。
そうした限定された経路上で見ることのできる風景にはいくつかのパターンがある。それらは段丘の高さによって生み出されている。ひとつは、同じ標高の段丘が複数存在することである。桂川北岸の街道を歩くと、川を挟んで宿場町の背面が常に目線の高さに見え続けている。そして、傾斜地を少し上った平場にある中学校からは宿場町南方の段丘に位置する工場が、寺院からは伊良原の小学校が見えるように、遠方の段丘を同じ高さに望むことができ、そこでの生活を垣間見ることができる。
もうひとつは、高さの異なる段丘へ移動する際に現れる風景である。とくに戦後に整備された自動車用バイパスは、2つの段丘を滑らかに接続し、これまで見ることのなかった角度や距離から河岸段丘上のまちを見下ろす視点をもたらした。このように、自身の住む場所を外側から見渡し、その全体像を認識できる体験は、まちの原風景をかたちづくるうえで重要な意味をもっていると考えられる。
風景の細部に目を向けると、狭隘な土地で農地を最大化するため、わずかな平地や傾斜地に居住地を築いてきた宿場町や街道沿いの集落には、その狭さに応じるための建築的ふるまいを観察することができる。
ひとつは、利用可能な空間の面積を拡張するための工夫である。とくに斜面地では、道際まで石垣が積まれ、その上につくられた小さな平場に住宅とわずかな庭が設けられている。擁壁としても用いられる石垣はまちの随所で見られ、猿橋の重要な景観要素となっている。面積の拡張は空中にも及び、崖地に向かってベランダやバルコニーなどの半屋外空間や下屋のような張り出しを設けている住宅も少なくない。また、住宅が密集して日当たりの悪い場所では、建物全体を持ち上げて一階部分をピロティとし、採光や通風を確保する工夫もみられる。
そして前述のように、宿場町ではその狭隘さゆえに農地は設けられてこなかったが、現在では住居と道とのあいだに細長い畑を設け、そのわずかな土で花木や野菜を育てる家もある。なかには、その畑のうえで洗濯物を干すといったように、限られた土地を最大限に活かそうとするふるまいもみられる。
これまでにみてきたように、猿橋ではその土地の狭さによって特有の風景が生まれてきたが、同時にその狭さゆえに、隣接する大月のように工業都市として発展することはなかった。ともすれば、まちといえるほどの人口規模に拡大することもなかったかもしれない。しかし、近世以前にさかのぼる交通の要所として現代にいたるまでインフラが整備されてきたことと、また、東京からの距離が近くベッドタウンとしての可能性が高かったことによって、隣接する河岸段丘上には複数のニュータウンが建設された。こうして形成された人口規模に応じるように、現在の猿橋には公園をはじめ、住民が利用できる公共施設が整備されており、猿橋や八ツ沢発電所施設とともに周辺地域の人びとを惹きつける魅力となっている。
2024年4月6日