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低密度居住地域の分布を示した地図を眺めていてこのまちを見つけたときは驚きを隠せなかった。沿岸の砂防林に突き出すように形成された円形状のまちについて、そしてこのようなまちが、規模は大小あれど庄内平野の沿岸部に複数存在していることについて、そのときまでは全くもって知らなかったのである。
なかでも庄内西山砂丘上に位置する浜中というまちは真円に近い形状をしており、規模も大きい。そのとき、その形状と地理条件に魅せられ、直感的に訪問することを決めたのであった。
前日の深夜に東京から庄内までを自動車で移動したのであるが、時期が悪く台風が直撃し、その道程は酷いものであった。酒田に到着しても雨は降りやまず、午後の雨晴れを待った。
酒田市街から最上川を渡り、海沿いの砂防林の脇を抜けていく。すぐ隣には広大なメロン畑が広がっているが、砂防林で細かく区切られているためにその全貌を知ることはできない。
浜中に到着し、まちの中心に建つ正常院に自動車を預ける。車を降りると物凄い湿度に身体が包まれた。眠気もあり少し眩暈がした。歩き始めてすぐに湿度の原因がこのまちのあらゆる場所に存在する砂であることに気がつく。先ほどまでの大雨を地面の砂が吸収して、晴れた今吐き出しているのだ。
驚いたのは地形の高低差である。地図にみる整然とした格子状の平面からは想像できない豊かな起伏の上にこのまちは建っていた。ここが阿部公房に『砂の女』のインスピレーションを与えた場所だということを知ったのはあとになってであった。
浜中は正平年間(1346-70)に越後の中浜村(今の新潟県岩船郡山北町)からの移住者によって成立したまちである。のちに道地村(今の鶴岡市)からの移住も行われている。これらの移住とまちの建設は製塩を目的として領主によって実行されたものである。沿岸部に複数存在するこのようなまちは、みな同様に建設された、いわば「植民都市」であった。
日本海から吹付ける風が運ぶ砂による被害が激しかったため、天正2年(1574)に砂防と塩焚用を兼ねて植樹を願い出ている。記録によれば元和元年(1615)から浜地に合歓木や挿し柳などの植付けを始めており、その後幾多の失敗を繰返しながらも江戸時代のあいだに数百万本の松を植林している。
近世期においては、浜街道の鼠ヶ関から吹浦間に設けられた七宿駅のうちの1つであった。
現在の様子をみると、国道112号線(旧浜街道)沿いに商店や造り酒屋があるもののその数は少なく、まちなかに飲食店や宿泊施設もないことから、浜中は都市的な集積のない、漁業集落や塩焼集落としての性格が強いまちであるということができる。一方で、立派な外観や外構をもつ住宅が多いことや、社寺の規模が大きく、格式が高いことから、ほかの塩焼のまちと比べても、浜中は製塩業の成功によって大きく繁栄したまちであったことが読み取れる。
郊外型ショッピングモールが自動車で10分の場所にあり、酒田市街へは同じく20分で出かけることができるが、教育機関が小学校までしかなく、中学校は酒田市街へ通わなければならない。庄内空港が5分の距離にあり便利だが、病院やクリニック、行政機関もまちなかにないため、普段の生活は自動車に依存せざるをえないといえる。このように生活機能が低い一方で、浜中海岸の海水浴客を対象とした戸建形式のラブホテルがまちなかに2か所もあるのは興味深いことである。
近代以前の伝統的なまちの空間は正常院と石船神社の境内の東端のラインまでをその範囲の境界としていたものと考えられる。浜に平行に走る砂防林の延長上にこのラインがあり、これより西側がグリッド状の街区に区分されているからである。
社寺の背後から内陸に向かって道が放射状に伸びているが、これは周囲の村落からこの社寺に参詣するための道であったのだろう。また、終戦直後の航空写真から、社寺以東の土地にはこの道に沿って家屋が建ち並び、集落が形成されていることや、それ以外は農地として利用されていたことがわかる。細長い短冊状の農地もあれば細切れの農地もあるように、土地の形状も大きさも不規則であった。戦後の人口増加にともない、小学校と社寺に挟まれたこの地域に新たに住宅が建っていく。
一方で、このまちの最も古い場所は一番西側の道を挟んだ両側町のあたりと推測できる。この場所のみが南北道路に対して短冊状に敷地割りがされているからである。現在の国道112号線にあたる道路はのちに付け替えられたもので、当初はこちらの道が街道筋だったのではないだろうか。その時期を比定することは難しいが、少なくとも浜中の「植民都市」が複数回にわたって建設されたことがその土地の形状から読み取れるのである。
あとに建設されたと考えられる、まちの中央に位置する地域は海岸線に垂直に通る道に対して短冊状に敷地割りされている。多くの場合において、短冊状の敷地の奥に平入屋根の母屋が、手前に1つか2つの切妻妻入り屋根の家作が配置されている。現在これらの家作は倉庫や作業小屋として利用されており、訪問した際には収穫した米の精米をしている様子を多く見ることができた。興味深いことに、ほとんどの街区は玄関が向き合わないように計画されているが、これは塩焼のために南側に庭を設ける必要があったためと考えられる。
まちの中心を東西に通る県道357号線に面した2つの街区のみが正方形の大きな敷地となっており、上記の道に対して向き合うように玄関を設けている。その建築と外構は大変立派であり、社寺の参道に続くこの通りに面してもっとも有力な家々が配置されたということがわかるのである。
起伏に富んだ地形の上に強引にグリッドを敷くということは、サンフランシスコやロサンゼルスなどのアメリカの近代都市においてもみることができ、そうした都市における地形と直線道路のずれは各都市に固有の都市景観として現れる。浜中は、そのような景観をたった1キロメートル四方ほどの小さな領域のなかに有しているのだ。
高低差の大きい砂丘の上に直線状に道を通しているため、その道は自ずと坂となる。また、砂丘の地形は二次元的にその標高を変化させるので、グリッドの縦軸、横軸のどちらにおいても坂道が生じることとなる。どこに向かおうとも坂があり、常に前も後ろをも坂に囲まれていることで、この砂丘の底に取り残されてしまったのではないかと錯覚させられるのだ。こうした感覚こそが『砂の女』において男がとりこまれてしまう砂穴の家と女の正体なのではないかと考えてみる。
その一方で、低い場所があれば高い場所もある。浜中では住居が密集して建っておらず空間の隙間が多いため、それぞれの丘の上からはほかの丘の連なりを望むことができる。研究によって明らかにされているように、視界に入る風景のなかに谷がある場合、対象との距離感は実際の距離よりも近くに感じるものであるが、浜中の場合は丘の斜面に平行に住居や樹木が並んでいるため、それらが白波のように重層し、まるで屏風絵のような奥行きを生んでいる。これも同じく、砂丘とグリッドの重なりが生み出す錯覚である。浜中はその小さな領域のなかに相異なる2つの幻想を有しているのだ。
砂の話をしよう。
砂丘の上につくられたこのまちは常に砂の脅威にさらされている。吹きさらす海風が運び入れる砂が最大の脅威であることには違いなく、そしてそれ以前にまちの地面自体が砂でできているのだ。それらの砂は塩分を多量に含み、建物や農作物に甚大な被害を与える。このまちで暮らすということは、こうした脅威から自分たちの身を守るため、砂との対話を続けていくということである。
そしてそれは、多くは建築や外構のふるまいとして現れる。終戦直後の航空写真では、ほとんどすべての家において砂防林として敷地境界に樹木を植えている様子を確認できるが、現在までに樹木の数はいくぶん少なくなった。ブロック塀や生垣、そのほかには立て板や割木、あるいはネットを用いた塀を設置している家が大半を占めている。
全体的に建物の規模は大きく、板張りのものが多く見られる。住宅は平屋が多く、二階建てであっても下屋をもたない住居がほとんどである。敷地の手前に建つ小屋は一階部分が半屋外となった二階建てのものが多い。蔵は酒田の山居倉庫と同様の構法で建てられており、屋根下の隙間によって換気を行うことで日本海沿岸特有の湿気から内容物を守るようになっている。
また、地形の影響が強く現れている敷地もあり、小さな砂丘のような起伏に富んだ庭をもつ屋敷も見られる。敷地内と通りの高低差によっては庭が目線の高さにくるような場所も存在している。砂との対話のなかで風景の断片が生まれているのだ。
なぜこのような特殊な環境のなかで暮らすのかと考えてみる。それは都市の植民性について考えるということでもあるだろう。かつて海から近いこの場所は塩焼に最適であったが、その役目はとうに終えている。今は冒頭にも述べた砂丘メロンが有名だ。海に面した砂丘特有の寒暖差と水はけのよさがメロンの栽培に向いているようで、大正時代から続く特産品となっている。商品を生み出せることはまちが存続する理由の1つだろう。
自然から富を得るためにその近傍に住むこと。そこが辺境である場合、それには大変な苦労と不便がともなうが、その一方で、ほかにはない特別な風景のなかで日々を送ることができる。砂防林と砂丘畑のなかに突如として現れるこの円形状のまちは、閉じた小さな世界のようでありながら、同時に塩やメロン、そして海岸線を介して世界に開かれてきたのである。
2022年9月24日