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弘前市街から北に車を走らせると、10分もしないうちに市街地を抜け、左右には田園風景が広がり、左手前に岩木山の悠然とした立ち姿が現れる。しばらく進むと再び町に入ることになるのだが、大きな屋敷の前方に拵えられた立派な庭木によって線状に彩られたシークエンスの色鮮やかさに息をのむと同時に、美しい情景をもって訪問客を喜ばせようとする街道文化の片鱗を見た気がした。そして、家屋と家屋の隙間から顔をのぞかせるりんごの樹々が私たちの期待を高めていた。
長い街道のまちを抜けると、突然と視界が開け、岩木山の緩やかな斜面をりんご林が連綿と続く雄大な風景が現れる。そして、岩木山との距離が少しずつ近くなっていることに気がつくだろう。その時私たちは、りんごの産地として名高い岩木山の裾野を、幾本もの川が流れる大地の上を、まっすぐに横行しているということを身をもって理解する。そして、そう感じたのも束の間、私たちは目的地の高杉に到着したのである。
まちの端に位置するスーパーマーケットに車を停めさせてもらい、まず向かったのはまちの南部に広がるりんご園である。りんご園とまちの境界を見ておきたかったのだ。そして、それは想像していたよりも近くに存在していた。住居と住居のあいだの路地を抜け、裏庭に出たかと思えば、目の前に現れたのはりんごの樹々であった。低木であるため、均等に植えられた木立ちの先を見通すことはできない。そのことがかえって、奥へと続いていくりんご園の情景を想像させたのであった。
高杉の歴史は前近代における街道の発展によるところが大きい。まちの主軸となる鰺ヶ沢街道は鎌倉時代にはすでに開かれていたが、江戸時代以降には、弘前城下より鰺ヶ沢町、そして大間越へとつながる大筋道として参勤交代にも利用され、高杉はその駅所の1つとなった。さらに五所川原―岩木間の街道が直交する辻町であった高杉は、交通の要地として重視され、寛文5年(1665)に藩の御蔵が設置された。そのため、周囲の村落と比較しても裕福であったこのまちには屋敷持が多く、近接するほかの村落への出作者が多かったという。
すでにみたように、街道沿いに住居が集中する様子は岩木山周辺において普遍的な形式であると考えられ、鰺ヶ沢街道に限らずこの地域一帯に広く存在している。しかし、高杉は2つの街道が交わる辻町であったことにより、抱える人口は多く、またその利便性より周辺農村のセンターとしての機能を充実させていったのである。本調査においても、辻町であることが人口規模を満たす要因であった。現在、まちのなかには交差点を中心にして数軒の飲食やクリーニング、雑貨などの店舗がみられる。
それらに加え、先述のスーパーマーケットやまちのはずれにはコンビニエンスストアがあるなど生活機能は充実しているといえるだろう。小中学校や複数の高齢者施設、そして農協の集荷場もあるように現在でも周辺地域の中心を担っている。一方で鉄道や高速道路は通っておらず、行政的な機能や病院もない。
主要産業は今も昔も変わらず農業であるが、その産物は近代以降、米からりんごへと大きく変化してきた。りんご産業は、明治初頭に始まって以来、試行錯誤を繰り返しながら少しずつ大きくなってきたが、戦後、生産方法のさまざまな改善によって、その生産能力が飛躍的に向上したことにより地域一帯の主要な産業となっていった。それに付随して、栽培用の袋の製造やハサミのメンテナンス、りんごの飲料加工など、りんご産業に関連した商売も多くみられるようになっていく。
そうしたなかで農地利用も大きく変化していった。必ずしも水田からりんご園への一方行的な転用であったわけではなく、りんご園から水田へと戻される場合もあった。現在のりんご園は1975年までに拡張されてできたものが多く、以降高杉の風景は大きな変化はなく今に至っている。
街道以外の道は豊かな地形に応じて緩やかな曲線を描き、複雑に繋がり合っている。街道の裏へ抜け、幅の狭い農道を進むとすぐに、大地の起伏に合わせてつくられた広大なりんご園や水田の美しい風景に出会うことができるのだ。
戦後、周辺の環境が目まぐるしく変わっていった一方で、居住地の環境に大きな変化はみられなかった。農地と宅地のヒエラルキーは明瞭であり、街道を中心に長細い土地が短冊状に区分されている。ただし、土地の微妙な高低差と水流に合わせて敷地形状は制御されていることがわかるだろう。農家の家屋敷は、市街や漁業集落のように街区を形成することはなく、隣家との隙間を保ちつつ連続する、いわば農的町並みを形成している。
1軒の農家の基本的な空間構成は、街道より母屋、蔵、倉庫、りんご保存庫、屋敷林となっており、乗用車や農業用車両が入れるように敷地の片側が空けられている。
屋敷は側面に玄関をもつ典型的な農家住居であるが、街路側に大きな開口部をもった居間を設けていることに特徴がある。それは、屋敷の前に設けられた美しい前栽を楽しむための空間であった。街道に面する前栽は家のステータスを示す重要な装置であると同時に、大筋道という外部の世界と内なる農的生活を分離しつなぐ境界装置でもあったのである。
これらの前栽の樹々が折り重なるようにしてできた緑のリボンが、今も昔も変わらぬ街道の風景として訪問者を優しく迎え入れてくれるのである。
また、高杉の居住環境が他のまちのように大きく変化することがなかったのは、工業化などを要因とする転入者が少なかったことによると考えられる。なかには敷地後部の倉庫などを整理して子世代の住居と蔵を新たに建設しているところもみられた。それらの間に畑と前栽を設け、前栽側に開口の大きな居間をもってきていることからは、農業とともに生活空間の形式も継承されていることがわかる。
以上にみてきたように、農業と深く結びついた居住環境の形式を強く残している高杉のまちであるが、隙間という観点から農的町並みの景観特性についてもう少し検討しておきたい。
歩行者が街道に沿って歩くとき、その視線を対面の空間に向けながら進むと、その隙間から見える情報は視線の角度によって次々と変化していくが、先述のように、高杉では地形に従って区分された少し歪んだ形状をもつ敷地が多いため、街道の対面から見た屋敷間の隙間には、敷地内の道が曲がりながら奥へ奥へと続いていく様子が現れる。その視覚的効果はまっすぐに区画整理されたパースの効いた道路空間に対して感じるものよりも大きいと考えられるが、かさねて、敷地境界に植えられた庭木や蔵などの建物の側面が連続的に見えることでその奥行き感はさらに強調される。また、前栽を設け屋敷がセットバックすることでより多くの隙間の奥の情報が透けて見えることも奥行きの深さの感覚に影響を与えていると考えられる。
このように、前栽と隙間の繰り返しによって構成される農的町並みは、その緑豊かで色鮮やかな表層に加え、歩行を介してその奥行きの深さを感じられる隙間を有することで、背後の農地と街道を媒介する厚みをもった空間として存在してきた。こうした農的町並みの特徴は高杉に限ったものではなく、多くの街道のまちに当てはまるものであるといえるだろう。
このようにある種の普遍性をもった高杉の風景であるが、その一方でりんご園の存在がまちの風景を唯一のものとしている。冒頭でも述べたように、居住環境の極めて近傍に位置するりんご園は、高杉の風景を構成する不可欠な要素であるといえるだろう。りんご園が住居のすぐ近くにつくられる理由は、栽培に非常に手がかかることにあるといわれている。実際に、高杉では稲作も行っているが、それらの水田はすべてりんご園の外側に位置している。機械化と効率化が進んだ稲作との違いが風景として表れているのだ。
私たちが訪れた際、町場の背後に広がるりんご園では複数のりんご農家が袋づけの作業をおこなっている最中であった。紅く染まり始めたりんごを手作業で1つ1つ丁寧に袋で包む姿からは農家のりんごに対する深い愛情を感じる。それぞれの農家がめいめいにラジオを流し、ゆっくりと確実に作業を進めていた。遠くまで続く木漏れ日とどこからか聴こえてくるラジオの声がとても心地の良い空間をつくりだしていたのである。
町場の背後に大きく広がるりんご園に加えて、それぞれの家の敷地の中にまでりんごの樹が植えられていることが多く、それはまるでりんご園が町場に染み出してきているようであった。それほど背が高くないりんごの樹は屋敷にちょうど良い木陰をつくり、さわやかな緑色が飾らない親密な空気感を生み出していた。そうした空気感が町並みの隙間から顔を覗かせることで、高杉の街道をより厚みのある柔らかな環境に仕立てているのだ。
りんご栽培が高杉の唯一の産業であり、そのほかにはこれといった産業はない。しかし、りんご栽培はほかのどの場所にも代替できない地の産業であり、このまちには50年間にわたって培われてきた方法と矜持がある。現在青森の市街地にはりんごをつかった製品が並び、多くの旅行客がそれらを買い求めている。青森の風土と文化を統合し、新しい価値を与えられたりんご産業は今再び地方の経済の原動力となろうとしている。
2022年9月26日