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能登半島の中央部北寄り、七尾湾北湾の海岸沿いに穴水というまちがある。半島の付け根近くにある七尾市街から自動車で30分ほど北に位置するこのまちは、北の輪島市街、西の宇出津港、珠洲市街と自動車でそれぞれ30分、40分、50分の距離にあり、また能登空港へも15分で出られることから、奥能登の交通的中心であるといえるだろう。能登半島の都市やまちのほとんどが港を起点としたものであるのにたいして、穴水は陸路の交通の要衝として発展してきた。そのことが現在でも交通に優れた場所であることにつながっている。
宇出津方面から起伏の緩やかな山中を抜けると鋳物で栄えた海沿いの集落中居へと出るが、海上のぼら待ちやぐらを後ろに、再び少しの丘を越えると穴水のまちに到着する。すぐにそこが比較的広い平坦な土地の上にできた小さく平凡なまちであることがわかるはずだ。2024年正月に起きた大地震によってこのまちも大きな被害を受け、多くの建物が倒壊し、インフラ機能も長きにわたって停止していた。震災から1年弱経過し、全壊した家屋の公費解体は終了していたが、まちの所々にブルーシートのかかった住居が残っていた。震災後というにはまだ早く、元に戻らないものも多いに違いないが、少しずつ新しい生活が始まっているようであった。
国道沿いの駐車場に自動車を停め、あたりを見渡すと、途切れのない低い丘陵に囲まれていることがわかる。丘の端を眺めながらまちの周縁を流れる川沿いを歩きはじめた。
鎌倉期より保の名称として穴水という地名は存在していた。内浦に位置し、付近の海が暴風雨の際にも静穏であったことから「和那美乃水門(わなみのみなと)」と呼ばれ、それが転じて「あなみず」となったという。能登の有力国人であった長氏の本貫地として発展し、その中心であるこの場所に穴水城が築かれていた。近世以降変遷を経て、享保年間に加賀藩の預り地となる。
平地が少ないため山林や海に依存する部分が大きく、近郊の比良湊には早くから大坂登米積船が往来していた。近世後期には蝦夷松前や瀬戸内との鯡・〆粕・米などの交易も盛んであり、沿岸各村では漁業や製塩業も行われ、御塩蔵が設置されていた。
大町と川島の本通りにおいて市場が開かれるようになったのは明治期に入ってからであり、市の開催が月6度に増えた明治後半頃に市場の中心が大町から川島へと移動した。
昭和7年(1932)に国鉄七尾線が穴水まで開通し、その3年後に輪島まで延伸した。同年に飯田間を結ぶ省営バスと海岸線北鉄バスが開通し、その後第三セクターのと鉄道が穴水と蛸島間をつないだ。まちの中心には国道249号が通り、輪島市に向かう道路とともに交通の幹線となっている。また、まちの北にはICがあり、七尾や金沢方面へのアクセスを容易にしている。
交通の要衝であり広大な平地を擁していた穴水は、1970年代から木材の集積地となり、林業が主要な産業として発展した。
行政機関が位置し、インフラに関する機関や会社が多い。また、高校までの教育機関があり、公共施設や公園、病院なども充実している。2007年と2024年の2度の能登半島地震はまちの建造物とインフラに大きな被害を与え、少なくない店を閉業に追い込んだが、それでも旧街道と国道を中心に多くの商店と飲食店が営業している。他方で、道の駅や温泉施設などはあるものの、観光地としての集客力があるとはいえず、住宅街としての機能が高いまちであると考えられる。
穴水は能登半島中央部、七尾湾北湾へ注ぐ小又川と山王川の合流する河口部に形成された町場を核に発展した。古くより、2つの河川によって運ばれてきた土砂が丘陵に囲まれた低地に溜まり、広大な平地が形成されていた。戦前までは平地の中央部を通る内浦街道に沿って、2つの河川を抱き込むように、房状に町が展開しており、それ以外の土地はすべて農地として利用されていた。港湾機能をもたない穴水では、海岸線間際にいたるまでの低地を開墾し、農地として利用してきたのである。
このまちの形が大きく変貌するのは戦後であり、それは中核にあたる町場を残した開発として特徴づけられる。
1960年代までは人びとの居住領域には大きな変化はみられないものの、集落内部には新たな道が敷設され、人家が徐々に増えていく。その後1970年代にかけて海側の低地が宅地用に区割りされ、道路が整備されていくと同時に、町場とは離れた位置に旧街道と平行に国道249号線が敷かれる。また、1950年に洪水を起こし甚大な被害をだした小又川の北側への付け替え工事も同時期に完了した。それ以降大きな洪水被害は起こっていない。
その後、駅北側の住宅団地の区割りと道路の整備が完了し、1980年までに現在の街区が出来上がるが、住宅の数はすぐには増えず、当時は土地のほとんどが空地であった。特に海側の土地は木場や製材所として利用されており、その土地の広さが穴水の林業を支えたといえる。
2000年にかけて緩やかに住居が増え続け、現在の住宅規模に近づくが、町の外周部には今もなお充分な空地が残っており、農地と住宅が混在する風景がみられる。2024年の震災時には、そうした空地のうちに仮設住宅が建てられた。これは近傍に空地を有することの有益性であるといえるだろう。
穴水の特徴は、1キロメートル四方に収まる限定的な平地の中に多くの空地を有していることにある。そのため、街道沿いの伝統的な空間構造を残したまま、そのすぐ周囲に国道や新河川、変電所など近代的なインフラを整備することができた。同様にさまざまな公共施設や公園広場、一定規模の駐車場がまちの中に数多く存在している。それらは交通モードに多層性をもたらし、住民に移動しやすさと暮らしやすさを与えている。
中心部に伝統的な空間を残しつつも、その近傍で近代化を進めることができたため、このまちはその個性や根拠を失わずに近代的機能を有するまちへと変容することができたのである。
穴水では、中心部であるか外周部であるかに関わらず、それらの街区は2つの河川の形状によって定められているため、道路は一定の方向を向いておらず、特に中心部においては微細な地形の高さの違いによって大小の水路を通し、それらに従って街区が割られているため、ほとんどの道路が曲線状であり、地形の平坦さも相まって、私たちのような訪問客はたちまち方向感覚を喪失してしまう。
そうしたなかで唯一感じとることができるのが、穴水のまちをぐるりと取り囲む丘陵との距離である。建物密度が低く、大きな建物の少ないこのまちでは、多くの場所において建物同士の隙間や屋根越しに丘陵の一部を捉えることができる。度重なる震災と人口減少によって更地が増え、視線の抜けが多くなったため、丘陵の近さを感じる機会がより一層増えたといえる。
特に、まちなかに複数整備された公園や広場からは四方に丘陵を見渡すことができ、そこではまちの領域の大きさを具体的な距離感をもって認知することができる。また、まちのなかを通る複数の河川や水路からも、線状かつ連続的に丘陵の姿を捉えることができる。このように、穴水では自身のいる場所をまちの端との距離感によって認識することが容易なのである。
実際には、まちの中心部から10分も歩けば山際や湾に出ることができ、豊かな環境を享受することができる。このような近傍性とまちの境界との距離感の把握が、人びとがこのまちを相対的に理解する助けとなっていて、そうした全体像の理解こそがまちに対する愛着を醸成する基盤になっていると考えられる。
ところで、地形の変化に乏しい穴水では、特に戦後に開発された外周部の住宅地において、それぞれの場所ごとの空間的な特徴は見出しづらい。住宅の多くは1980年代に建てられたものであり、前庭と駐車場をもっているが、同時期に建てられたとみられる住宅にも大きさや意匠性の違いがあることから、当時から様々な経済層の住民が暮らしていたことがうかがえる。
単身者用のアパートが多い理由は、町役場や公共施設、病院、インフラ関連企業などの職が穴水に集中していることによる。また、外周部に位置する小学校(公園が隣接している)の周辺にはほかの場所と比較して新しい住宅が多く建っており、子育て世代の家族が住んでいる雰囲気が感じられる。
特定の機能を有する施設の周囲にそれを必要とする住民が引き寄せられ、緩やかな界隈性を形成することで、役場付近や小学校付近など場所ごとに微妙に異なる空気感が醸成されていることもこのまちの特徴であるといえるだろう。こうした自発的な界隈性の形成にとって必要なのは流動的な宅地の選択可能性であるといえるが、宅地への転換を待つ土地を多く有する穴水ではそうした選択が充分に可能であったと考えられる。
穴水では近年に起きた2度の地震によって多くの建物が倒壊した。それらの多くは中心部を構成していた古い建物であり、外周部の比較的新しいものは軽度の被害で済んでいる。その結果、旧来は密度の高かった中心部が低密度化し、外周部と同等の建物密度に近づくことによって、密度という点では、まち全体が均一化してきているような印象を受けた。
同様の現象は被災した能登半島のほかの多くの地域においてもみられる。地域の矜持であり、多くの場合商機能を担う中心部に突然多数の空洞ができてしまったことに対する心痛は測り知れないものがあるが、一方で、まちの中に空白をもつということは悪いことばかりではないと私は考える。
これまでにみてきたように、視線の抜けが生まれることによって丘陵を身近に感じることができたり、それによってまちの輪郭を確かめたりすることができる。あるいは、慣れ親しんだ場所の近くにおいて、自身の条件によって住む場所を自由に選べるということ、そして住まいの傍にエディブルガーデンをもつことは、人間の暮らしにとって非常に重要な観点ではないだろうか。戦後このまち自身が体験してきたように、空白こそが新しい生活や機能のための余地として重要なのである。
2024年11月3日