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江部乙は、自動車または鉄道で札幌市街から1時間半程度の緩やかな丘陵地帯に位置する、農業を主幹産業とするまちである。同時にこの辺りは北海道中部、道央地方を流れる石狩川に沿ってできた広大な平地でもある。東南東から西北西にかけて緩やかに下っていく広大な斜面地がちょうど平らになる境の辺りに北北東方向に基幹道路である国道12号線が1本通っており、それを軸に左右に約1キロメートル、縦に約1.5キロメートルほどの居住区域が形成されている。また、隣市の滝川市街中心とは自動車で10分の距離であり、国道12号線と鉄道(JR函館本線)でつながっている。これらは開村当時からのライフラインであり、前者では大型トラックが頻繁に往来する様子も見られる。
自動車に乗って富良野の方面から来た私たちは、まちの東に広がる丘陵地を西に下っていくようなルートでまちに入った。麓の緩やかな直線道路を進んでいくと、勾配が徐々にきつくなるにしたがって視界が開け、石狩川に沿って広がる平野の美しい田園風景が目の前に現れる。坂を下りきり国道12号線に交わると突如としてロードサイドの風景にとらわれたのである。そこが江部乙のまちの中心であった。
江部乙の第一印象は「通り過ぎてしまいそうなまち」ということに尽きる。道を走っていると道の先や道沿いの建物は見えるが、それらの背後に広がるまちを見ることはできないし、気にかけもないだろう。しかし、その背後には、ほかのどこにも存在しないような美しい庭園が隠されていたのである。
平民に対象を広げた屯田兵村として明治27年(1894)に開村した江部乙では入植時より畑耕作やりんご栽培が営まれてきた。屯田兵制度廃止後の明治末期には水田耕作が開始され、また商業に転じるものが急増したことに伴い人口が増加、大正末期には灌漑技術が導入されたことによって水田が大きく拡張された。
その後、終戦に際して多くの引揚者や疎開者などが来住したことをきっかけとして急速に市街地化が進展していく。そして、1970年代から80年代の高度経済成長期において、都市計画事業による道路、公園などの整備が行われるとともに、滝川市街の郊外として住宅地開発が進められた結果、現在のような江部乙のまちができあがったのである。
その一方で、工業化の進んだ滝川市街に経済活動が集中していったことや自動車の普及、小売業の産業構造の変化によって、良くも悪くも滝川市街から電車で1駅しか離れていない江部乙のまちの商業は衰退していき、現在は駅前通りの商店街をはじめ、ほとんどすべての商店や飲食店が営業を終了している。ただし、国道沿いにコンビニエンスストアが2軒と薬局が並んでいるため、最低限の生活必需品の調達には間に合うだろう。生活機能や中高等教育などを滝川市街に依存する一方で、大規模な老人介護施設が公共民間1つずつと病院が1つあるように、高齢者向けの事業を充実させているのである。
また、最盛期の昭和40年(1965)代には東部の丘陵地帯に約630ヘクタールものりんご農園が広がっていた。その規模は縮小してしまったものの、寒暖差の大きい内陸性の気候によって、「江部乙りんご」として知られる質の高いりんごを栽培している。
江部乙は、国道12号線と江部乙赤平線の交差点を中心にして、およそ南北方向を長辺とした矩形状に広がっている。町割りは複数の東西の通りとそれらをバイパスするための数本の南北の大通りによって均等に分割されており、それぞれのグリッドには東西の通りに面するようにして住宅が並んでいる。しかし、こうした町割りは最初から存在したのではなく、農地が住宅地へと転用されていく過程で徐々に計画されてきたものである。
江部乙神社の北側の一帯は屯田兵時代の村があった場所であり、その場所だけはグリッドに従わない複雑な形状の敷地区分を残している。その正面に位置するようにして江部乙駅が建設され、屯田兵制度の廃止以降、前述の通りその駅前に商店街が発達していったのである。
戦前までは商店街を除いたほとんどの土地が農地であったが、国道を挟んで西側低地部の開発は比較的早く、1950年代から60年代にかけてこの商店街に隣接した田畑から順に住宅地へと転換されていった。それらの多くでは、道に面するように短冊状の敷地前部に住宅が建てられ、その裏側に畑が設けられていた。
それらの北側にはかつて練兵場が存在していたが、60年代前半にはその広大な跡地の道路整備が始められ、その後農協の集荷場や農業高校の用地、低層団地や住宅地として転用されていった。まちの北端に位置する住宅地は新しく、道路は整備途中であったが、若い家族が中心に暮らしている様子であった。
他方で、国道12号線の東側に関しては、戦前までは空知幹線用水を境に西側の低地に水田、東側の丘陵地にりんご園が広がっていた。戦後の航空写真からは、りんご園の範囲は用水をのラインを越えて広がっていたことがわかるが、70年代後半以降、これらの農地も徐々に住宅地へと転換されていった。
用水の東側には、かつて広がっていたりんご園の中心を通るようにして南北に農業道路が通されている。その通り沿いには、それぞれのりんご園に対応するかたちでりんご農家の住居が均等な間隔をあけて並んでいたが、この辺りはあまり開発が進んでおらず、現在まで古い空間構造が残っている。なかには当時のりんごの格納庫を残す家もある。りんご林がなくなった今、その半分が地中に埋まり、煙突のような給排気塔をもつ特殊な建築物が毛足の短い緑の絨毯の上に露わになっている。そして、それらの家の奥には農地が広がっている。丘一面のりんご園の大部分は畑となり、一部は自然公園となったのである。
江部乙の風景を特別なものにしている要因の1つは、その未利用地の多さだろう。前述の通り、東部の丘陵地においては、住宅地として開発するためにかつてのりんご園を更地にしたが、実際に開発された土地は少なく、所々に町並みの裏側に大きな空地が残されている場所が存在する。これらの空地は農地として利用されているが、私たちが訪れた際には緑鮮やかな芝が一面に生え揃った、とても気持ちの良い広場そのものになっていた。こうした空地は各住戸の裏庭や畑とも連続性をもっているので、空地を通して見る家並みが住民たちの日常の風景となっているといえるだろう。住宅地と空地の均衡がとれたこのような風景は、北海道の広大な自然を切り開き人間の住む場所へと転換してきた歴史と大地の存在を思い出させ、この丘陵地の先にある原生林へと思いを馳せさせる。
未利用地や空地は国道西側の低地においても重要な景観構成要素となっている。これらは土地の大小に関わらず、多種類の小さな花が咲きみだれる野生の庭園となっており、まちに生き生きとした印象を与えている。北海道ではセイタカアワダチソウのような背の高い植物が繁茂することはなく、自生するフキをはじめとした背の低い草花が全体のフレームをつくり、開放的で親しみやすい雰囲気を生み出している。寒冷地という場所柄、これらの植物が一年草であり、一年には一度更地に戻ることも、多くの空地の存在が住民にとってのストレスとならないための重要な条件である。
残念なことに少子高齢化や都市への転出による人口減少によって、まちなかの空地は増える方向にある。しかし、空地が増え、それぞれの空地が繋がることによって、これまでにはなかった視覚的連続性が生じている。こうした視線の抜けがまちの様々な場所で見られることによって、そしてなにより草花が咲き誇る時期にはまちの大きな庭として道行く人の目を楽しませることによって、現在の江部乙の景観は以前よりもさらに開放的で喜びに満ちたものになっているのではないだろうか。
一方で、美しく手入れされた個人の庭も数多く見られる。江部乙では、住居の前方にゆとりをもった戦後の一体的な住宅地開発がガーデニングの可能性を生み、美観意識とガーデニングを介した近隣コミュニティにおける交流の様式が各家庭におけるガーデニングの重要度を高めたと考えられる。興味深いのは住宅地によって庭の性格がそれぞれ異なっていることである。
国道を挟んで江部乙神社と対称の位置に中央児童公園があるが、その西側につくられた住宅地では、植木と野草の立体的かつ重層的な構成による野趣味溢れる庭が多くみられる。それらは道路上に溢れんばかりに豊かに生育している。また、同じ公園に直接面する商店街の裏庭につくられた色とりどりの草花による小さな庭園は、公園との視覚的な連続性によってピクチャレスクな趣を有している。これらに共通するのは公的な空間と私的な土地利用の曖昧な関係によって生じる荒々しさだろう。
西側低地部の住宅の庭の多くが荒々しい美しさをもっているのとは対称的に、東側丘陵地の住宅の庭は、樹木を多く用いた比較的落ち着きのある秩序立った美しさをもつものが多い。前者の庭が住民自身の庭仕事によってつくられているのに対し、後者は庭師の手によるものであるように思われる。
これらの個々の小さくも美しい庭と大きな野生の庭が公私の境を越えて緩やかにつながることで、まち全体が1つの庭園であるかような雰囲気が醸成されているのである。
江部乙は、喧噪や焦燥感とは無縁な楽園のような場所としてのまちのあり方を示すことができるだろう。高齢者のための施設を充足させようとする自治体の施策は、人口減少の時代に適切に応答したものであると思われる。交通や物流が発達した現代において、必ずしもすべてのまちが商業的な活動を行う必要はない。次に必要な行動は、育児を充実させるためにまちに何が必要かを考えることである。子どもが健康に育つための美しい風景と豊かな環境はすでに備わっているのだから。
2022年6月30日