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都内より高速道を1時間程度東進し、東金より南下して九十九里浜に出れば、そのあたりが千葉県山武郡九十九里町は不動堂地区である。九十九里浜に隣接する町営の駐車場に車を停め、少しの砂丘を越えると目の前に長大で単純な海岸線が現れる。視線を遮るものはなく、緩やかな曲線を描く砂浜が見渡す限り続いていた。
海岸と平行に走る有料道の土手下を潜り抜けると海産物を売りにした食事処やシャワー場など海水浴客向けの商店や住宅がまばらに建っている様子が目に入る。九十九里浜は都内から日帰り可能な海水浴場として往時は大変な賑わいをみせていた。しかしながら、現在も営業を続けているいくつかの民宿や食事処は老朽化が進んでおり、まち全体に古びた印象をもたらしている。その一方で下草の生える空き地に仮設小屋が無造作に並ぶ風景は、決して華やかではないものの、取り繕わない親しさを感じさせる。このまちは訪問者に対して開いていると同時に閉じてもいるのであり、その度合いは住民自身の満足のために気の向くままに決定されている。そのような印象を受けたまちの端であった。
砂浜からまちにかけては順に、砂丘と盛土された有料道、そして産業道路である県道が水平に横たわっており、まちと海との間に物理的、心理的な隔たりを生み出している。交通量の多い県道沿いには住宅や商店、飲食店、そして民宿が並び、観光地としての景観を構成しているが、それらを横目に道路を越え、一歩奥に足を踏み入れると、周囲は突如として静かな住宅地へと変わる。そしてそれと同時に目につくようになるのが鬱蒼と高く生い茂る藪だ。不動堂のまちの多くの部分は藪と下草で覆われた空き地に占められており、それらの藪は広大に横たわるものから局所的、あるいは線状のものまでさまざまであるが、森を思わせるようなそのボリュームが不動堂のまちの印象を強く支配していることに気付くだろう。
不動堂は近世以前より地引網漁によって発展してきた漁業のまちであった。しかし明治時代後期以降におきた複数回にわたる不漁と土地利用の近代化にともなう産業構造の転換を通して、漁業は港湾機能の整備された片貝に集約され、代わって美しい砂浜を利用した観光業と在来の農業がおもな産業となった。
縄文海進時に海底であったあたり一帯の地形は広範囲にわたって平坦であり、同様の空間構造と人口密度を有するまちが海岸に沿って連続的に拡がっている。このまちには前述の高速道路と九十九里浜沿いを走る短区間の有料道を除いて、鉄道などの交通インフラはない。また観光向けの飲食店や宿泊施設は少なくないものの、スーパーやドラッグストアなどの生活機能に乏しく、食料品などの購入は近郊の古くからの市街地である片貝地区に依存している。最盛期(2000年)は20,266人であった九十九里町の人口も2020年には14,496人にまで減少している。
主要産業が集権性の強い地引網漁であったことと直線状の海岸線が長い時間をかけて段階的に進展してきたことにより、この地域一帯には岡集落と納屋集落という特徴的な集落形態が形成されてきた。本メッシュ内には海岸近くの納屋集落と内陸の街道沿いに近世以降遅れて発達した新田集落、そして内陸側の岡集落が含まれている。それらは2つの主要な道路を挟み込むかたちで九十九里浜に平行に位置し、さらに内陸には岡集落とよばれる比較的大きな屋敷をもつ農家と耕作地が広がっている。並走するこれらの三層がこのまちの空間の伝統的かつ基盤的な構造であるが、それらを縦断するようにして海岸から垂直方向に展開した戦後の住宅開発や、漁業の衰退と社会構造の変化による納屋集落の解体と土地の分譲、ミニ開発やソーラーパネルの設置などの農地の転用、あるいは荒れ地化によって、新たな生活風景が生まれている。
戦後の住宅需要に伴い、旧来の納屋集落や新田集落の敷地の一部を転用する、あるいはそれらの間に横たわっていた藪地を切り開くことによって、海岸と垂直方向に展開する住宅群が造られていった。納屋集落において、元来多くの水夫が居住していた網元屋敷は大きな敷地と藪の境界装置を有していた。小さな敷地に解体される際に、それらの境界装置を部分的に引き継ぐことで、細い街路を挟んで藪と空地あるいは庭、そして住居が混在する独特な景観が生み出されたのである。
上の平面図はまちの鎮守である天照神社の門前(図中左側)から県道(図中右側)にかけてのびた街路を核に、前述の三層構造を縦断するかたちで展開した住宅群を描いたものであるが、そうした中にも様々な空間利用をみることができる。県道側では納屋集落の広大な敷地を転用した一体型の住宅地開発(なかには飲食店や民宿も)をみることができるが、藪に囲まれた細道を抜けて行くと前述の藪と空地と住居が混在する独特な街路景観が始まる。住居が整然と密集する旧街道沿いの新田集落の領域を越えると再び藪と空地の風景が広がり、かつて海岸線であった場所に鎮座する神社にたどり着く。
そして興味深いことに、こうした細い街路から藪の壁の裂け目を抜けて一歩旧網元屋敷の敷地内に入ると、そこには空地が広がり、空地を取り囲むようにして住居が点在している様子が目に入る。左右を藪に囲まれた狭小な空間から開かれた空間への移動は強い開放感を伴う体験であった。これらの空地は開かれた空間であると同時に周囲を藪に囲まれた空間でもあり、移動に伴う開放感と藪による囲まれ感がもたらす求心性が空間の神聖さと親密さを同時に高め、この場所に対する特別な感情——帰属意識を生み出している。
近所の子どもたちが藪に周囲を囲まれた空地の中を元気よく走り回り、ボールを使って遊んでいた。彼らにとってこの空地は自分の家の庭の延長でもあり、友達と集まれる公園でもあるのだ。そこには自由と安全、そして共同性が存在していた。
このような空地と藪を要素とした内‐外‐内の構造の連続によって街路および街区が形成されている。藪という境界装置を核に不動堂中心部の空間構造が形成され、全体的な印象が編み上げられているのである。
より内陸側に足を運ぶにしたがって、住居よりも田畑や荒れ地が多く目につくようになる。この辺りには各住居の境界装置同士が接していない、互いに独立した大規模な農家が遍在している。これらは岡集落と呼ばれる集落形態であり、地引網漁のために浜に沿って形成された納屋数落や街道沿いに遅れて形成された新田集落とは異なり、ほとんど街区を形成していない。
こうした形式の農家は広大で平坦な土地においてはよく見られるが、ここでも興味深いのが農家屋敷の周囲に深々と生い茂る藪である。一般的に藪は農家の生活にとって欠かせない資源を供給する場であり、防風林としても機能する有用な環境装置である。ところが、不動堂においては非常に広範に藪が残されており、それらが前後に重なり合いながら屏風状に連続している。このような情景は他所では見ることができないだろう。
平坦な大地と空のあいだに横たわる広大な藪が遠景への視線を遮ることによって、農地が広がる前景においては閉鎖的な印象を与える一方で、同時にその背後まで長く続いていく平地の存在を予感させる。藪による視界の遮断と変化の少ない地形がそれらの背後に隠された領域の心的描画を促しているといえる。
以上のように、不動堂の風景はいずれの場所においても大小の藪の存在によって強く規定されている。時代の流れと地域社会の変化に寄り添いながらさまざまに形成されてきた藪は、空間を分断し視界を遮るだけではなく、人間の認知と行動に影響を与え、その結果としてそれぞれの場所に特別な体験を伴った印象をもたらしているのである。
地引網漁で発展してきた伝統的なまちが近代化による産業構造の変化によって一時はまちとしての役目を終えて衰退するも、のちに海水浴のまちとして華やかに返り咲いた。しかし、人口減少と都市集中の波には逆らえず、まちは高齢化し、分譲地の多くは売れ残り、荒地と藪が大部分を占めるようになった。
しかしながら、良好な波が立つことで有名なこの地域には古くからサーフィン文化が根付いており、現在も多くのサーファーがこのまちに住み、朝夕の波を愉しんでいる。訪問中にも最近引っ越してきたという若い夫婦に出会った。彼らもサーフィンが趣味だそうである。昔から多くのサーファーが好んで住んでいたからだろうか、このまちには西海岸風の凝ったデザインの低層住宅が多く存在している。これらの住宅は外部環境に開いた設計であることが多く、藪の切れ目から垣間見えるあけっぴろげなファサードが、プライベートでありながらも他者に開かれた両義的な空気感を醸成している。こうした私性と公性、あるいは開閉を合わせもつ空気感こそが藪のまち不動堂の印象を特徴づけている。
近傍にあるにも関わらず、まちの中からは海を視ることができない。それにも関わらず、藪の中に立っていると近くに海がきこえるような気がするのはなぜだろうか。遠くまで続く平坦な地形と背後の山の不在、そして藪に囲まれた空間の中で空と大地との私的な対話を交わすこと、海砂が入り混じる道や住宅の白壁とデッキが渚の風景を予感させるのだろうか。産業を失った海辺の小さなまちが居住の新たな選択肢となるために十分な環境がこのまちにはあるといえるだろう。
2022年1月8日