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益子は、関東に住む人間であれば一度は耳にしたことがあるだろう、陶器市で有名なまちである。ただし、訪れたのは陶器市が開催され、多くの店舗が並ぶ城内坂ではなく、その隣に位置する昔からの町場であり、いわば陶器市の舞台袖である。
このまちは、関東平野の北部、八溝山地の際に位置し、茨城との文化的つながりが強い地域にあたる。現在も比較的交通の便がよく、国内有数の工業団地として知られる真岡市街より自動車、鉄道ともに20分程度で訪ねることができる。古くからの交通の要衝の街道町として発展したまちである。
まちに着くと、観光を意識したデザインの駅舎とロータリーが出迎えてくれる。駅前にはタクシー会社や観光案内所が並び、かつて国内観光産業が豊かであった頃の面影を感じさせる。まちの中心を通る商店街は古びており、空き地も多く、ただちに印象に残るような美しい町並みがあるとはいえない現状がある。
益子の第一印象は、随分と山が近いということであった。まちの範囲は狭く、少し北に歩くと目の前に水田が広がる。山の北側に沿うようにしてまちが形成されているため、冬の朝、日が低いうちはまち全体がとても冷え込んでいたことを思い出す。
益子を一言で形容すると山の裾野のまちとなるが、その特徴の1つとして山裾から連続する大小さまざまな樹木の存在があげられる。商店街を歩いていても印象に残るのは建物ではなく、裏山から連綿と続き、絶え間なく目に映る屋敷林や庭木と生垣、そして盆栽にいたる極小の緑なのであった。
猿子や増子とも記されるこの地域一帯は、縄文時代の遺跡や古墳が残っているように古くから人が居住していた場所である。中世に益子氏の居城が築かれ、南北朝期には南朝方の最北端の拠城として重要視される。徳川の時代以降は黒羽藩領となり、下之庄支配の拠点として陣屋が置かれるようになる。
地内5組(新町、内町、城内、道祖土、石並)のなかでも農家が居住していた新町と内町が調査対象の範囲にあたる。
幕末には黒羽藩の支配と保護を受けて瀬戸焼が発展していく。藩から窯を借り、農間余業として徳利、土鍋、土瓶などを生産した。生産された商品は船で江戸に運ばれ、日本橋瀬戸物町で捌かれるようになる。近代以降、交通網の発達に従い東京方面に販路を広げ、明治30年(1897)代には窯元数も50軒に達し、アメリカ合衆国への輸出も盛んに行われた。ところが大正期に入ると家庭用燃料の転換やガラス製品、軽金属製品の普及によって需要が減少し、生産も伸び悩んだ結果、不況に陥ってしまう。
そうしたなか、浜田庄司が始めた民芸品としての益子焼が第二次世界大戦後に人気を集め、ブームが到来した。現在も民芸品として名声を博している益子焼は浜田を起源としたものである。
冒頭にも述べたように、年に2度開かれる陶器市では、城内坂に並ぶ50の店舗の前に約600のテントが設置され、益子焼を目当てに合計約60万の人が訪れる。さらに東方の山麓斜面地である道祖土には窯が多くつくられ、多数の陶芸家を輩出してきた。
そして、そこでの陶芸体験を売りにした宿泊施設が多数つくられたことで地域一帯が観光地として発展してきたのである。
新町や内町にも観光の余波は見受けられるものの、基本的にはその舞台袖、住宅地として成長してきた。まちのなかには生活に必要な店舗に加えて、飲食店や観光向けの小さな陶器販売店や喫茶店が遍在しており、周辺には役場やオープンモール、コンビニエンスストアなどがあり、生活に困ることはないだろう。
冒頭にも述べたように、益子は街道を軸に発展したまちである。街道に面するかたちで土地が短冊状に割られており、それぞれの土地のなかに家屋敷が建てられている。時代が下るにしたがって土地の分割が進んだり、建物の配置が変化したりしていったことが伺えるが、農家の街道集落であることは明らかである。
城内坂の西側に隣接するように内町が位置し、それに続いて新町が山裾に沿って駅の方まで伸びている。その名の通り、古くより益子において城下町の機能を果たしていたのは内町であり、新町に比して土地の区分が整然としている。長屋門を残す家もあり、その格式の高さが伺える。内町は丁字状の町であり、中ほどより北方の七井という地域に向かって街道が分岐している。この通りには特に大きな敷地を有する農家が集まっており、樹高のある鬱蒼とした屋敷林が残されている。これらの林は隣接する敷地と連続して1つの大きな森となっており、まちのいろいろな場所でその存在を感じることができる。
一方で、新町の土地利用は比較的ルーズである。まず山の裾野に沿った道があり、そこに農家が集約されていった結果、今のような町場が形成されたと考えられる。道路よりセットバックした茅葺屋根の住宅が1軒残っており、現在の路面店舗型の住宅が並ぶ以前の街道の様子が想像できる。短冊状の土地が並ぶなかに一際大きな土地が点在しているが、そうした家の多くには土地の前部に広い庭や駐車場がを設けられており、これらの植物や空地が通りの景観に抑揚を与えている。
また、新町の南側には街道に並走する道と住宅群が存在する。この道は他所よりも高い位置を通っており、そこからさらに山側の緩やかな傾斜地に山際まで住宅が広がっている。水田として利用されていた山際の土地が、戦後徐々に畑や住宅、あるいは森に変わっていったのだ。新町の2本の道は細く折れ曲がった、私的で緑豊かな坂道によってつながれているが、これは農地から徐々に町が形成されてきたことの名残りだろう。街道の北側にも町の背後に抜けるための路地が同様に複数通っている。
戦前までは両町ともにおいて、街道北側の各敷地の背部には屋敷林が存在しており、それが背後の水田と町との間の明確な境界となっていた。山裾の自然環境を活かした街道設計であったと考えられる。ところが、戦後の人口増加と世帯構造の変化に伴い、住宅需要が高まった結果、屋敷林には住宅が建ち、周囲の水田も徐々に住宅地として開発されていったのである。
日本には、以上のような街道のまちが非常に多く存在しており、そのため、益子にはまちの空間構造が直接影響して生まれたような特徴的な風景はないといえる(普遍的な低密度な風景を有しているともいえる)。そうしたなかにおいて、益子の風景をもっともよく特徴づけているのが、裏山の樹木の緑とまちの中心に残る屋敷林の緑を連続的につなぐ、まちのあちこちに散りばめられた、庭木や生垣、盆栽のような小さな緑だろう。
戦後の住宅不足に伴う土地不足と木材需要の高まり、そして住環境の向上(気密性の向上や暖房器具の電化など)と生業の変化によって敷地内に雑木林自体が不要になったことにより、屋敷林は伐採され、新たに家が建てられるとともに、余った敷地には庭がつくられ、観賞用の樹木が植えられたのである。こうした現象自体は日本中でみられることであったが、益子はその表し方がほかの地域とは異なっていた。
益子のまちを歩いていてまず目がいくのは、大谷石を用いた境界装置や石蔵である。高級石材として有名な大谷石であるが、その産地の近さから多用されていることが推察できる。しかし、それ以上に興味を引かれるのが、上述のような小さな緑に捧げられた熱量である。松は見事な玉散らしに仕上げられ、生垣は独特な形状(角の立った直方体や円柱など)に整えられている。また、隣近所と被らないような樹種選びが行われており、十字路では色とりどりの樹木が顔を覗かせている様子を見ることができる。それらはどことなく小ぶりであり、とても繊細に手入れされている。そして、なかでも重要なのが盆栽だろう。
益子では他のまちと比較して盆栽を見る量が圧倒的に多いが、その理由はある程度検討がつきそうである。
このまちでは、商売であれ趣味であれ、陶芸を嗜む人が多く、住宅の裏に作業小屋と焼き窯を付設している家が多くみられる。彼らにとっては、手で土をこね、うつわや鉢植え、置物などの小さなものを形づくるということが、生活と密接に関わるものとして存在している。一方で、山に寄り添い、重厚な屋敷林に守られて暮らしてきた益子では、樹木もまた肌身に近しい存在であったことが想像に難くない。おそらく彼らは盆栽という形式を通じて、慣れ親しんできた樹々を自らが制作したうつわの上にミニアチュールとして、あるいはメタファーとして移植しているのだ。そうした盆栽的なる小さきものへの愛着や執着が、庭木や生垣の剪定にも影響を与え、益子のまち全体の空気感をつくりあげていると考えるとなお面白い。
まちのあちこちに散らばる小さな緑と対照的なのが、街道沿いに設けられた複数の駐車場である。これらは年に2回の陶器市が開かれる際に臨時の駐車場として機能するが、通常は何もない巨大な空地にすぎず、街道沿いの町並みに大きな横穴をあけている。こうした空地が町並みの美観を損ねるということに相違はないが、一方では、閉じられていた街路空間が開かれ、裏や奥の空間との視覚的なつながりが生じたと考えることもできるのである。特に益子では、こうした空地を介して、裏山と内町に残る屋敷林、そして離散する小さな緑のあいだにゆるやかな視覚的連続性が生まれたのだ。
また、これらの空地は街道から山側の裏通りへの視線の抜けをつくり出し、裏山との心理的距離をより近くしている。街道より標高の高い位置に通された裏通り沿いには、街道と比較して大きな土地と屋敷が並んでいる。なかには複数の窯元や工場もあるように、街道沿いの商店街に対する本拠あるいは裏側として機能してきた空間であるらしい。しかし、近年では米蔵を改修した益子焼と古家具の販売店(東京の表参道にも店舗をもつ)ができたり、コーヒー豆の焙煎所兼カフェができたりと、静かで緑豊かな環境を活かした機能の更新が起こっている。
また、街道沿いにおいても、長屋門などの古い建築をリノベーションした場所づくりが進められている。時代の変化に伴い、観光と生活の距離が再び近づきつつあるなかで、小さな緑の風景がどのように継承されていくのかということに期待したい。
2023年12月3日