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奥州の政治と経済にとって最も重要な河川に北上川が挙げられるだろう。北上川は岩手県と宮城県の内陸部に位置する北上盆地を縦断し、盛岡をはじめ、花巻や北上、金ケ崎、水沢、平泉、一関、そして寺池など多くの都市や町とその河口に位置していた石巻港をつなぎ、発展させてきた歴史的に重要な大河である。
寺池は北上川の畔に形成された城下町をもとに発達したまちであるが、近代期につくられた折衷様式の公共建築や商店建築を中心に、現在も多くの建築遺産を有していることで有名である。
私たちは盛岡方面から南下し、高速道や国道を走ってきたが、いくつかの山を越えるうちに日は暮れてしまい、まちに着く頃にはあたりはすっかり暗闇に包まれていた。
しかし、まちのメインストリートに入ると、それまで真っ暗だった周囲が突然明るくなった。通りには街灯が立ち並び、道路を優しく照らしていたのである。これらは夜間散歩する観光客のために整備されたものであるが、ほかの低密度なまちではあまりみられない光景に少し驚いたことを覚えている。こうした夜間の照明計画も、観光地であることがまちにもたらす大きな影響の1つであろう。
私たちは川岸に建つ創業250年の老舗旅館に宿泊した。旅館の前の通りもまた、暗すぎず明るすぎない暖かな照明で古い町並みの雰囲気が演出されていた。翌朝、歩きだして最初に、通りに人が多いことに気がつく。彼らは観光客ではなく、まちの住人であった。これから観光客を迎え入れる準備をするのだろう。
寺池は、鎌倉末期から室町期にかけて登米氏、戦国期には葛西氏、天正18年(1590)の葛西氏滅亡後には木村氏、そして近世を通じて登米伊達氏の支配下にというように、多くの支配者の拠点となってきた。寺池という地名は、伊達の時代にあった真珠院明了寺境内の池に由来している。現在のまちの骨格となる城下町は慶長9年(1604)に伊達氏によって建設が着手された。
その後、幕藩体制期に北上川舟運が発達するにしたがって、仙台藩や盛岡藩が所有する200艘近い船が航行するようになる。それによって登米や栗原、本吉から貨物が集散し、寺池は交易の要地として栄え、川沿いの町は宿場町としても発展していくようになった。
近代に入ってからも舟運は盛んであり、外国の文化が流入するとともに擬洋風建築が町内に建てられるようになっていった。
その後1921年に仙北鉄道が開業し、登米郡の中心である佐沼町とのあいだの陸路の輸送を担っていたが、戦後の自動車交通の発達と東北本線の開通による舟運自体の衰退にともない、1968年に廃止された。佐沼は役所や劇場などの公共施設やイオンモール、いくつかの工場を有する市街地として発展しており、現在も登米市の中心である。自動車で20分もかからないため、普段の生活のなかで佐沼と寺池を行き来する人は多い。また、高速道を使えば、仙台へも1時間程度で出ることができる。
川湊としてのまちの機能は失ったものの、冒頭に述べたように、現在はその建築遺産を活かした観光名所として存続している。寺池には、旧高等尋常小学校や旧警察署などの擬洋風建築をはじめ、武家屋敷群、あるいはなまこ壁の建築や看板建築が残る商店街など、個々の建築と都市構造が良く残っている。NHKの朝ドラの舞台に選ばれたりと、その知名度を上げると同時に、まち全体での統制のとれた観光整備事業が進められており、空間の博物館としての体制が整えられつつある。
慶長11年(1606)には城下町の姿が整ったといわれている。寺池は北上川を東に、南北に丘陵を抱き、西に低地が広がるような地形を有しており、城下町の計画もその地形に拠ったものとなっている。すなわち、東の川沿いに湊と短冊状の両側町を形成してそこを町人地とし、北の丘陵には城を設け、それに続く平地部に武家屋敷群を計画している。ほとんど正方形に近いかたちで形成された武家地には南北に2本の通りと東西に1本の通りを有し、それらに面するように各屋敷が配置されていた。
南の丘陵にはこの地の鎮守として登米神社と4つの寺院を配置し、上記の武家屋敷とのあいだに下級武士の町屋敷を計画した。これらの町屋敷は2本の通りに沿って短冊状に形成されており、そのうち北側の町は上級武士の屋敷群の西側をぐるりと回り、
屋敷群中央の東西通りに交わるともう一度方向を変え、その通りに沿って西へと伸びていっている。南側の町はそのまま丘陵に沿って西に延伸されている。これらの町屋敷は水田に突き出すように形成されているが、登米の下級武士は同時に農業を営んでいたため、農地に近いことは理にかなっていたといえる。
近代以降、城跡は裁判所の用地となり、丘陵のふもとに広がっていた丸の内や馬場が学校や役所などの公的機関の用地として利用された。また1917年に北上川に橋が架けられ(固定橋となったのは1945年)、同時期に鉄道駅がまちの北西の角に建設されると、それらをつなぐ大通りがまちのメインストリートとして整備され、現在にいたる。その通りに面して擬洋風建築の旧高等尋常小学校がシンボリックにたたずんでいる。
南の丘陵の北側の一帯は酒や醤油などの加工業の工場が多く集まるようになり、近代のまちの産業を支えてきた。現在も通りを挟んでの大きな工場町として稼働している。
このように明瞭なゾーニングをもって形成された城下町のかたちはほとんど変わらず現代に引き継がれているが、部分的には社会の流れに応じて変容している。
まちの中央の武家屋敷群の多くは解体され、敷地の周囲に住宅が並ぶようになった。しかし、屋敷や塀を残している家も多く、屋敷林はまちの重要な景観要素となっている。下級武士の町屋敷もほぼすべてが近代的な住居に建て替わっているが、門構えを維持している家も多くみられ、その歴史を想起させる。また、川沿いの町人地に関しても、その建築様式は現代化しているものの、その土地の利用方法は近世から変わっていない。
近世から比較的大きな城下町としての開発が進んでいた寺池では、ほかの低密度なまちと比べて、まちのなかで周囲の自然環境を肌身に感じることは少なく、都市と同様、人工的な構築物によって守られた環境のなかに身を置いているという感覚がまさる。実のところ多くの歴史的街区に対して——特にその保存状態が良いほど——外部より予期せぬ異物が入りこむ隙をもたない、閉じた空間に感じてしまうことがある。
このように寺池では周囲の環境を感じることがあまりないが、そうしたなかでも、景観に予期せぬ調和を生みだす要素として、駐車場と武家地の屋敷林を挙げることができる。たとえば川に沿って伸びる商店街をみてみると、従来は町屋が隙間なく立ち並び、閉じた空間であったところに、老朽化した建物を取り払ったり、建て替えたりする際に、利便性から駐車場が設けられている。空地が保持されたことによって、閉じた空間に〈孔〉が穿たれ、まちの中心部の屋敷林への視線が生まれたのである。
街路を歩いている際に、ふとした瞬間に建物の隙間から森の一片を垣間見るという体験は、町並みに多次元的な距離を与え、場所と場所をつなぎ、寺池の明瞭につくられたまちの空間を複雑化しているのである。
同様のことは、それらの屋敷林を有する武家屋敷街にもいえるだろう。離れた距離からはその高さによって樹々の姿を垣間見ることができるが、反対に塀によって屋敷内と分け隔てられた武家屋敷街の街路からは屋敷林の存在を認識することはできない。塀近くに植えられた樹木や生垣によって囲まれた街路は、上述の商店街と同じように閉じた空間であるといえるだろう。ところが、なかには屋敷の門扉を開け放っている家がある。その門から屋敷内の様子を少し覗くと、立派に拵えられた庭を垣間見ることができるのである。
樹木に囲まれ、少し鬱蒼とした仄暗い街路に開いた〈孔〉から、天からの光を受け輝く美しい庭が顔を覗かせている。その明暗の対比がこの街路での体験をより豊かなものとしているのだ。
商店街における空地の増加や武家屋敷の解体など、まちの様相が少しずつ変化してきたということは前述した通りであるが、そうした都市を構成する組織以外にも寺池の景観に大きな影響を与えた事件があった。それは、北上川に沿って堤防が造成されたことである。
舟運が衰退するまで、河岸には多くの船が着き、荷揚げと積み込みが行われていた。荷物は商家の河岸側の門から直接敷地のなかに運び込まれ、蔵へと納められた。現在でも堤防側に門を残している家が多くみられる。舟運だけでなく、畑や釣りなど日々の生活にも広く利用されていた河岸であったが、ほかの日本の多くの場所と同様、防災のための堤防が築かれたのである。
堤防ができたことにより、従来であれば通りや路地から見えていた川と対岸の風景は巨大な斜面に隠され、まちが有していた川との親密さや河岸地それ自体が突如として失われた。
多くの大切なものを失った一方で、まちが新たに手に入れたもの、それは視線であった。商店街の路地を抜け、階段を上ると視線が開け、対岸の風景と雄大な川の流れを目にすることができる。振り向けばまちが見渡せ、商家の家並みやその奥に点在する武家屋敷の森が目に映る。なかでもそれぞれの家の庭やそこでの住民の活動が散歩者の目に露わになっていることはとても興味深い。視線の分断が新たな視線を生みだしたのである。
こうしてみていくと、寺池の風景はおよそ視線というキーワードで語ることができそうだ。1つは歴史的な建築や景観に対する視線であって、これはまちの重要なアイデンティティでもある。しかしそれにもまして大切なのが、時代の流れにしたがって生じた「孔」や視点からの視線だろう。すでに述べたように、後者はこのまちを博物館ではなく、生命ある情感豊かで個性的な風景のある場所に変えている。日本に数多ある寺池のような歴史的街区にとって、「孔」を上手くあけ、内に秘められていたものを開いていこうとする態度が必要なのだろうと考えてみる。
2022年9月29日