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奥羽山脈と出羽山脈に囲まれ、雄物川とその支流が流れる横手盆地。国内最大といわれるこの盆地は、盆地とはいえども広大であり、国内有数の穀倉地帯として発展してきた。
角間川は、横手盆地における2つの大きな市街地である大曲と横手のあいだ、雄物川と横手川が交わる地に発達した交易のまちである。大曲とは雄物川を介して、横手とは横手川を介してつながっており、それらを中継する役割を担っていた。現在でもそれぞれの市街とは自動車で10分と20分の近さである。
近代以降の工業化に伴う住宅地の拡大によって都市化が進んだ大曲や横手とは異なり、角間川はその規模をほとんど変化させておらず、前近代に形成された空間の構造を強く残している。
横手盆地の広大な田園地帯を走っていると、遠景に森のように鬱蒼とした樹木の集合を見ることができる。それらはいくつも流れる川の岸辺に立ち並ぶ樹々であったりするのだが、そうしたなかでも特に高い樹々が集まる森の方向に車を走らせ、川を渡り、樹木のあいだを抜けてそのなかに入っていった。
森のなかはひらけており、道路の両側に建物がずらっと並んでいる。そのまままちの中心部へと進み、道路沿いの駐車場に車を停めた。周囲を樹々に囲まれたこのまちでは、内部に入ると、周りの田園風景の広がりをまったく感じられなくなる。そして音が樹木の枝葉に吸収されることで、まちのなかは静寂に包まれていた。静寂と、融雪水に含まれる鉄分によって赤茶色に染め上げられた道路が内省的な空気感をつくっていた。
角間川という地名は2つの川に挟まれた地勢が反映されたものであるという。中世の頃から開発が始まっていたが、本格化したのはこの地に転封された佐竹義宣によって開発の沙汰が下された慶長8年(1603)以降のことである。当時はわずか数戸にすぎなかったといわれるが、同19年(1614)には給人による新開地が10石に達し、藩内随一の穀倉地帯に発展した。
17世紀後半になると、水運の便に恵まれたこの村は雄物川流域、横手川流域における米(移出品)および塩や砂糖(移入品)などの物資の集散地として、経済上きわめて重要な場所となっていった。これらは雄物川水運によって久保田や土崎と結ばれ、西回り航路によって主に上方に運ばれた。上川の小船と下川の大船の積み替え地としても賑わい、商業も発達。市が開かれるようになり、しだいに町と呼ばれるようになっていった。
18世紀後半には、横手盆地一帯の地主―小作関係の急速な発展に伴い、この地にも巨大地主が現れるようになった。この前後において角間川の船着場も整備され、繁栄を遂げる。
慶応4年(1868)には戊辰戦争における戦闘の舞台となるものの、その後、明治25年(1892)頃に角間川船場の最盛期が訪れ、地価1万以上の者が6名にもおよんだ。しかし、明治38年(1905)の奥羽本線全線開通後は陸上輸送が主流となり、川港はしだいに衰え、大正年間には往事の面影をほとんど失ってしまう。
町の北西の雄物川の岸辺近くに、明治5(1872)年に建てられた2棟の浜倉が残存しているが、かつてはこうした蔵が10棟以上並び、巨大な土蔵街を形成していた。現在、巨大地主たちの住宅は文化財として保存され、一般に公開されている。こうした住宅や町の鎮守である諏訪神社などの建築は非常に立派であり、このまちのかつての繁栄ぶりをよく知ることができる。その一方で、新しい建物が少なく、更新があまりみられないこともこのまちの現状である。
角間川のまちは非常に明解なゾーニングによって形成されており、戦前までには現在とほぼ変わらない状況まで発展していた。すなわち、巨大地主の屋敷と商家、短冊状の農家、住宅街と別荘地、そして町から少し離れた小中島という名の集落である。
このまちの中心は、雄物川と横手川を繋ぐ角間川のすぐ南に伸びる街道であり、両側には短冊状の商家の屋敷が立ち並び、町場を形成している。その一部は明治期以降、旧地主の屋敷地となり、複数の屋敷が連続することから地主街と呼ばれるようになった。地主街と商家の南部において街道は二股に分かれ、水田のなかに伸びている。それらの両側の土地はわずかな裏庭をもつ短冊状の敷地に区分され、水田に面するようにして農家の住居が立ち並んでいる。
2つの川に挟まれた土地の中心を縦に通るこれらの町並みがこのまちの空間構造の基軸となっている。この街道の東側、つまり商店の裏側には神社や寺院が配置され、よくある街道の空間構造をもっていたが、人口の増加にともない、その周囲の林が切り開かれ、現在のような住宅街が形成されていった。商店の裏手一帯の住宅の敷地は比較的奥行きが狭く、畑などの余地をもつ家は少ない。対してそれらより南に位置するいくつかの地域(大浦町、四上町)には敷地に畑をもつ家が多い。
それらの住宅街のさらに奥には多くの林が残っており、林に分け入るようにして大きな屋敷がいくつか存在している。これらのうちには、江戸時代の中期から後期にかけてあらわれ「角間川聖人」と呼ばれた儒学者落合東堤により私塾がひらかれたように、周囲を樹々に囲まれたとても閑かな場所であった。
このように町場の東側では、横手川のあいだに住宅地が広がっていたり、樹木が多く残されていたりする(一部は伐採され、公共施設や教育施設が建てられていった)一方で、西側の雄物川とのあいだは、一部を除いてそのほとんどが水田として利用されている。その一部とは小中島と呼ばれる集落であり、水田の真ん中に浮かぶその姿はその名の通り島のようである。
周囲に~中島と呼ばれる地名が多いことからも、雄物川の氾濫によってできた微高な堆積地を居住地として利用するようになったものと考えられる。小中島の半分は畑地であり、その姿は戦前より変わっていない。現在は様々なものが栽培され出荷されているが、かつてより長く角間川の菜園として機能してきたのだろう。また、まちの南部においても水田が広がっているが、現在に至るまでに住宅地や高齢者施設、工場や倉庫の用地として徐々に転用されていっている。
以上のように、2つの川に挟まれた土地が、その狭い範囲において様々な性格をもった場所として形成されてきた。そしてその空間構造の基軸となったのが2つの大川をつなぎ、このまちの発展の根拠となった角間川と、それを起点とし、まちの中心を通る街道であった。街道の始まりには巨大地主の屋敷と商家が並び、それを頂点として農家の町並みが道に沿って伸びていく。そして線状の街道の背後に、社寺地や住宅地、隠居地や菜園が形成されたのであった。
氾濫の多い雄物川ではなく、横手川の方へと居住地は広がっていき、川に近づくにつれ深くなる樹々との距離感に応じてそのすまいのあり方も選択されていったのである。また、雄物川の氾濫によって形成されてきた微高地の形状に沿って進展した小中島の集落や街道を考えると、角間川とは徹頭徹尾、水と地形に影響を受けたまちであるといえるだろう。
これまでにみてきたように、角間川はその小さな領域のなかに地形の影響をうけた様々な空間を有している。そしてそれらの空間はその場所の社会的な性格と密接に結びついていた。重要なことはそれらが互いに近傍に位置しているということである。
地主の屋敷と商家に囲まれた静かな街道を少し歩くと農家が並び、家と家の隙間からはその向こう側に広がる田園風景と小中島の集落の様子が見える。そして、少し水田の間を歩くだけで向こう側の菜園へと渡ることができるのだ。
あるいは、背が高く奥へと長く続く商家と商家のあいだを抜けると、低層の住宅がまばらに建つ場所に出る。すると空が広くなり、その奥に鬱蒼とした林が見えるようになる。しかし、その距離は実際に見えているよりも近く、知らず知らずのうちに林の足元に立っているのだ。そこは同じく静かではあるが町場とは異なる清涼な空気が流れている。さらに歩みを進めると林のなかを流れる角間川に出会うだろう。
このような豊かな移動の体験を可能とする空間の近接性と連続性が角間川の重要な特徴であるが、同時にそれは、地形の影響を強く受け、自然環境と人工環境が混在する低密度なまちに普遍的に存在する性格であるといえるだろう。
このまちの絶えず移りゆく情景、それらを構築している建築の1つ1つもまた、この地に特徴的な形態を有している。特に、富の蓄積が行われた角間川であるからこそ、その建築にも多くの費用がかけられ、豊かなものがつくられてきたのであった。
もっともそれがよく表れているのが巨大地主の屋敷である。塀の上、屋敷林の隙間から顔をのぞかせる大規模な入母屋屋根がその大きさを予感させる。実際にそれらは趣向をこらして設計されており、武家屋敷を思わせる佇まいを有するそれらの建築は国の登録有形文化財となっている。そしてそれらを擁する広大な敷地とそれを取り囲む屋敷林、連続する塀がこのまちの最も重要な景観を形成していることは前述した通りである。
同様に、そのことがよく示されているのが、共同体の象徴でもある神社の社殿である。それはとりわけ豪華な意匠を有するわけではないが、雪への対策のために本殿や拝殿をはじめ、それに連なる玄関や渡り廊下などの複数の空間に大きな屋根と板張りの囲いが設けられている。そのため全体としてとても巨大で存在感のある特徴的な建築物となっているのだ。
このような雪への対策として建物全体を1つの外壁によってくるむような建築のふるまいは、商家や農家にもみられる。例えば商家の場合、街路より前方から店舗部分、住居部分、そして蔵が連続する際には、普通それぞれは通り庭のような半外部空間や、中庭のような外部空間で接続されていることが多いが、角間川の建築では、雪や寒気と切り離すためそれらの空間はすべて1枚の大きな外壁によってくるまれている——そして窓や透明の波板などによって内部に光が取り込まれている。そのためこれらは他の地域のものと比較して非常に大きなボリュームを有する量感のある佇まいの建築となっている。
また、それらの多くは戦後に看板建築のような形式をもって建て替えられているが、同時に、切妻屋根の妻面に柱と貫をみせるものや土蔵造りのものなど、伝統的な形式の建築も多く継承されており、その豊かな建築の表象はこのまちの魅力である。
低密度なまちには、近世期に発展した在郷町を由来とするまちが多く存在する。それらのほとんどは物流経済の発達とのちの生産力の向上によって発展し、その衰退にともなって成長を止めた。それらの多くは線状の町をもち、その後背部に農地や山林、そして住宅地を抱く。ここでもみられたように、まちの裏側における農村性と都市性の共存、つまり自然環境と人工環境の漸次的な混在による居住環境としての質の高さがこれらのまちの特徴といえるだろう。こうした豊かな環境のなかで、とうに役目を終え文化財となった巨大地主の屋敷群の現在における存在意義を考えることが、物流拠点としての機能を失ったまちの新たな機能を創発するきっかけとなることを期待したい。
2022年9月25日