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札幌市街を出発して半時間も経てば、さきほどまでのビルや人ごみを忘れ、広大な農地と森林を突き抜けるまっすぐな道を走っている。そのまま南西の方角に1時間進むと、蝦夷富士と名高い羊蹄山がその悠然とした姿をゆっくりと現すのだ。蝦夷梅雨の時期であったため山頂には厚い雲が覆いかぶさっていたものの、目の前からせり上がる裾野とその傾斜が山の大きさを知らしめ、同時に、大地の上を走る自身を俯瞰的に認識するような強い居場所の感覚を私たちに与えた。そしてこのような感覚はこの後何度も私たちに訪れる。それからしばらく尻別川に沿って北上すると広大なジャガイモ畑の中に突然小さな町が現れる。北海道らしくない名をもつまち、京極であった。
京極は羊蹄山の雪解け水を豊富に含んだ質の高い湧水で有名であり、その水は北海道中に商品として流通している。東から流れ込む尻別川(語源はアイヌ語のシㇼ・ペッであり、山の川を意味する。日本で最も水質が良い)は羊蹄山を廻り、山の反対側に位置するニセコを通過して日本海へと流れ出る。
スキーリゾートとして有名になったニセコと比較して、京極は観光に訪れるような場所ではない。まちの領域は明瞭であり、その周囲には農地が広がり、近くに大きな都市も存在しない。まちはコンパクトにまとまっているが、その密度は決して高くなく、十分なゆとりをもって2階建ての住宅が立ち並んでいる。時代の流れに沿って建物は変化しているが、その空気感は開拓時代のものがそのまま継承されてきたのだといえるだろう。
明治30年(1897)に旧讃岐国丸亀藩主京極高徳によって京極農場が開設されて以降、農場の新規開設や団体入植が相次いだ。そうしたなかで農業以外のひとびとの入地が目立ってきたことより、同36年(1903)に京極農場の一部を公設市街地として開発した。これが京極のまちの起源である。
その後、大正中頃における鉄道駅の設置や鉱山の開山も相まって、来住者の増加とともに市街地に商店が増えていった。まもなく魚菜市場が立つようになり、2つの劇場までもがつくられた。近隣村の農産物が京極に集まり、鉄道によって小樽や岩内などへ出荷されていくような生産の拠点として発展していったのである。大正9年(1920)に人口は1万人を超え、最盛期を迎えた。
昭和30年(1955)に農産加工場を開設し、規模を拡大していった一方で、同45年(1970)には鉱山の閉山、同61年(1986)には鉄道の廃線が決定されてしまう。ところが、現在においてもその人口は常に減少傾向にあるものの、商店街には数十軒もの店舗が営業しており、今も昔と変わらない活況を呈している。そのほかにも多くの商店や飲食店、さまざまなサービス業、そして公共施設が小さな市街地の中に遍在しているのだ。
私たちが調査しているまちのほとんどにおいて、旧来の商店街はすでにその機能を低下させ、多くの店舗がその商売を止めてしまっている。そうした状況が当たり前となっているなかで、とくに過疎化が進む北海道の後背地において商店街が健在に機能していることには驚かされる。公共交通の機能が弱く、近隣に大規模な市街がないことによって、独立した生活経済が成り立っていることがその理由の1つといえるだろう。
京極のまちは、尻別川とワッカタサップ川が合流する丘陵性の緩傾斜地につくられた小規模なグリッド状の町割りを中心に、戦後開発された公営住宅地が一周取り巻くような空間構成をもっている。この地は元来湿地帯であり、古くはワッカタサップ川の支流がまちの中心を蛇行していた。戦後の住宅地開発を含めてもその規模はきわめて小規模であり、まちのすぐ外には農地が広がっている。羊蹄山の広大な裾野の上にすっと置かれたような通商の拠点という単純な形式を今も保持しているのだ。
京極のまちは町役場に突き当たる国道276号線を中心にして東西に広がっている。国道の東に位置する商店街がこのまちのもっとも古い通りである。2つの街区に渡る商店街の北側にはワッカタサップ川を背後に住宅が並び、美しい川岸と連続し一帯となったような裏庭をもっている。商店街の南側には消防署、バスターミナル、クリニックが並んでいる。最盛時に2つもあった劇場はこの場所に位置していた。それらの南側は戦前よりさらに1街区分が開発され、住宅地や商業地として利用されてきた。それらの街区の背割り線には小川が流れているが、整備された川辺には緑が多く残されており、この場所が湿地であった頃の面影を残している。それらのさらに南側には寺院と神社、そして町役場や学校をはじめとする公共施設が控えている。同様に商店街の2街区を東に進むとすぐに団地やジャガイモ集荷用の倉庫などの大規模な建築物が並ぶようになる。元来の京極のまちの領域が非常に小さいものであったことがわかるだろう。
一方で国道の西側は、戦後徐々に住宅地として徐々に開発されていったのであるが、従来畑地として利用していた場所を転用したこともあって、ほとんどの住宅が敷地内に比較的大きな農地を残している。中央には尻別川からの支流が流れ込んでおり(現在は用水路として整備されている)が、川を挟んで複数の飲食店が今でも営業を続けており、このまちのかつての盛況と現在の安定的な繁栄を感じとることができた。
訪問した日は曇りであったが、商店街を歩いている際に、一時だけ羊蹄山が頭をのぞかせる場面があった。その時に感じたのは、富士山などを遠方の都市から眺めた時に体験する感覚とはまったく異なるものであった。それこそがまさに周囲のまちとその中に立つ自身の身体が羊蹄山と連続する大地の上に立っているという感覚であった。
商店街の町並みは、所々空き地となっていたり、複数の敷地にまたがる低層のスーパーマーケットができていたりするものの、基本的にはつくられた当初の敷地形状を維持している。建物自体は戦後に2階建ての看板建築に建て替えられており、かつてのD/H(道の幅/建物の高さ)ではなくなっているが、道路幅は変わっていない。雪が深く、土地があり余る北海道ではまちの草分け当初より広い幅の道路が計画されたのであった。変わらない間口のリズムと道路幅、そして空の広さが明治期の開拓時代の京極の風景を思い起こさせるのである。
羊蹄山の反対方向、つまり商店街の東方向を振り向けば、札幌との間を隔てる無意根山の山裾が緩やかに立ち上がっていく様子を望むことができる。町並みの奥手方向の視界を広々と占める青々とした大地の隆起には、京極のまちが山稜に挟まれた広大な丘陵地の上に位置しており、そこに立つ自分自身が大地に帰属しているという感覚をやはり強く感じさせられるのだ。
商店街の各店舗の裏には居住部が連続しているが、ファサード面だけを看板的に残してそのすぐ後ろから勾配屋根としているものや、ファサード側にも急勾配の屋根を設けているもの、あるいは店舗前面部分と躯体を分け、前部を陸屋根、後部を勾配屋根としているものなど、屋根の形状だけをみても様々な類型が見られる。屋根形状にこれだけのレパートリーが生まれたのは、それだけ積雪への対応が厳しいということであるといえるが、雪によって育まれた建築形状は屋根だけに留まらない。
雪の深い地域では、雪を屋根に留まらせないということだけでなく、どこに落とすかということも問題になる。商店街の店舗建築や町屋のように敷地の通り側に密接して建つ建物では、人びとの通行のことを考えると建物の正面側に雪を落とすことはできない(広い道路の両端には道路上の雪が高く積み上げられる)。屋根に積もった雪は建物の背後に運ばれ、敷地の真ん中に設けられた中庭や、前面の建物の後部に付属する小さな建物の脇(あるいは両脇)の隙間に落ちていくように設計されている。
それぞれの店舗は裏通りに面して玄関やガレージ、庭や畑、あるいは住宅(おそらく子世代の住居である)を設けている。家ごとに異なる形式で構成されている裏通りは、整然と立ち並ぶ表通りとは対照的に、より私的で雑然とした雰囲気をもつ。
また、背後にワッカタサップ川を抱く、商店街の1つ北側の街区には古い形式の住宅が1軒みられる。平入りの平屋の住居であり、現在はトタン屋根を木材で補強しているが、なかでも興味深いのは、建物前面に幅4間、奥行き半間弱の妻入りの薄い突出部を設け、玄関と居間の一部として利用していることだ。これも雪を玄関前に落とさないために生まれた形式であるが、この形式は後々まで様々な住宅のパターンに使われ、まちのあちこちで見ることができる親しみ深い顔となっている。
急勾配の丘陵地であるワッカタサップ川の北岸は戦後になって住宅地として開発される。なかでも一棟一家族用の低層住宅が距離を保ちながら並ぶ団地の風景はその場所が羊蹄山と連続する丘陵地であることを強く意識させる。一方、胆振線の鉄道駅があった北西部(もっとも標高が高く、羊蹄山をもっとも近く望むことができる)には、道内でも指折りの農産加工場と高性能の集合住宅が建ち並ぶ、輝く未来を約束された新しい世代のまちとして計画されたが、鉄道が廃止された現在は、まちの中心から最も離れた場所となってしまった。しかしながら、驚くべきことに、近年において戸建て住宅が少しずつ建てられ、新たな子育て世代の入居が始まっている。小さなまちのなかでの新陳代謝が始まっているのだ。
京極では近くに大きな都市をもたないことがかえって良く働き、小さな生活経済が健在であった。商店街を中心に賑わいとコミュニケーションの機会が醸成されていたといえる。一方で、話をうかがった人全員が羊蹄山の話をしてくれた。みなが羊蹄山を胸に抱き、その一部に立っているのである。大いなるものに寄り添いながら、開拓時代より変わらず離れて立つことが、宝石箱のようなこのまちの美しさの源であり、未来なのだ。
2022年7月1日