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盛岡市街から東北自動車道にのって車で半時ほど北に向かうと、周囲を山で囲まれた盆地へと抜ける。アイヌ語で「大きな湿地」を意味する大更という名の地域は、北は七時雨山、西は岩手山、南東は送仙山に囲まれた大きな盆地の中心部に位置しており、その名の通り、山々から流れ込む複数の川から得られる豊富な水資源をもとにした水稲栽培が盛んな田園地帯である。
そのなかでも私たちが訪れた五百森という場所は、JR花輪線大更駅の周辺に発展した町場(この辺りも1平方キロメートルあたり1,000~2,000人である)の東側に位置する田園地帯であり、その最も多くの部分を占める水田と離合集散する農家集落、そして所々に散在する小さな森によって構成されている。
バイパス脇のコンビニエンスストアに車を停め、東方に目を遣ると、広大な田園風景が眼前に広がっていた。そして、西から東に下るようにして緩やかな傾斜がかかっていることに気がつく。この傾斜が錯覚を引き起こすことで、もとより広大な田園がより大きな風景として知覚されるのである。
そして、その目線の先にまるで屏風のように緑の帯が横たわっていたことも強く印象に残っている。これは、途方もない奥行きのなかに点在する小さな森が舞台の書割のように1つの視界のなかで重なり合うことによって生まれた風景であるが、樹木は、建物と異なり、フラクタルで境界が曖昧な形状であるため、それぞれの前後関係に判別がつきにくく、遠くからは1本の帯が水田の上に横たわっているように見えたのだ。
水平方向に広がる水田のなかに点在する小さな森は岩手山の火山活動によって生じた流山であり、その数が500以上あったことから、この地域は古くより五百森と呼ばれている。
「大きな湿地」であったこの一帯は、江戸時代初期は他村の枝村であったが、元禄10年(1697)以降、盛岡藩の奨励によって新田開発が進められていった。安永6年(1777)には、大更町に新田御役屋の新宅と御蔵が建てられ、鹿角街道から分れて町内を抜ける道が整備された。大正11年(1922)の国鉄花輪線の開業と同時に大更駅が開設され、昭和55年(1980)の東北自動車道の開通時にはまちの南にインターチェンジが設けられた。
その後、2000年以降において西根バイパスが整備されたことによって、盛岡市街との往来が容易になった結果、現在は盛岡のベッドタウンとしての需要が高まっている。
松尾鉱山が稼働していた当時は、出稼ぎ人が多く、まちにも繁栄がもたらされていた。東洋一の硫黄鉱山と称された松尾鉱山であったが、昭和44年(1969)に坑内採掘、製錬を中止し、事実上閉山する。その後、スキーバブルが訪れた際にも安比高原へ多くの住民が出稼ぎに出ていたという。前述のように、現在は盛岡のベッドタウンとなっており、ほとんどの農家が兼業農家となっている。町外れの集落には農協の集出荷場・選果場が位置しており、周辺地域の生産拠点となっている。
大更駅東側の田園地帯にはコンビニエンスストアが1軒あるのみであるが、西側の町場にはスーパーマーケットや飲食店、小売店などの買い物施設、小中学校や保育所などの教育施設、コミュニティーセンターなどが充実しており、生活に必要な機能が備わっている。また、2020年には町場にあった市立病院が駅のすぐ東側に移転新設された。移転に際して機能面が拡充され、面積も2倍となり利用しやすくなった。今後の地域医療の基盤となっていくことが期待されている。
五百森の景観は、1970年代をかけて行われた耕地整理と道路整備によって大きく変貌した。それ以前は、西から東へと流れる自然な水の流れを最大限利用するために、微妙な高低差に応じて水田と道路が形成されてきたので、ほぼすべての敷地境界が曲線状に折れ曲がっていたのである。
かつての敷地境界は各屋敷地の外周や集落に残されている。また、500ほどあった小さな森も耕地整理を通して、その数を減らしている。小森と同様に各所に湧き出していた泉もまた、耕地整理にともなう治水の高度化と住宅地開発によって失われてしまった。
現在の五百森には次の3つのような住居の離合集散のかたちがみられる。1つ目は面状に発達した大更駅前の町場であり、これは近世期における街道町を核に、鉄道の開通や上述の経済的発展によって拡大したものである。2つ目は五百森の大部分を占める広大な農地のなかに、点として1軒ずつ独立して散在する農家である。
そして、3つ目が道を中心にして緩やかな円状のまとまりをつくっている集落のような住居の集まりである。3つ目のような住居の集まりは戦前にはほとんどみられず、早くから整備されていた南方の県道301号線の沿線を除いて、その多くが戦後に形成されたものであった。
終戦から1960年代末にかけて住宅が倍増している様子が航空写真から確認できるが、その際に、既存の道に面するようにして、すでにある住宅の付近に新しい住宅が建てられていくことで、道を中心とした住居の集合の核のようなものが形成されていったということがわかるだろう。
その後、1970年代の耕地整理によって住宅地と農地の境界がより明確になっていくにつれて、上記の集合の隙間を埋めるようにして新規の住宅が建てられていくようになった。それに少し遅れるかたちで、面的な住宅地開発も進められていったのであるが、これらの開発に際して、当時はまだ数多く存在していた森と泉が優先的に利用され宅地へと転換されていった結果、五百森の伝統的な景観が失われてしまったのである。
その後も、戦後に形成された集落同士をつなぐ道に沿うようなかたちで、数軒規模の小さな住宅地開発が引き続き進められていった結果、2000年頃までには現在に近いような状況となったのである。
他方で、独立して散在する住居にも耕地整理の影響は大きく現れている。いくつかの農家は道路整備のための用地買収にともなって敷地の移転を余儀なくされている。また、従前は敷地の前に道が通っていたが、道路が付け替えられたことによって、その住居が道路から離れた水田の真ん中に位置するようになってしまった農家も多い。そうした島のように水田に浮かぶ農家を取り囲むようにして、1980年代以降、多くのビニールハウスがつくられていったのである。
前述の通り、現在の五百森の景観は1970年代に実施された一連の耕地整理を通して形成されたものであった。ところが、地形と水の流れに依拠した複雑な土地形状をグリッド状に整地し、それに合わせて直線道路を敷設したことによって、これまでとは全く異なる風景の体験をすることができるようになったのである。それは、小さな森や散在する農家(これらの農家は立派な屋敷林をもっており、遠方からの視認性が高い)に関する動的な視覚体験である。つまり、それらと道路の間に距離が生じたことによって、道路をまっすぐに進むしかない私たちは、それらとの間に常に一定の距離を保ちつつ、角度を変えながら、対象として見続けることになるのである。
そうした視覚体験が面白いのは、近づくにしたがって(しかし完全に近づくことはできないのであるが)、対象の解像度が高まっていくということにある。遠目からは、樹々が1か所に集まった小さな森にしか見えなかったものが、徐々に樹々の陰から住居や神社の鳥居が顔を覗かせているのが見えるようになり、輪郭が明瞭になることで、それらが何であるのかがはっきりと認識できるようになる。近づくことによってはじめて、その樹々の集まりがマウンド状の小森であることがわかるのである。
そしてさらに近づくと、神社の社祠や石段(これらは小森や泉を祀ったものである)、あるいは住居の周りにつくられた畑や庭が見えてくる。特に後者と屋敷林の関係は興味深い。これらの農家では屋敷林の下部を剪定したうえでその足元に低木や花を植え、見通しの良い庭をつくっているのだ。
こうしたシームレスな解像度の変化は、海上を船で航行する際に、小島の横を通り過ぎていく時に感じる体験と類似している。立ち寄ろうとしない限りは完全に近づくことはできないことや、大小の森や屋敷林、集落が一定の距離をもって離散的に存在していることもそうした想像を搔き立てる。私たちは道路上を移動することで、これらの樹木の集合が重なったり離れたり、久しくとどまることのない様相を目の当たりにするのだ。
次に、戦後に発達した集落に目を向けよう。道に沿って住居が無秩序に集合しただけのそれらの内外は緩やかにつながっており、躊躇いなく足を踏み入れることができるような雰囲気をもっていた。しかし、それぞれの住居の敷地内には樹木が多く植えられており、それらの樹高が高いため、集落の内部からは外の様子をほとんど見ることはできない。
戦後の農地解放時に土地所有がばらばらになったため、周囲の農地とそれに隣接する住居との関係性は薄いという。その形成の過程からか、これらの集落は明瞭な空間の骨格をもたず、それぞれの敷地の内外の別も曖昧である。敷地を閉じる塀や生垣のような境界装置を設けている住宅は少なく、代わりに大小様々な樹木が住民の好みに応じて植えられている。
興味深いことに、住民たちは敷地の境界をあまり気にせずに樹木や草花を植え、思い思いのままに庭をつくっている。そして、なかには周囲の敷地や道を巻き込み草花が手入れされていることで、街路空間全体が一体の庭のようになっている場所もある。また、集落内を通る水路にも柵は設けられておらず、その周囲には草木が生い茂り、緩やかな連帯をつくり出している。
このようなそれぞれの住民の地面への即時的かつ越境的な介入が五百森の景観の特徴となっているのである。
町場の背後の田園地帯として形成されてきた五百森の景観は、戦後に並行して起こった耕地整理と住宅の増加によって大きな変貌を遂げた。計画的に行われた耕地整理や道路整備に対して、住宅はそれぞれが自律的に集合し、周囲の環境を構築していくことで、現代における集落が形成されたのである。
それらは従来の独立する農家や小森を核として展開していったが、一方でいまだ多くの屋敷林や小森が残されている。そうした樹木の密度のばらつきが五百森の風景の豊かさを生み出しているということができるだろう。そして、それらは今後もその離合集散の度合いを変えながら変化し続けていくのである。
2022年9月28日