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荒井という名の漁業集落を核に発達した小さなまちは、鹿島神宮で知られる鹿嶋市街より自動車で15分ほど北へ向かった、鹿島灘に面する海岸沿いに位置している。市街地をあとにして国道51号線を走ると、鹿島アントラーズの本拠地であるスタジアムを過ぎたあたりから、道路の左右に樹木が立ち並ぶ景観に変わる。海岸沿いの低地と内陸の台地のあいだの斜面地に残された細長く続く森の中を、私たちは走っていたのである。
鹿島臨海工業地帯にほど近いにもかかわらず、この海岸沿いにはなお豊かな自然が残り、ハマナスの群生地があることでも知られている。初夏、海岸の砂地で鮮やかなピンク色の花が咲いているのを見かけたなら、それはハマナスにほかならない。
鹿島灘に面する海岸沿いには、前述したような景観が10キロメートルほど続き、同じような人口規模の低密度なまちが連なっている。それらのまちはいずれも、海岸沿いに形成された漁業集落と、高度経済成長期につくられた台地上の住宅地が一体となって成り立っている。一定の間隔おきに学校、郵便局、集会所などの公共施設や社寺が置かれ、それぞれのまちの中核をなしている。
そのなかでも私たちは、古くから北浦の湖岸に至る道(現・荒井行方線)の分岐点があり、さらに鹿島臨海鉄道の駅も設けられた荒井を訪れることにした。国道沿いの寺院に車を停めさせてもらい、まずは海側の集落を歩き始める。生垣に囲まれた坂を少し下ると、大きな水田が目の前に開けたのであった。
戦国室町期には、隣村の青塚とともに「青塚荒地村」として扱われていた。その後、分村の際に「荒地村」と名乗るのは憚られるとして、水を表す「井」を加え、「荒井」となったという。「荒地」という名が示すように、地味の悪い土地だったのだろう。海岸砂地を開墾した水田は塩分の影響で作物が育ちにくく、畑も砂地の這い上がりによって同様であったという。
この地に最初に集落を形成したのは、北浦側の蛭子村からの移住者と、紀州から下総にかけて漁業を営んでいた漁民であった。慶長7年(1602)の検地帳には12軒が記されており、これが初期集落の規模であったと考えられる。彼らの生業は漁業と農業を主体とし、江戸時代には地引網漁を中心に、浜辺では製塩や鰯の加工なども行っていた。当時は浜が生活の中心を占め、集落経済の核をなしていたのである。
明治時代以降、台地上に広がっていた山林の開墾が進み、多くの森が切り拓かれ畑地へと転換された。それに伴い、生業は漁業主体から農業との兼業へと移り、さらに戦後に開墾が進んだことで、次第に農業主体へと変化していった。なお、山林も砂地であったため樹木の生育が悪く、木材や燃料などは他村に頼ることも多かったという。1970年代に入ると、世帯構造の変化により台地上に居住する人びとが現れ、二次産業に従事する者も増加した。
1985年に鹿島大野駅が開業し、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線が開通すると、鹿嶋市街への通勤の利便性が大きく向上し、台地は突如として住宅地として注目されるようになった。その頃から畑地の宅地化やさらなる開墾が進み、面的な宅地開発事業が展開され、現在見られるような住宅地が形成されたのである。
ドラッグストアとコンビニが1軒ずつと車で5分ほどの場所にスーパーがある程度だが、鹿嶋市街へ車や鉄道で15分ほどで出られることを考えれば、十分な生活機能をもつといえるだろう。
荒井のまちは国道を境として、海岸沿いに形成された漁業を主な生業とする集落と、近代以降に開発された台地上の住宅地という、大きく2つの領域に分かれている。海岸沿いの集落の空間構造は戦後からほとんど変化していない。浜に沿って横たわる塚地の上に帯状の集落が形成され、内陸側、国道脇の崖下には屋敷群が連なり、両者の間には水田が広がっている。海に近いながらも、わずかに地盤の高い台地縁と塚地に屋敷を構え、低地を水田として利用する空間構成であることがわかる。
終戦直後の航空写真を見ると、海辺の塚地にある集落では、防風・防砂のための厚い屋敷林で囲まれた屋敷地が水田に面して一列に並び、その浜側に多くの建造物が密集していることが確認できる。これは漁や加工に用いられた納屋であり、その多くは昭和期に建設されたものである。屋敷地ほどの規模ではないものの、納屋にも敷地境界が設けられており、その内部で作業が行われていた。これらの納屋が建っていた土地は、現在では住宅地として利用されており、なかにはウィークエンドハウスも建っているが、かつての細胞状の土地割りがなおも残っている。
一方、台地上では終戦までに山林の半分ほどの面積が開墾され、畑地へと転換されていた。当時、台地上に住む人はわずかで、海側の森の中に数軒の屋敷が建っていたに過ぎず、ほかにも小学校と神社と寺院があるのみであった。
1980年代にかけてさらに広い範囲が開墾されると、畑地の中にも離散的に住宅が建ち始めていき、1990年代には一部で宅地開発が進み、2000年代にかけて現在のような面的な住宅地が現れるようになった。1970年代までは、北浦側へ抜ける道のほかにはほとんど道路が存在しなかったが、住宅地としての開発が進むにつれて道路網が整備されていった。
現在は、敷地内に小さな畑をもつ住宅と、庭付きの一戸建て住宅とが混在して建ち並んでいる。農地多くは宅地へと転換され、まとまった耕作地はわずかに残るのみである。まちの中央付近にみられる大きく開放的なグラウンドは、2000年代に森を切り拓いて整備されたものだ。戦前と比較すると明らかに減少しているが、それでもなおまとまった緑地が各所に残されている。
住宅地には、畑地を宅地化した場所と森を開墾して宅地化した場所の2つがあるが、後者では住宅地の周囲にも内部にも多くの樹木が残り、またモザイク状に開発された住宅地どうしのあいだにも一定規模の緑地が点在している。
海辺の景観は、飛び砂による砂山の発達と台地の地膨れによって形成された塚状の地形によって規定されている。隣の青塚という地名は、その塚地に青々と松や灌木が繁茂していた様子に由来すると考えられるが、荒井もまた同じような風景をもっていたのだろう。現在もその名残を随所に見ることができる。
前述のとおり、屋敷は塚地の上に水田に面して並び、南側に広い庭をもつ構成となっている。しかし実際に訪れてみると、それらの屋敷は塚に埋め込まれるように建てられており、水田側を正面として塀と門が設けられる一方、背面には塚の断面が露出し、低木の樹木帯に囲まれている。塚地の森を切り拓いて整地した結果として生まれた、いわば天然の屋敷林といえる。
塚という不規則な地形のなかで、わずかに高さが適した場所を選んで屋敷地としているため、敷地と敷地のあいだには樹木が残っており、また敷地の向きもそれぞれ微妙に異なる。こうした条件から敷地間の連続性は乏しく、集落としての一体性は感じにくい。この傾向は、台地の縁にある屋敷地でも同様である。
そのような環境の中で、海岸に平行して帯状に広がる水田だけが開けた空間をつくり出している。多くの場所では、水田の背後に小さな森が横たわり、その袂に屋敷が点在する独特の風景が見られる。こうした小さな「谷」のような風景が、集落、さらには鹿島灘地域一帯の空間的な意識を形づくってきたのではないだろうか。
一方で、後継者不足や(聞いた話では)あまり良質な米が収穫できないといった理由から、現在では多くの水田が耕作放棄地となっている。すでに一部では太陽光パネルが設置されているが、住民の多くはその設置に反対しているという。利用されなくなった土地には雑草が繁茂しており、決して望ましい状況とはいえないが、「海辺の谷」の風景はなおよく保たれている。管理が比較的容易なまちなかで、これほど大きな連続した土地が残されているのは珍しい。広さと伸びやかさを活かした新たな用途へと転換する局面に差し掛かっているのかもしれない。
国道を越え、急な坂道を上る途中にいくつかの小さな住宅地がある。1980年代から90年代にかけて斜面地に建てられたこれらの住宅の窓からは、きっと鹿島灘がよく見えるのだろう。斜面地には樹木が多く残されているため、路上からはその合間にわずかに海が覗くだけであったのだ。
坂道を上りきると、平坦な土地が奥へと広がり、その中に住宅地が展開していく。ここでも多くの樹木が残されているが、その規模は、一帯を縁取るようなまとまった樹木帯から、住宅と同程度のボリュームをもつ島状の樹木帯までさまざまである。とりわけ後者は興味深く、点在する緑の島は、住宅地という視界が限定された場所の中で強い存在感を放っている。庭をもつ住宅が多いなか、なかには塀を設けないことで、こうした樹木帯を背景として取り込み、庭の景観をより豊かに演出している例も見受けられた。
さらに、住宅地の中の空地を通して視線を奥へと送ると、手前に島状の樹木帯や住宅が重なり、その背後に大きく残された高さのある森が控えているといった情景が見える。複数のレイヤーが重層するように構成された風景は、互いに借景し合う関係性によって成り立っており、海辺の森を開拓して形成された荒井の特徴をよく表しているといえる。
台地上の住宅地を奥へと進んでいくと、建設されたばかりの新しい住宅地があった。庭先では若い夫婦と子どもたちが遊んでいる。話を聞くと、彼らはもともとこのまちの住民だったという。東日本大震災をきっかけに海岸沿いの集落から台地へ移り住んだ人が多いそうだ。沿岸部に空き家が多く見られたのは、そうした理由によるものだろう。海との関係が密接だった時代が終わりを告げて久しい。人びとは、近郊の市街へのアクセスが良く、安全な棲処を求めて森を開拓し、まちの内部を小さく移動する。沿岸部に見た、人の手を離れて荒れた緑の中に埋没した住宅を取り巻く風景には、どこかノスタルジックな気配が漂っていた。
2023年7月23日