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用土は東京より北に3時間、寄居町市街とスーパーグリッドと呼ばれる大きな碁盤の目状の区画と防風林で有名な櫛挽開拓地の間に位置する、花き園芸を主産業とするまちである。
関越自動車道の寄居ICを下り、JR八高線用土駅近くの駐車場に車を停めた私たちは、中世の鎌倉街道上道(児玉往還)沿いの住居や神社を眺めながら踏切を越えて用土のまちへと足を踏み入れていった。鎌倉街道と用土の集落群にかけては大きな高低差があり、間に流れる藤治川の辺りは周囲と比べて一段と土地が低くなっている。かつて氾濫原であったと思われる土地の一部は農協の花き集荷場となり、一部は耕地整理されないままにかつての風景を残していた。
私たちは藤治川の隣に広がる森の存在が気になっていた。森の前の小さな住宅地の間を抜け、そのまま奥へと続く道を信じて森のなかへと進んでいった。光が降り注ぐ樹々の間をいくぶんか歩くと、突然道の左右にビニールハウスが現れた。そこで私たちは人の敷地のなかに侵入していたことに気がついたのである。ここはある園芸農家の敷地であり、たくさんの多種多様な樹木を森のなかのビニールハウスや露地で栽培していたのである。私たちは知らず知らずのうちに美しく管理された庭園に迷い込んでいたのだ。
ちょうどその時外で作業をしていた園芸会社の社長に町史には記されていない園芸のまちの興味深い話を聞かせてもらうことができた。
かつて用土は、谷口集落であり近世以来物資の集積地であった寄居町の周辺に位置する農村の一地域として、米麦や繭を生産していた。一部の農家は明治の頃より盆栽や植木をつくっていたが、昭和30年代に用土地区全体で花き園芸産業を推進していくことが決定され、その頃より切花、鉢物、枝物、球根類、植木等の栽培がさかんになっていく。
同45年(1970)頃より兼業農家がしだいに増え、養蚕が衰退していった一方で、土地の多機能的な利用が加速、花き園芸のまちとしての用土の最盛期を迎えた。盛時は300軒を数えた園芸農家も数を減らし、現在は50軒となっている。しかしながら、その生産量は関東最大を誇り、花きを積んだトラックがまちなかを頻繁に往来する様子は、このまちが現在も重要な園芸のまちであることを示している。
用土地区は寄居市街の経済圏内に位置しており、鉄道や自動車を利用して容易に市街へアクセスできるため、小売店が1軒営業しているものの全体として生活機能に乏しく、教育施設に関しても小学校があるのみである。鎌倉街道沿いにコンビニエンスストアや少々の飲食店などが、また西側の台地に住宅街や高齢者施設がある以外は主に農家と田畑、そして園芸用地によって構成されている。興味深いのは、現在の用土の風景が戦後決められた方針によってつくられたものであるということだ。
戦後に花き園芸産業が活発になるまでは、複数の集落とその周辺に田畑が広がる典型的な農村風景が広がっていた。戦後すぐに撮影された航空写真より、旧鎌倉街道上道沿いと用土駅前に線状の住居集合がみられる以外は、東西2本に別れた藤治川に挟まれた雫状の微高地にそれぞれ規模の異なる集落が離散的に存在していたことがわかる。それらの多くは主要道に直接面さず、ぶどうの房のように主要道にぶら下がるようにして屋敷地と畑地、そして小規模な雑木林が複雑な小道によって面状に組み合わされた集落を形成していたのである。しかしながら、園芸産業が盛んになっていくにしたがい、昭和後期より土地の多機能的な利用が加速していき、住宅だけでなく、ビニールハウスや樹木などの占める量が劇的に増加していった。それらが従来の房状の集落を核にして周辺の農地に展開されていき、現在のように多種多様な緑が溢れる特異な環境が生まれたのである。
用土の基本的な空間構造は日本の典型的な農業集落のものと同等であるが、元来集落間に広がっていた田畑が園芸用の樹木栽培用地に転換されたことによって、見通しの良かった集落間の風景が、視線の抜けがなく、立体的で迷路的な風景へと変貌した。その結果、集落の外に出てもなお集落内に囚われているような感覚を私たちに与えるのである。つまり、集落同士が園芸用地でつながれるようになったことで、まち全体が一体の巨大な庭園であるかのような印象を生み出しているのだ。
しかし、鉢物やビニールハウス、そして比較的低木である果樹林などが緩やかに複数の集落をつないでいる一方で、なかには敷地全体で高木を含めた多種多様な植木を栽培し、雑木林のそのもののようになった園芸農地も存在している。隣り合う水田からは巨大な森の切片のようにみえるこの風景も戦後につくられたものである。私たちが最初に訪れた園芸農家も同様であり、公道を挟んだ2つの田んぼをまとめて1つの植木園につくり変えた結果、現在は大きな雑木林にまで成長し、かつての公道はいまや林を抜ける私的な小道へと変貌したのである。
これほどの環境の変化が個々の住民によって半世紀ほどの短期間に引き起こされたということは、居住環境の空間史、とくに非都市における産業と環境利用の関係を考えるうえで極めて重要な出来事であったといえるだろう。用土のように都市的機能をもたない農業を基盤としたまちであっても、歴史的に一定程度の人口が集合しており、産業を持続させるための余力があること、一方で産業の変化に耐えうる土地や資源を有すること、そして流通を担う都市が近傍に存在すること(これらは低密度なまちの多くが有する特徴である)によって、時代の流れに応じた新たな産業を生み出してきたのである。そうした産業がまちの環境を大きく変化させ、結果としてそのまちに固有の風景をつくり出してきたのである。そしてこれは低密度なまちに多くみられる普遍的な状況であったと考えられる。
目線を屋敷の周囲に向けてみると、その独特な境界装置に気がつくだろう。用土では園芸用の花木がごく容易に手に入ることから、各家において多様で特徴的な生垣や柵、樹木、植栽などを見ることができる。たとえば他所では普通使われることのないなどの樹木が使われていたり、垣根の間に背の低い樹木が植えられていたりと個性豊かな環境を構成している。またそれぞれの家によってその趣向が異なっていることも興味深い。
集落内部の屋敷の境界装置には背の低い生垣や塀が用いられることが多い。しかしその一方で、農地の周囲には境界装置は設けられておらず、同様に園芸用地にも境界装置がないことが多い。その結果、整然と並んだ大小の植木や苗木、あるいはビニールハウスが街路に対して露出することでまちのなかに特異な風景として表れている。
用土では、前述のように集落間の空間を立体迷路へ組み替えた植木栽培をはじめ、同じく集落間の農地の転用ではありながらもコンパクトかつ機能的に土地利用がなされている比較的小規模な鉢物栽培まで、多種多様な園芸が営まれている。それらの草花や樹木、そして様々な境界装置が街路に露出することによって、用土のまちの彩り豊かな庭園のような風景がつくり上げているのである。
最後にまちの周縁部で起こっていることに目を向けたい。まちの内部には上述のように樹々の生い茂る園芸用地が点在しているが、1つ1つの土地の大きさはそれほど大きくなく、また土地ごとにさまざまな種類の樹木や鉢物を林のなかや露地、あるいはビニールハウスなどの多様な環境を用いて育てているため、それらによって構成される風景は断片的である。それらの断片的な風景がモザイクのように混ざり合うことで1つの巨大な庭園となり、そのなかに私たちを捕えて離さないのであった。
一方で、その周縁部においては土地の集積によって成長した大規模な農場も存在している。これらの農場の成長は近年のことであり、今後も大きくなっていくことが考えられる。耕地整理された広大な農地を転用し、機能的にゾーニングされた農地には、大量の鉢物が機械的に配置され、巨大な温室が何棟も並べられている。農業人口が減っていっている現状において、こうした集約的で効率化された生産方法は有効である。おそらく、今後まちの内部の農地も集約化されていくだろう。その時にどのような風景を次の世代に残していくかを議論すべきである。
2023年3月15日