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安達太良山のおおらかな山容をぼんやりと眺めながら、格子状に耕地整理された美しい田園地帯を真っ直ぐに走っていると、まるで金色の海に浮かぶ小島のようなまちが目の前に現れる。玉井は台地の上にできたまちだ。
その台地の東端からまちの中に入っていく。まちの入口からは緩やかな傾斜の道が奥へと続いている。この道は参道であり、突き当りには修験道で有名な相応寺の境内が面している。その入口の近くの集会所の脇に車を停めさせてもらい歩き始めた。集会所では祭りのための踊りの練習をしている最中であった。
先ほどまでの広大な田園風景とはうって変わって、まちに一度入ると、住宅に取り囲まれ、外の風景を感じることはなくなる。台地上のまちであるため、周囲の風景が住宅の背後に隠れてしまい、屋根の上には空ばかりといったようになるのである。視界いっぱいに広がる背景のない空は自分たちが高所に立っていることを強く意識させる。
しかし、見る場所と方向によっては、そうした空の中に屋根よりも遥かに高くそびえ立つ樹木の列が眼に入ることがある。それが東北地方太平洋側の農村部において「いぐね」(「い」は家を「くね」は地境を意味する)と呼ばれる屋敷林である。玉井では、冬季に安達太良山より吹き下ろす強風から住居を守るために伝統的に敷地の周りに植えられてきた。開発や住宅性能の向上にともない、随分と数を減らしてしまったが、いぐねは今なおこのまちの重要な景観要素の1つである。
本宮盆地の大部分を占めるこの地域は、安達太良山に水源をもつ安達太良川、百日川、杉田川の浸食によってできた扇状地であり、あたり一面に広大な水田が広がる郡内一の稲作地帯である。まちや集落の発達はおもに台地上に限定されるが、福島県内でも有数の遺跡密集地であることから、古くより居住や農耕に適した場所であったことがうかがえる。
安達太良山頂に安達嶺の神が祀られ、大同2年(807)にその一峰である眉岳に相応寺が建立されたと伝えられるように、古代から山岳信仰が盛んであった。一度の移転を経て、永禄3年(1560)に玉井の現在地に移ると、このまちは修験道の安達太良山への中継地のような役割を果たすようになっていく。
まちの名は井戸から玉が出たことに由来するものであり、中世には大河内(玉井)日向守によって玉井館が設けられていた。肥沃な土地は争いの火種となりたびたび戦を引き起こしたが、結果として天文16年(1547)に二本松畠山義氏によって玉井氏は陥落している。また、明治維新時の戊辰戦争では行軍の経路となり、大量の死者が出る大きな戦場となった。そしてその際にはまちの多くの財産が収奪されたという。
用地として多くの農地が必要とされた東北自動車道建設時には激しい反対運動が起こったそうだ。土地と地理に恵まれた場所であるからこそ、常に争いとともにあったのだともいえる。
一方で、現在の玉井では新築住宅の建設が進む様子がみられる。郡山市街と福島市街の間に位置する(それぞれ30分と50分の距離である)このまちは、自然に親しいベッドタウンとしての需要が高まっており、近年若い世帯の移住者が増えている。
まちなかの生活機能は乏しいが、自動車で10分の距離に大型スーパーがあり、本宮市街までも10分で出ることができる。現在計画中のスマートインターチェンジが完成すれば利便性はさらに向上するだろう(2025年完成予定)。
玉井は、安達太良山の麓の扇状地上に土砂が堆積してできた、舌状のやや傾斜のある平坦な台地の上に形成されたまちである。多くの低密度居住地域と同様に、このまちも複数の集落の集合体としてみることができる。大きくは相応寺門前に直角に折れ曲がるかたちで形成された整形な敷地形状を有する門前町と玉井神社一帯にまとまる農村集落、そしてそれらの間をつなぐようにして形成された北部の町通りの3つの集落によって構成されているといってよいだろう。
最後の町通りは、戦前までは疎らに住居が建っているだけでの道であったが、現在は呉服店や理容室などを確認できることから、戦後の市場経済と世帯構成の変化にともなう需要に基づいて形成されていったものとして考えられる。それら以外の台地上の土地は伝統的に畑として利用されてきたが、1980年代ころより徐々に宅地化が進み、現在は農地と住宅が混在するような土地利用となっている。興味深いことに、このまちには3軒もの酪農農家が存在しており、彼らの牛舎がこうした少し裏手の農地の中に建っている。
相応寺門前は農家型の町であり、短冊状に敷地は区分されているものの、その面積と間口は広く、農家としての生活に適した建物配置となっている。奥行き方向に長軸をもつ平屋の母屋を通りに面して配置し、その隣にその母屋と同程度の庭を設けている。塀の有無は家によるが、有る場合においても、トラクターなどの出し入れができるように門の幅を広くとっているため、その敷地は道に対して開放的である。また、背後に広がる農地とは境なくつながっているため、敷地を通して裏の畑まで見通せる場合が多い。かつての境界であったいぐねは、影をつくり雪が溶けなくなるため、次第になくなっていったそうである。
これらが伝統的な配置と考えられるが、別棟や作業小屋、蔵や倉庫が建てられたりと、広い敷地が柔軟に使われている。昔は家畜を飼っていた家も多かったと聞いた。
玉井神社一帯の集落は、神社の位置からおそらくもっとも古い時期に形成されたものと考えられる。その敷地形状や建築の配置に規則性はみられず、必要に応じて無軌道に形成されていったという印象を受ける。敷地の面積も相応寺門前のものと比較すると狭いものの、建物同士の間に隙間が多く、畑との距離も近いため、場所によっては視線が抜け、樹木や草地も多いことも相まって、自然環境との一体感を得やすい。
まちのメインの道を歩いているとき、家と家の隙間、あるいは敷地の背後に透けて見える空地が気になって仕方がなかった。外の風景は見えないまちの内側に、どうしてこれほどの奥行きのある空間が広がっているのだろうかと考えていたのである。訪問前に地図を改めた時分には、その空間は住宅の建っていない余った土地という程度のものとしか捉えられていなかった。しかし、実際に眼にしたものは想像していたよりもはるかに大きく開放的な、そして色彩豊かな風景だったのである。なによりも、空が大きく開けているため、集落といぐねを縁にして安達太良山の全容をはっきりと望むことができたのである。
玉井がこのように大きな畑をもつようになったのは、その台地の大きさと台地という地形そのものの性質によるところが大きい。広大な扇状地と台地が与えられたとき、水はけが良く、効率良く耕作可能な広さをもつ扇状地に水田をつくり、地盤が固く、水害に強い台地の上に集落をつくるということは、あらゆる地域においてみられる合理的な選択である。玉井の場合はその台地上の土地が必要以上に広いため、複数の集落をつくってもなお大量の上質な土地が余ったのである。その集落が比較的高密度なまとまりをもって道沿いに形成されたことも、これほどの大きな農地をもつようになった理由の1つである。
もとより畑であったのか、あるいは米をつくっていたのか。近代以前における利用方法については今後の研究を待たなければならないが、大正期の地籍を見る限りでは畑として利用されており、なおかつ細かく区分されていることがわかる。また、1970年代の航空写真ではその土地ごとにさまざまな作物が植え分けされている様子が見て取れるのである。
東西を通る道が発展していったことによって、かつてはより大きかった畑は南北に分断され、とくに北の部分に関しては80年代以降に住宅地として開発されてしまう。南に残された農地に関しても、1990年代頃より畑としての利用が減り始め、代わりに牧草地として使用されるようになっていった。
しかし、現在においても住宅付近の土地に関しては畑として利用されたり、観賞用の庭として花木が育てられたりしている。この畑でつくった野菜は非常に人気があり、玉井の農協直売所には他所から多くの人が買いに来るそうだ。作物や花木に加えて、防風ネットやビニールハウス、牧草ロールなどが畑の中にそれぞれの場所をつくっており、それらの小さな場所が全体としての豊かな風景をつくり上げている。
玉井にはもう1つ素晴らしい風景がある。それは台地の縁の部分にあたる崖沿いに見ることができる。耕作地としては狭く使いづらい土地だからこそ、彼らは花や木を植え美しい庭として愛でているのだ。地崩れを防止するため、崖の側面には芝が育てられており、色彩豊かな庭とよく調和している。
玉井の外からこの台地を見ると、そうした縁のあり方がいかにこのまちを美しく見せているかということに気づくだろう。耕地整理された水田に生え揃う稲穂の整然とした美しさは誰しもが納得する素晴らしいものであるが、畑や庭のように個々の人間の手によってつくられる断片的な情景、そしてそれらが集合することによって生まれる全体としての風景もまたかけがえのないものだといえるだろう。
ところで、実は2020年代の初めより前述した大きな畑の真ん中に道路が通され、その両側に住宅を建設する計画が進んでいる。2023年の春に再び訪れた際には工事は着々と進んでおり、いくつかの建売住宅がすでに建っていた。これは昨今のベッドタウンとしての人気を受けた開発であり、若い世帯人口が増えることはもちろん喜ばしいことである。
この結果に対する悲しみを隠すことはできないが、これも大きな政治や経済に翻弄されてきたこのまちの宿命として受け入れるほかないだろう。むしろ重要なのは、この変化を受け入れ、より良い方向に進んでいくために、このまちがつくり上げてきた風景に何が可能かを考えることなのではないだろうか。
2022年9月30日