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茨城県南部にあたる潮来市は、利根川と霞ヶ浦・北浦の合流部の低湿地帯に位置する日本屈指の水郷地帯である。徳川家康による利根川の東遷以降、近世期において霞ヶ浦・北浦は河川交通の要所となり、とくに潮来は、江戸へ米や物資を運ぶ舟運の中継地として栄えたのであった。
潮来市の東端のまちである延方は、北浦の付け根のあたりの西岸に位置し、北浦を挟んで鹿嶋と向き合っている。このまちは、古くより鹿島神宮へ渡る交通の要所として発展してきた場所であり、現在も延方と鹿嶋のあいだには2本の国道51号線(在来線とバイパス)とJR鹿島線が通っており、3本の橋がかけられている。鹿島臨海工業地帯への主要な交通経路でもある。
東京から東関東自動車道を利用して自動車を2時間程度走らせ、終点の潮来ICを降りると、残り10分足らずでまちなかに到着する。このICが終点であることから、このまちが東京からの自動車交通における1つの終着点であるといえなくもないだろう。たいして、鉄道は乗り継ぎが多く、2時間から3時間かかる。
私たちはまちの北側に位置する延方駅の駐車場に車を停めて、延方駅周辺の住宅地から歩き始め、調査範囲からは外れてはいるが、まちの北部の北浦に面する集落へと足を伸ばしていった。比較するうえで基本形となりそうな、直線状の水郷集落の空間構造を観測しつつ、北浦の大きさを確かめたかったのである。
水際には、橋梁の補修工事だろうか——鉄槌が振り下ろされる甲高い音が鳴り響いていた。
延方のまちの南方に広がる田園地帯は、かつては前川という川が流れる湿地帯であった。1960年代初頭より干拓され、現在のような広大な水田がつくられたのである。古くは洲崎とも称していたことからもわかるように(まちの東方に一部その名が残る地域がある)、延方はもともと、北浦と前川との間に突き出た岬のような微高地上に形成された集落だったのである。
延方という名は鎌倉時代初期より存在するといわれており、西区と東区に分けられた2つの集落は、両者とも多くの旧家が残存する古い空間構造を有している。1960年代の干拓事業以降、もともと集落の外周に位置していた水田に対しても耕地整理が行われ、現在のようなかたちになるが、従来は北浦や前川から集落に向かって多数の水路が水田の脇に切られており、住民は集落の中から直接船に乗って川や湖に出ることができた。
延方は元来農業を主要産業とするまちであり、交通の要所ではあったものの、交易のための町は形成されず、現在にいたるまで商店街はもたなかった。1970年頃より住宅開発が進められてきた延方駅前には、数軒の飲食店やクリニックはあるものの、売りに出されたままの空き地が多く閑散とした状況にある。
国道沿いの歩いて行ける距離にオープンモール型のショッピングセンターやコンビニエンスストアがあることや、潮来市街が自動車で西に5分、鹿嶋市街が北浦を渡って10分といった非常に近い距離に隣接しており、高校や病院、公共施設、ショッピングモールなどの施設があることから、日常生活を送るうえでの不便はないと思われる。
現在においても、農地の転用による一定規模の住宅地開発が続いており、移入者の数も増えている。それに加えて、住民の流出も比較的少なく、旧家の建て替えも多く見られることから、まちの新陳代謝は少なからず行われているようであり、実際にも延方の人口は増加傾向にある。
延方のまちの空間は微地形の強い影響を受けながら形成されていったものと考えられる。延方の北方に位置する下田地区は、近世の新田開発に際して北浦に面する低地につくられた水郷集落であるが、この集落は道の両側に屋敷とそれぞれの背後に水田を擁している。それに対して、延方の両地区は微高地の地形に応じて曲線状に形成され、かつての前川に面する南側の低地部分にのみ水田を有している。
一方で、微高地の内側には古くより数本の道が通されており、その両側に方形の屋敷地が房状に形成されてきた。道と屋敷地とのあいだに広がる土地はおもに畑として利用されていたが、そうした道と離れた農地のあいだにも屋敷地は形成されており、現在も農家を続けていることが確認できる。また、戦後において徐々に農地が宅地へと転用されていき、周囲に生垣をもつ屋敷地のあいだに小規模な住宅が密集するようになっていった経過を、航空写真によって確認することができる。
前述したように、まちの南部には近世の新田開発と戦後の干拓によって生まれた水田が広がり、水郷と呼ばれるこの地域一帯の風景の一端をかたちづくってきた。一方で、道路南側の水田地帯にもいくらかの屋敷地や住宅地が進出している様子がみられる。これらは戦前から現在にかけて徐々に建設や開発されていったものであるが、こうした事実からは、延方の居住領域と耕作地帯の境界が、新田開発や干拓などの土地の改良にともなって、微高地から低地へと徐々に移動していった歴史を読み取ることができるのである。
延方の農家の屋敷地は正方形に近い形状をしており、その四周は背の高い生垣によって囲まれている。このような生垣は北浦からの強風を防ぐため伝統的につくられてきたものであり、茨城県南部の水郷地帯の集落ではよくみられる境界装置である。
背の高い生垣によって形成される延方の街路空間は、視界の幅や空間の奥行きが場所に応じてシームレスに変化していくといった、まるで堅牢な城塞都市のような風景を生み出している。集落内部の風景は生垣を備えた屋敷地の疎密によって大きくその性格を変えるといってもよいだろう。
集落内には車がすれ違えないような幅の道も多く、ほとんどの場合においてこれらの道の両側には屋敷地が密実に並んでいる。視界の左右を背の高い生垣に阻まれていることや、さらには、微地形に沿ってできたこれらの道は緩やかな曲線を描いており、その先を見通すこともできないことから、親密ながらも疎外感の強い街路空間となっている。
また、古道の近くには複数の屋敷地がより集まっている場所もみられる。そうした古くからの集積のある場所ではその内部に折れ曲がった道を形成していることが多いが、ここでは見通しが悪くなることを防ぐために、路地に対して生垣の高さが低くされたり、透過性の高い樹種に置き換えられたりしていた。それにより、ひとつの小さな集落のような求心的で閉鎖的な空間がつくり出されていたのである。
一方で、幅の広い岬のような形状の微高地に形成された延方のまちでは、古道から離れた場所では異なる性格の風景を見ることができる。それらの場所では、基本的には道に沿いながらもそれぞれの屋敷地が島のように互いに離れて位置しており、その間は畑として利用されている。そのため、斜めに配置された屋敷地のあいだから空地を通して遠方の田園風景を望むことができるのである。
また、まち南部の水田地帯との境界では、微高地の縁に屋敷地が隙間なく立ち並び、それらの生垣が街路に面した敷地境界戦場に連続することによって、集落の内側を守るような樹木の壁をつくっている。生垣が集落の内外を明確に区切っているのだ。一方で、前述のように水田側に農家の屋敷が進展した場所においては、2つの屋敷地に挟まれた街路空間は道の両側を重厚な生垣によって囲まれている。そのため、本来は微高地の外側の集落外部にいるはずなのに、まるで集落内部に立っているように感じることも興味深い。以上のように、延方では、境界装置が街路空間を形成していく過程とその各段階におけるさまざまな空間の質を見ることができるのである。
先にも述べたように、延方の背の高い生垣は北浦によって発生する強風から屋敷ないしは集落全体を守るために設けられた、いわば水辺の境界であった。しかし、まちを歩いていると、こうした物理的な境界装置だけではなく、目には見えない境界が確かに存在していることにも気がつくだろう。
そうした境界の存在に気づかせてくれるのが、水神や弁財天など水にまつわる神仏を祀った神社や祠である。これらはみな、洪水から集落を守ることを祈願して、微高地の縁、つまり集落と水田の境目に鎮座せしめられたものである。また、まちの東部には「地蔵河岸の常夜灯」と呼ばれる常夜灯が水神宮と並んで建っている。これはこの場所が岬の先端であった時代に、北浦を航行する船の安全のために設けられた灯台であった。現在は埋め立てられてしまい、かつての面影はない。しかし、これらの社祠や常夜灯の向こうに水の領域が広がっていたことに想いを馳せ、このまちが湿地を通じて周辺のまちや世界とつながっていたことを再確認することくらいはできるだろう。
最後に、まちの南方において水田のなかに建つ巨大な土木建造物に目線を向けながら延方というまちについて考えてみたい。現在延方が終点となっている東関東自動車道には、北浦西岸を通って水戸方面へと北へ延伸される計画があり、実際に多くの場所で用地取得が進み、建設が始まっている。こうした状況において、先行して建設された高速道路の断片がモノリスのように圃上の空中に横たわっている様子が見られるのである。
このような開発が景観を破壊するという見方はもっともである。しかし、延方というまちには、集落が発展していく過程がさまざまな境界のあり方として残されてきた。延方を歩いていると、集落というものの歴史の断面を覗いているような感覚になるのである。そのような観点からみれば、干拓によってできた水田の中を通る高速道路もまた新たな境界となり、まちに新風が吹き込むきっかけになるとはいえないだろうか。
2022年9月12日