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釧路市街から自動車や鉄道を用いて1時間ほど東に位置する厚岸は、江戸幕府の支配以前より重要な交易拠点として発展してきた湊町である。厚岸は厚岸湾に面する半島の突端に形成されたまちであり、その背後には巨大な汽水湖である厚岸湖を抱いている。湾と湖を分かつようにして向き合う真竜地区とは厚岸大橋によって結ばれている。その巨大な鉄橋を渡って厚岸へと到着した。
私たちは地方卸売市場の駐車場に車を停め、海沿いからまちを見て歩くことにした。大規模な建設工事を終えて稼働し始めたばかりの卸売市場は活気に溢れており、その新しく現代的な建屋で働く人たちはどこか誇らしげでもあった。
厚岸漁港は1990年代初頭の頃までに今のかたちへと整備されたが、その規模はこの小さなまちに比してとても大きなものであったと感じられる。多くの巨大な空地があちらこちらに存在し、太い道路が直線に敷かれている様子には、空港の滑走路近くを歩いているときと同様の感覚を受けた。
しかし、厚岸港の面白さはそれだけではない。驚かされるのは海に平行に整備された小型船の船着き場である。1キロメートルを超える船着き場は短冊状の細長い敷地に区分され、各敷地がまちの漁師に振り分けられている。それぞれの敷地には船を陸揚げするための牽引機を格納する小屋や門型の吊り上げ機、作業や休憩に使う小屋などが設けられ、その周囲には漁業道具や使われなくなった古い船などが置かれている。
そのような小さな構造物が、卸売市場や加工食品の工場などの巨大な建物が並ぶ埋立地のうちに連続して存在している様子は全国に数多い港町の風景のなかでも特筆すべきものであるといえるだろう。厚岸は近代以降の大規模な築港事業によってその伝統的な風景を失ってしまったが、そのかわりに新たな風景を手に入れたのである。
厚岸の語源は、アイヌ語のアッケウシイ(いつもオヒョウニレの樹皮をはがす場所)であるという。アッケウシイは自然の良港であり、その立地からアイヌによるラッコ皮交易など広範囲にわたる交易活動の拠点として大きな経済力を有していた。
寛永年間(1624-43)における松前藩によるアッケシ場所の開設以来、松前藩との交易を通して東蝦夷地の舟運および交易の拠点として発展を遂げていった。1791年には幕府巡検使の最上徳内によって東蝦夷地支配の中心地として選ばれ、神明宮(明治以降、厚岸の総鎮守として厚岸神社と改称)が創建、1805年には国泰寺が開山される。
明治以降においても厚岸郡の諸物資を各地へ送り出す流通および運輸の拠点として賑わい、沿岸には回漕業者の倉庫が軒を連ねていた。湾月町には漁業組合事務所・商店・旅宿が集中し、梅香町一帯は一大歓楽街を形成していた(のちに風紀上の理由から遊郭はバラサン山麓の一角に移転し、現在は寺院と教育・公共施設のみの文教地区となる)。一方で、若竹町には牡蠣の採取や艀業・商業・官庁使丁に従事する者がおり、水産物・荒物・呉服を販売する商家や酒造屋が並ぶなど、新興商業街として発展した。松葉町には商家・工匠・日雇人が雑住していた。
しかしながら、昭和47年(1972)に厚岸大橋(道内初の海上橋)が建設されるまでは、対岸へ渡る手段が渡船やフェリー以外になく、交通が不安定(結氷による欠航や輸送能力の限界)であったため、第二次世界大戦以降、各官庁の出先機関や役場、高校などが鉄道駅のある真竜地区へと移転していく。また、昭和37年(1962)の大規模な住宅地開発も相まって、厚岸町の重心は機能・人口ともに真竜地区へと移っていってしまった。
結果として、現在の厚岸は漁港をはじめ卸売市場や名産物である牡蠣の種苗センター、水産加工工場や倉庫、造船所や水産に関する出先機関、水産系高校など施設が集中する水産業に特化したまちとなった。漁業従事者や工場勤務者が多いこともあり、少数の飲食店や商店は営業しているが、住民の多くは対岸のショッピングモールを利用し、他所からの来訪者もないため、商店街から往時のにぎわいは失われてしまっている。
現在の厚岸は大きく3つの空間によって構成されている。1つは近世由来の町の空間であり、もう1つは卸売市場や中型漁船の停泊所および造船所の作業場として埋め立てられた港の空間である。冒頭で述べた1キロメートルを超える小型船の船着き場もこれに含まれる。そして3つ目がこれらの形状のずれを埋めるための広大な隙間の空間であり、加工工場や倉庫などの大規模建造物が立地する一方で、その多くは空地となっている。
厚岸は異なる性格をもつ複数の町が海岸線と平行に形成された典型的な湊町としての空間構造を有している。町場は、古町である南西の湾月町を起点に、人口の増加と職業の多様化にともなって北方へと延伸し、背後の山と海に挟まれた奥行きのない土地を平行に分割することで街区を形成していった。湾月町南東部の湿地を除き、ほとんどの土地が町場として開発されていたが、残った湿地も戦後の灌漑事業によって住宅地化が進んできた。その名残がひょうたん沼として残されている。
一方で、港の空間に関しては1950年代から徐々に海岸の埋め立てが進み、80年代から始まる大規模な築港工事によって現在の形状がつくられた。
かつての海岸線は各町のすぐ裏手に面しており、それぞれの家において居住空間との連続のうちに漁業に関連した私的な土地利用を行っていた。現在でも山の裏側の奔渡地区において厚岸におけるかつての土地利用の形式を見ることができるが、それぞれの家の土地の延長上にコンクリートによる船着き場兼作業場が造成された結果、凹凸のある海岸線が形成されている。
残念なことに、現在の厚岸においては、そうした漁業に関わる空間は住居と切り離され、直線状に整備された船着き場に集約されている。そこでは冒頭でも述べたように、漁業従事者が各自の必要に応じて休憩小屋や牽引機、倉庫や道具などを設置している。また、使わなくなった船を定置していたり、番犬を飼っていたりすることから、この空間が旧来のような私的な性格を継承していることがわかる。
そして興味深いのが、こうした小さな要素からなる私的な営みの空間が工場群と広い道路に隣接し、露わになっているということだろう。埋立地という公的な性格の強い空間に濃密な私的空間が併置されることによって、私が公に開放され共有されるようなシュールレアルな風景が現れる。これらの風景は厚岸における現在の漁業のありようを第一に印象付けるが、同時に一方で、それらが均質的な近代港の中において晒されているという違和感をも与えるのだ。
このように海岸と町が切り離され、それらの間に工場や倉庫などの大規模な施設あるいは空地が挿入されたことによって生まれた特徴的な風景はほかにもある。たとえば、まちの北側に位置する若竹町は従来回漕業者が多く店を構える町であり、彼らは屋敷裏の海岸沿いの広大な浜地を荷揚げ場として利用していた。しかし、築港による埋め立てとそれにともなう回漕業の衰退によって、浜地はそのまま空地となってしまう。その結果、町と船小屋という小さな要素によって構成された2つの私的な空間が巨大な空地を介して向き合うという奇妙な状況が生じたのである。このように、小さな私的空間が近代のタブラ・ラサに暴かれるような状況こそが厚岸の風景が有する漁業のまちとしての近代性を特徴づけているといえる。
厚岸では、こうした船着き場や船小屋にくわえて、まちのあちらこちらに散在する漁業に関する物や空間が日々の暮らしのなかに溶け込み、まちの空気感を醸成している。
湾月町の網元屋敷のまわりには漁の道具が溢れ出しており、近傍の空地には使われなくなった古い漁船が高く積み上げられている。道の脇や庭先に網やブイ、かごなどのさまざまな道具が置かれており、裏町では漁網を敷地の境界装置として用いている住居を見かけた。まちの端に位置する造船所の脇に所狭しと並べらたれた大型船や、食品加工場から流れだす蒸した魚や砕かれた牡蠣殻のにおいが五感を通して私たちの身体に入り込んでくるのである。
元来の密度の低さや空き地の増加にくわえ、とくに広大な空地を有する厚岸では、その余った土地の広さゆえに多くの物や空間が更新されることなく風景のなかに重層していく。過去と現在、そして公と私が混在した断片的な風景が厚岸のまちの暮らしの豊かさを語り継いでいくだろう。
最後にまちの外へと目を向けたい。過去と現在が混在する厚岸のなかで一際異質な様相を放っているのが新しく建設された地方卸売市場である。突然の雷雨のなか、海へと薄く張り出した装飾のない直線のボリュームに、生産の中心であることを選択したこのまちの覚悟の強さを感じさせられた。
目まぐるしく変化する時代の流れのなかで、交易の拠点から生産の拠点へと自らの役割を変えながら厚岸のまちは変化し続けてきた。そうした変化に応える住民たちの日々の実践のなかで現在の厚岸の風景がつくりあげられてきたのである。
2022年6月27日